岐阜県関市は伝統的な刀剣の産地であり、ゾ−リンゲンと並んで世界に知られる地位を築いてきた。現在の、刃物関連事業所の集中の起源となる産地形成の時期は、明治以前にさかのぼる。したがって歴史的な「産地型集積」の典型とみることができる(注1)。 ただし、関市の刃物産業は必ずしも順調な発展を遂げたのではなく、多少の集積の弱体化も経験してきたことに大きな特徴を持つ。ここではその発展の歴史を起源から現在までを「関市史-刃物産業編-」を参考に簡単に辿ることにしたい(図表1を参照)。
鎌倉時代末期、関の地域は京都と鎌倉を結ぶ東西交通の要所として栄えていた。 ちょうどこの時期に九州から「元重」と呼ばれる刀鍛冶が関に入り、関鍛冶の祖と言われる。その後、美濃伝鍛刀技法が発祥し、その優れた品質が評価を受けて室町時代中期から末期にかけて全盛期を迎えた。すなわちこの時期は対明貿易による刀剣の輸出量が増大すると共に、応仁の乱以降、戦争の集団化に伴う足軽の主力化から太刀ではなく打刀が主となったため、本格的な刀剣の大量生産が行われるようになったのである。 良好な焼き刃土、栗炭が近隣山間部に恵まれて関地域に三百人近い刀匠が集積し、刀剣製造の中心地の地位を確固とすると共に関七流と言われる流派も登場している。 しかし、室町時代末期の戦国時代には各地の大名が戦争に備えて刀工を抱え込むようになり、関の刀工が各地に召し抱えられる形となった結果、関鍛冶は衰えていった。 その後、江戸時代になって実際の戦闘がなくなると、刀の総需要が減少して刀の他に小刀・包丁・薄刃・剃刀・はさみなどの実用刃物中心の生産に徐−に変化していった(注2)。したがって、江戸時代に現在の生活用刃物を多品種製造する基礎ができたと考えられる。 (太刀:刃を下にして腰につるして着用した長さ約60p以上の日本刀、打刀:太刀に代わり室町以降に使用された。刃を上にして腰に差す長さ約60p以上の日本刀、60p以下は脇差、30p以下は短刀。)
明治維新後の明治9年(1876)に廃刀令が施行され、帯刀が禁止される。そのため刀から包丁やはさみなどの打刃物製造、農鍛冶への転換がこの時期にさらに進んでいく。 ただし、製造品の記録を見るとその内容は小刀や千枚通し、三稜針などの細かい生活用品が中心となっている。また、明治14年(1881)の記録では、関村の総人口約4,400人の内工業従事者は100人に満たず、刃物類の生産は半農・半工の形態が中心で専門的な職人の集積は少なかったと考えられる(注3)。また原料の鉄鉱石は既に輸入中心であった。 明治24年(1891)頃から関市でポケットナイフの量産が始まり、さらに明治42年(1909)には町役場が桑名から技術者を招聘し、鍛造加工による調理包丁の製造にも進出する。この頃から関市は本格的な手工業都市に成長していった。 その後、第一次大戦による輸出拡大は生産規模を大きくし、大正7年(1918)には、「関打刃物同業組合」が県から認可され、地場産業として地位を確保している。 しかし、戦後恐慌が起きた大正9年度(1920)には、関の打刃物の販売、製造業者のいずれも転業移住者が続出して、組合は整理困難に陥ったと記されている。また翌年においても輸出向製品の注文は殆どない状況であり、さらに組合員は減少した。 新潟県燕市の洋食器ナイフ製造の起源は、この時期に関の刀鍛冶職人10名を招いて製造技術を修得したものであるが、不況による関からの移住の感が強い(注4)。こういった事からもこの時期の関の刃物産業集積はかなり弱体化したと考えられる。
