21世紀の課題を考える

[出席者]
飯尾 潤(政策研究大学院大学助教授)
市川 宏雄(明治大学政治経済学部教授、(株)富士総合研究所客員主席研究員)
大西 隆(東京大学先端科学技術研究センター教授)
小塩 隆士(東京学芸大学教育学部助教授)
佐山 一郎(ノンフィクション作家、編集者)
進士五十八(東京農業大学地域環境科学部教授)
新田 義孝( (財)電力中央研究所企画部部長、四日市大学環境情報学部教授)
福田 眞人(名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
藤崎 宏子(聖心女子大学文学部助教授)
三浦 賢一(科学ジャーナリスト)
米本 昌平(三菱化学生命化学研究所科学技術文明研究部長)
(司会)高津定弘((財)岐阜県産業経済研究センター副理事長)


高津 (司会)  本日はお忙しいところお集まりいただきまして、 誠にありがとうございます。 この座談会は 「21世紀の課題を考える」 をテーマに、 各編集委員のご専門を生かしながら自由闊達にご議論いただければと考えています。
  まず、 ここにご参加の市川先生と、 折に触れさまざまに語りあってきたことを論点として例示で8つほどあげさせていただきたいと存じます。 必ずしもこれから申し上げることにとらわれる必要はございませんが、 ご参考までにご説明いたします。 少々長くなりますが、 前半4つを市川先生の方から、 後半4つを私の方からご説明します。

論点
 (1) 数の多さが社会変化を誘発するとすれば、どのような変化が考えられるか。
 (2) 低成長、人口減がもたらす成熟社会の姿とはどのようなものか。
 (3) 日本没落論は正しい将来像か。没落ではない長期的、総合的な日本ビジョンの構想が必要ではないか。
 (4) 個人の資質が重要となる社会システムは何を生み出すのか。
 (5) 活力再生には速い「変化」が重要となるが、具体的にどうすればいいか。
 (6) マイカー、郊外マイホーム、大量消費を特徴とするアメリカ型ライフスタイルは今後とも持続可能か。新たな生活様式を生み出す必要はあろうが、日本ではその転換は不可能ではないか。
 (7) 多自然居住、環境、健康、文化の重要性が高まる21世紀はどのような姿か。大都市の対極にある小都市とはどのような機能と役割を果たすことができるか。
 (8) 教育改革の方向性はどのようなものか。

市川  まず、 第1に、 「数の多さが社会変化を誘発するとすれば、 どのような変化が考えられるか」 ということです。
  戦後ベビーブーマーである団塊世代は、 戦後日本の復興・発展を支えた 「宿命の世代」 であり、 数が多いことに加え、 既存の価値観や社会の仕組みを変えてきたことから21世紀にも何かを起こすという予感がある。 その一方で、 団塊世代は単なる 「粗大ゴミ」 にすぎないという考え方もありましょう。
  今や人生80年時代といわれています。 団塊世代の前世代は人生60年を前提に人生設計をしていればすんでいたし、 社会システムも現行システムである人生60年用で対応できました。 団塊世代以降の若い世代は人生80年のライフスタイルの設計をするという心構えがあらかじめあるだろうし、 社会システムもかなりの程度対応済みでありましょう。 しかし団塊世代は個人の人生設計 (人生80年) と社会システム (人生60年) との調整に関して端境期にある世代といえます。 このずれが変化にたいして積極的になれないのかもしれません。 個人的にずれを感じているにもかかわらず、 社会的な変化は期待できないかもしれません。
  団塊世代が社会からいなくなれば、 東京問題、 年金問題などの構造問題が解決するともいわれます。 暴れず騒がずそっと社会から退いてもらうという考え方もあるでしょう。 そういう意味で、 21世紀論は、 団塊世代よりも団塊世代の亡き後の時代 (2030年以降?) における日本の長期構想がより重要になるかもしれません。 その一方で、 50歳になってもとにかくがんばる団塊世代ということで、 彼らが団塊世代中心の構想、 行動を何か仕掛けてくる可能性もあります。 常に社会は有為な若者の存在を前提としているとした場合、 彼ら (若者世代) の言うことを聞かない老人 (団塊世代) 中心の意思決定が行われる社会の進む方向とは一体どういうものなのでしょうか。
  第2に、 「低成長、 人口減がもたらす成熟社会の姿とはどのようなものか」 ということです。
  このままの状況が大きく変化しないとすれば、 21世紀には、 いわゆる20世紀型の日本の経済発展は終焉するでしょう。 高度経済成長による所得再分配機能が、 国民生活、 地域間の格差縮小を図り、 結果として平等の社会を生み出したともいえますが、 このシステムが21世紀においても引き続き有効であるかどうかということが議論される必要がありましょう。 低成長経済で少子高齢社会、 加えて国際標準で地球規模の市場競争を前提とする環境のもとで、 どのような新しい要素を日本のシステムに付加すれば機能維持が可能となるのか。 その変化可能性と萌芽は具体的にどのようなものでしょうか。
  第3に、 「日本没落論は正しい将来像か。 没落ではない長期的、 総合的な日本ビジョンの構想が必要ではないか」 ということです。
  21世紀に日本は衰退に向かうのでしょうか。 仮に衰退しないとしたらどういうシナリオが立案可能なのか。 最近出版された森嶋通夫著 「なぜ日本は没落するか」 では、 世代論的人口分析 (注:人口の意味は2つあり、 数と住民としている。 ここでは後者?) から戦後世代が社会の過半を占めるに至った1990年代以降、 2050年に日本は没落するのは必然であると主張しています。 この説に対して戦後世代グループの最初及び代表である団塊世代はどう考えているのか。 没落は不可避なこととしてあきらめるしかないのでありましょうか。
  第4に、 「個人の資質が重要となる社会システムは何を生み出すのか」 ということです。
  21世紀は知的な個人活動が中心となる社会ともいわれ、 時空を超えた高速移動機能とインターネットで代表される情報機能が支える高度な個人活動は、 社会システムの高質化に大きな影響力を及ぼし、 その傾向は強まる一方だとみられます。 団塊世代は世代としては最大多数を占めるため、 例えば消費、 年金を左右するなど需要面の機能をもつ一方、 もう一方では、 個人単位として高質な役割・機能を社会に提供できるかという供給面の機能を持ち合わせています。 21世紀において団塊世代が主体的役割を果たすとすれば、 一人一人の個人活動がどの程度あるいはいかなる限界まで機能発揮できるかが問われていると考えられますが、 その可能性をどうみるか。 団塊世代で何割ぐらいの個人がこの役割を担うことが可能でありましょうか。
  団塊世代は単に、 自己主張は強いが社会的な規範を身につけていないという特徴があるだけかもしれません。 また30年前に社会に発散した青春のエネルギーは、 21世紀の望ましい社会変化のなかで期待されるエネルギーとして再発散できるのでありましょうか。
  それでは、 高津副理事長の方にバトンタッチいたします。