大正末期の不況時を比較的大規模な製造会社は生き残り、昭和5年(1930)頃になると生活必需品の包丁、ポケットナイフ、小刀、洋食器、生花道具等を主に、注文生産から遠隔地の消費地への供給を企図した見込み生産の形に移行し、原材料は製鋼会社から購入するようになった。このようにして、近代的な製造業に転換を遂げていった。 この頃の打刃物の流れは、自社工場で形抜きされた半製品を、別の自工場または小規模な家内工業で完成させる形態をとっていた。まず、加工業者の「すき屋」と呼ばれるところで、研磨機で荒削りの研磨を行い、刃付け成形する家に渡され、再びメ−カ−である刃物業者によって焼入れが行われる。次の仕上げ研磨から仕組みは、大半が農閑期の家内手工業者の利用などに支えられ事業が維持されていた。 昭和9年(1934)、刃物関連業者等から県立の金属試験場設置の要望が起こり、関町及び関刃物工業組合が建築設備などの費用を寄付して、金属工業の改良発達を図ることを目的として、昭和12年(1937)の4月に岐阜県金属試験場が設置されている。 昭和11年(1936)、打刃物の生産額は約300万円と、昭和8年の6倍に達し、恐慌の影響から脱して輸出の拡大を実現していった。この時期、品質の良さから全刀剣需要の大半を関市内製造品が占めるに至っている。また従来、替刃を輸入品に依存していた安全剃刀も試行錯誤を経て、完全な国産化に成功し製造販売も軌道にのっている。 昭和14年(1939)、刀剣産業は復興期を迎え、関刃物工業組合は国内生産の大半を担うようになった。さらに昭和16年春には、金属試験場で日本刀の古式鍛錬をエア−ハンマ−による機械化に成功し、製造業者への指導に多大な成果を挙げたとされる。
昭和20年(1945)の敗戦によって軍刀の需要はなくなる。さらに占領軍の軍刀回収命令もあって、軍刀はその市場価値を完全に喪失した。 軍刀という主力商品を失って危機に陥ったものの、昭和22年(1947)頃からポケットナイフ、洋食器刃物の製造に切り替え、輸出中心で復興が進んでいく。 この頃の製造過程は、製造販売を自己責任において行うメ−カ−は、自工場内で生産を行うが、工程間におけるプレス加工、荒研磨(すき)加工、熱処理加工、仕上研磨加工、仕組加工などは分業加工が行われた。 この内、仕組加工については、殆ど生産設備を必要としないことから内職が大半であった。その他の外注加工業者の立場は、安定したメ−カ−数社から受注を得ていればほぼ生活は維持できる状態にあったようである。流通は、産地問屋に集荷された後に最終消費地に出荷され、海外へは商社を経由して出荷される形ができあがっていた。 昭和30年代に入ると、経済成長による生活水準の上昇から製品の内容も多様化し、替刃も軽便カミソリの需要が伸び、ナイフもハンティングナイフ、ペ−パ−ナイフなど用途が広がり、栓抜、缶切の需要も増大していった。昭和36年(1963)、安全剃刃替刃は貿易自由化になり、従来の炭素鋼材に代わる外国のステンレス製替刃の輸入が始まった。これに対抗して国内の会社もステンレス製替刃の生産を開始する。このように国内市場の成長と共に競争も激化し、医療用、理美容用刃物製品の開発も進んだ。 昭和40年代に入ると輸出向けダイバ−ナイフの生産が増加し、固定相場制の中で高い国際競争力を維持し、輸出拡大に成功していった。これ以降、ゾ−リンゲンに並ぶ世界的な刃物産地としての地位を固めていったのである(注5)。
その後、変動相場制の下でも輸出は好調だったが、昭和54年(1979)には円高と輸入品の増大による売上減が著しかった。そのため「産地中小企業対策臨時措置法」(産地振興法)に基づく特定業種及び関連業種として、関の利器工匠具などが指定される。 また業界として輸出競争力の強化のために、品質の向上とデザインの研究が進められ、産地ブランド「セキ」の制定が行われた。円高基調が定着前の昭和59年(1984)をピ−クに輸出は減少基調を辿り、内需開拓等に迫られて現在に至っている。
本節の記述にあたり岐阜県刃物会館専務理事 武井 忠義氏、元重保存会 井戸誠嗣氏より御教示を頂き、感謝を述べさせて頂きます。ただし内容の責任は(財)岐阜県産業経済研究センタ−にあります。 図表1 明治期以降の刃物産業に係わる年表
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