高津  第5に、 「活力再生には速い 『変化』 が重要となるが、 具体的にどうすればよいか」 ということです。
  例えば徹底した個人実力主義を基本とするグローバルスタンダードは社会の変革に有効でしょうか。 戦後に形成された、 個人を全体が柔らかく包み込む優れた特徴がある日本経営システムは社会の隅々まで浸透しましたが、 同時に一部で機能不全を引き起こしています。 この状況をどう変革したらよいでしょうか。
  日本において個人活動の活力を最大限引き出すにはどうしたらよいのか。 アメリカのように個人の能力を金銭で換算評価する社会システムを徹底すればよいのか。 その際、 どの所得階層の労働分配率を高めれば経済活性化に有効なのか。 その結果、 所得格差拡大に繋がる可能性が高いが、 活力再生を優先させることによる副作用として甘受すべきかどうか。 もちろん、 政府は最低限の所得保障をするセイフティネット策を堅持すべきでありましょうが。
  アメリカのGE (ゼネラルエレクトリック) のジャック・ウェルチ会長は、 変化こそが最大のビジネスチャンスと捉える企業経営者です。 この意見は自立した社会規範のある個人が前提となるでしょうが、 彼は全体の5%ぐらいに属する少数派でありましょう。 残りの大多数は個人的には失業や老後に対する不安等からアル中、 ノイローゼになったり、 ドラッグに走ることも考えられ、 社会的には精神的に病的な社会が生まれる可能性もあります。 これまでは拡大する経済成長路線のなかで全体方針あるいは組織指示に従順していれば、 総じて安定した豊かな生活が保障された一人一人の人生が、 今後は必ずしもそうならない可能性が高い時代へ移行する過程で、 一人一人がみずからの価値体系の確認を迫られることになるでしょう。 その際、 団塊世代の多くは、 そもそも確認する勇気をもっているのかどうか、 そして意味ある結果を見出せるかどうかが問われていると思います。
  人生80年時代を前提とすれば、 ベンチャーで挑戦するにはすでに時遅しとはいえ、 豊かな経験と知識があれば、 50歳代でも積極的に起業するというシナリオも可能性があるでしょう。 企業はコスト引き下げに有効な人員削減をせざるを得なくなり、 今後は多くの企業は終身雇用と年功序列制から徹底した能力主義による年俸制と長期雇用を組み合わせた経営に変化するのではないでしょうか。 21世紀は一人一人の個人からみれば2通りの選択肢が用意されることになるでしょう。 他者との差別化をはかり、 仮想的企業ともいえる必要に応じてプロ (専門家) を組み合わせたプロジェクトチームを基本とする小規模経営者の道を選ぶか、 企業からみても能力発揮が十分可能な企業に専門家として雇用されるかの選択になるでしょう。 問題はこの選択肢に合格しない大多数の個人 (非プロ・大衆) はどうなるか。 雇用を守るとすれば国際的にみて高くなりすぎた賃金を半減させる必要がありますが、 果たして人々はどういう選択をするか。 低成長下において優雅でなくても細々と生き長らえるだけで結構とするか、 貧富の差が拡大してもやむなしとするのか。 前者は情けないどんよりした社会になるでしょう。 後者は暴動が起きる等、 非常に危険な社会となる可能性が高いでしょう。
  第6に、 「マイカー、 郊外マイホーム、 大量消費を特徴とするアメリカ型ライフスタイルは今後とも持続可能か。 新たな生活様式を生み出す必要はあろうが、 日本ではその転換は不可能ではないか」 ということです。
  日本には中流意識が形成されています。 性別、 60歳以下でみた世代別、 職業別、 所得別、 居住地別など、 一人一人の基本属性の違いによる意識、 考え方に大きな差異はないのではないでしょうか。 昔は階層毎にふさわしいとされる規範、 教養、 公精神が識別できたと思います。
  日本の例示として岐阜県をとりあげれば、 どこかの都市から高速道路のインターを選ぶのに東西南北多数もあるというように、 ある意味ではアメリカンライフを享受するために最高水準の社会資本整備を完成しつつある地域においては、 例えば都市の賑わい創出をどう考えるかという問いかけに無反応であるなど、 一人一人のパブリックな意識は希薄であろうし、 一家4人の平和なマイホームを理想とする円満な物質的生活と個人単位のマイカー通勤通学が人生のすべてであるかのような生活様式が一般的になってしまっています。 この構造あるいは現実について、 どのような理解や認識をしているか、 あるいは場合によっては新しい生活様式をどのように創造する意欲をもつかが一人一人に問われています。
  例えは悪いのですが、 貧乏人は努めて金持ちのように振る舞い、 金持ちはそれにふさわしい立ち居振舞いを備えていないなど、 資産格差感覚が少ないことによって日本の中流意識は維持されてきており、 それが外見的には平等社会を形成しているともいえるのではないでしょうか。 本当は、 もう9割もの人々が中流意識を持つのを必要としなくなった時代なのかもしれません。 本音、 本質、 本物が問われる時代であるべきなのかもしれません。
  しかしながら、 社会の仕組みを変えるべき役割をになう政治は二世化、 三世化が進み、 変化にたいして危機感を持っていないようです。 官僚も天下国家を語る勇気と資格を失ったかにみえます。 規範なき規制緩和が進行した最終ゴールにはいかなる社会像が待っているのか。 さまざまな主体の参加により、 総合的な将来像を検討すべきではないでしょうか。 その際、 基本となる理念はなにか。 行き着く先がデフォルトという姿だけは回避しなければなりません。
  第7に、 「多自然居住、 環境、 健康、 文化の重要性が高まる21世紀はどのような姿か。 大都市の対極にある小都市とはどのような機能と役割を果たすことができるか」 ということです。
  近年、 農業など多自然居住地域に対する認識に新たな関心、 視点が生まれています。 農業白書によれば、 平成2年以降、 年間4万人が農業にUターンをはかっているそうです。 構成員が少ない日本の農村部に多くの大卒者が入り込むことによって意思決定の革新と新たな地域創造が始まる可能性が高いのではないでしょうか。 農業は全産業の1割程度しか占めていないとはいえ、 空間的には大きな割合を占めています。 Uターンなど、 ルーツを持った人は受け入れられる可能性もあり、 これは一人一人の人生キャリアという休眠資産を再利用あるいは有効活用しているともいえるのではないでしょうか。
  一人一人の豊かな人生を創るのに寄与する小都市の構想がうまく描ければ、 単身赴任など家族維持の問題が生じる可能性はあるにしても、 東京に集まり過ぎたエリート層を拡散させ、 東京並みの機能を日本各地域に作り出すきっかけになるのではないでしょうか。 一人一人の個人がその選択を迫られており、 団塊世代は特にその渦中にあるのではないでしょうか。
  第8に、 「教育改革の方向性はどのようなものか」 ということです。
  多くの人が一人一人に変化を求めてもいないし、 逆に求められてもいません。 これは自主性をつぶすような教育が学校においても企業組織においても行われてきた結果であり、 社会的な背景が変わればアメリカのように変化をチャンスと捉えて社会を大きく変革していく人間が出る可能性もあります。 ただ、 自主性とわがままを立て分けることは必要で、 規範やあるべき価値観の体系を持ったリーダーが人材育成を行っていく必要があります。 しかし組織のトップは優秀であっても部長クラスを始め構成員に人材が少ないのが現状であり、 変革を促すための危機感をどうやって与えるのかが課題となるでしょう。 この状況をどう変えるかが問われているのです。
  以上、 8つの論点をふまえて、 現状認識、 21世紀の未来像、 専門分野からみた実現のポイント・方策等について議論していただければと思います。 それでは、 トップバッターとして科学・情報技術社会分野をご担当いただいております三浦さんの方からお願いします。
  
質問項目
  (1) あなたは現状をどう捉えますか。
  (2) 21世紀は上記のような時代になると考えられますが、 それについてどう思いますか。
  (3)  もし将来そうなるとすれば、 あなたの専門分野でどのようなことが重要になるでしょうか。 そしてそれはどうすれば実現するのでしょうか。
  
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  科学の終焉と現実感の希薄化
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三浦  科学というのは、 今、 これまでの景気のよかった時代から、 かなり不景気な時代に入っているというのが私の基本的な認識です。 それはどういう意味かというと、 ジェームズ・ホーガンというアメリカの科学ジャーナリストは 「科学が成功したゆえに、 科学は終わった」 というのです。 大きな問題はかなり解決してしまい、 後に残っている問題は解決が非常に困難なものであるというのです。 それは、 解決するにはコストがかかるようなものであり、 「収穫逓減の法則」 のカーブが寝てくる領域に入ってしまっているというわけです。 私は基本的にはこの指摘は当たっていると思います。
  科学は19世紀以降、 非常に華々しく展開してきていますが、 今世紀の'60年代、 '70年代は特に豊かな実りがあった時期です。 今の物理学、 宇宙論、 生命科学の大きな枠組みの大部分がその時期につくられました。 ですから、 これからは純粋科学にとっては大変な時代に入ると言えます。 科学自体に魅力がなくなり、 若者がそれに向かおうとしない。 そうすればおのずと推進力は落ちてきますね。 問題が難しくなって推進力が落ちる。 なかなかこれは厳しいなという気がします。
  その反面、 技術の分野において   これは科学の成果を日常生活に役立つような形で実現するというのが基本ですが   顕著なのはやはり情報科学の進展です。 もう一つは生命科学の基盤ができたことで、 生命操作、 生命技術が相当実用的になってくるだろうと思います。 生命科学については、 後ほど、 医療分野ご担当の米本さんからお話が伺えるかもしれません。
  情報科学において心配なことは、 現実と仮想の境界がなくなってくるのではないかということです。 例えば 「戦争ゲーム」 をやれば 「戦争」 というものを非常にリアルに仮想空間のなかで体験できてしまうわけです。 ビジュアルなものは奥行きのある映像で再現され、 音も当然出てくる。 触覚、 嗅覚等、 他の感覚の範囲にまでそれは及んでいくでしょう。 そうすると現実に非常に近い体験が仮想空間のなかでできてしまう。 一方で実際の戦争の方も、 ゲームでボタンを押す感覚で本物のミサイルが発射できるというのは恐ろしくないだろうかというのが一つの問題です。
  もう一つは、 仮想空間のなかで現実の代替ができてしまうことによって、 心理的な面、 行動の面において現実と仮想とがごちゃまぜになってしまう。 そうなりますと、 特に若者の中で今までの人間関係が全く通用しない世界ができてしまうのではないかという懸念があります。
  技術の進歩は否定できません。 倫理的にみておかしいというようなことでもやる人はやりますから、 それを前提としたうえでどういうモデルを考えていくかというのが対処方法だと思います。 かなり厄介な問題も出てくるだろうし、 あるいはものすごく面白い展開があるかもしれない。

高津  科学が大きな成功をおさめたがゆえに 「科学は終わった」 とおっしゃいましたが、 ある意味で、 技術の進展に伴う 「現実感」 の希薄さが 「人類の終焉」 にまで結びつくことも考えられるわけですね。 若者における人間関係の変容というものが、 21世紀の社会において吉と出るのか凶と出るのか、 教育という問題も含めて、 あらためて考える必要があるでしょうね。
  
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  世界の医療政策の奇跡
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高津  それでは、 続きまして先ほどお話の出ました医療分野ご担当の米本さんいかがですか。

米本  一言で申し上げて、 医療政策の分野では、 日本は世界のお手本になってしまっているのです。

高津  そうですか。 それはどういう意味でお手本なのですか。

米本  日本は男女共に世界最大の長寿国ですよね。 1億2千万人が世界最大の長寿国ということは世界の医療政策の奇跡です。 例えば、 第2位の長寿国は男性でいうとアイスランドなのですが、 27万人しかいない。 第3位がノルウェーかスウェーデンだったと思いますが、 400万人か600万人ぐらいで東京都よりも小さいんですね。 そうしますと日、 欧、 米という三極でみた場合、 日本の1億2千万人が男女ともに丸ごと世界最大の長寿であるというのは大変なことなのです。 これは医療政策における大成功を意味しており、 他の国は追随できません。 それは、 裏をかえせば高齢化に伴う問題が最も深刻であることを意味しています。 日本はそれらを解決するための、 世界のフロントランナーであるといえますね。

高津  なるほどそういう捉え方もできるわけですね。 他にお手本がないし、 これだけの規模の大きさですからね。 しかし、 我々はふだんそういった意識は薄いと思います。

米本  そうですね。 確かにそういった実感には乏しいのかも知れませんが、 人類至上初めてのステージに入っているのは間違いありません。 しかも老齢化が非常に急速になっています。 労働人口では今が一番良い時で、 これからは徐々に減り始めていきます。 ただし、 経済上の不況が回復しても失業率はそんなに下がらないと思いますので、 こういう状態が続くのだと思います。

高津  経済的にひとりひとりが非常に豊かな国ですから、 医療技術、 延命、 美容、 あるいは老醜化を防ぐということに対して投資をするとみられます。 そのインパクトにはかなり大きなものがあると思うのですが。

米本  いや、 できることは現時点で全部やってしまっていると考えていい。 人間の寿命は生物学的には120歳といわれますが、 どう頑張ってもだいたい110歳ぐらいまでで死ぬわけです。 日本の人口構成をみますと若死というのは少ない。 途中で死ぬのは事故や自殺なんですね。 75から80歳ぐらいでだいたいスポンと亡くなっているんです。 そういった意味では延命についてもほとんどやる事がなくなってしまった。

高津  よく話題にのぼる遺伝子操作やクローンなどはいかがなのでしょうか。

米本  そういった分野の影響は微調整程度に考えた方がよいと思いますね。 今の日本人の食生活や労働は、 ストレスはたまっていますけれど瞬間的にみると良い状態だと思いますね。 食生活からみても、 生活におけるエネルギーの使い方にしてもです。

高津  この状態がしばらく続くということですか。

米本  そう思いますね。 ある種の余裕をどう上手く使い切るかということだと思います。 なぜこんなに良いかというと、 一番の理由は国民皆保険です。 アメリカの医療費はGDPの12%を超えています。 日本は6.6%。 40兆円だとか50兆円といっていますが、 日本のGDPからいえば非常に小さい額です。 アメリカは経済規模が日本の倍ですから、 実額で言うと日本の医療費のだいたい4.5倍ぐらいを医療費に使っているにも関わらず、 日本のような世界最大の長寿国が実現できていない。 なぜかといえば、 アメリカは先進国では、 唯一、 国民全体をカバーする社会保険を持っていない国でして、 下層中産階級は医療保険を買えないのです。 そのため金持ちは良い医療を受けられるのに、 ある一定以下の人は受けられないのです。 そのために世界最大の長寿国日本に大きく水をあけられている。 日本の場合は戦後に武見太郎・日本医師会長が国民皆保険を最終的に確立しました。 ホームレスの人が体が悪くなっても、 即、 救急車を呼んで入院出来るんですね。 お金が払えなければどこからか負担する仕組みになっていまして、 基本的には所得に一切関係なく医療が受けられるというのは、 資本主義国において命に関わる医療給付だけが社会主義給付になっているからです。
   「2時間待って2分医療」 と悪口をいわれますが、 GDPの高々6.6%で世界最大の長寿国が実現するということはこういうことなのです。 92年にクリントン政権が出来て、 アメリカ全体の社会保険を作ろうとして日本に調査に来ました。 日本の良好なパフォーマンスの裏には、 ものすごいリーダーシップとアクションプランがあるはずだと考えていたのですが、 日本の医療がいかに悪いかという話ばかりで驚いたようです。 結局、 日本社会というのは、 リーダーシップはないのですが、 皆がそこそこに優秀で無理がきく社会なのです。 患者にしわ寄せが行っている面はあるにしても、 かなりのハードワークで今の医療サービスが支えられている。

高津  世界における日本の医療パフォーマンスの高さを表すのがひとつの指標が長寿化であるとのお話ですが、 日本人はその良さに気づいていませんね。

市川  それは医療技術が高いのか、 薬を比較的大量に使うからなのか、 キーファクターは何でしょうか。

米本  要するに通常の生活レベルが上がった。 栄養条件が良くなり、 重労働がなくなり都市の衛生環境が良くなったことが大きいですね。 栄養やある種の生活スタイルが高度成長期の入り口ぐらいで、 非常に良い方向に均質化したということですね。 厚生省や医師会が頑張ったからだというのですが、 統計上はそうみえるのですが、 やはり栄養条件、 生活レベルの向上の方が大きいでしょう。 それは空気、 水が汚れている東京の方が地方よりも長寿であるということに表れています。

高津  それは非常にエネルギーを多く消費していたり、 食料も世界中の栄養価の高いものを独占したりということがあるのではないでしょうか。

米本  栄養価が高いというよりも、 世界中の食生活からみると日本の今の肉の取り方が良いのです。 贅沢をしているというよりは栄養バランスが一番良いと思います。

高津  ある意味では奇跡ですね。

米本  偶然ですね。 さらにいいますと、 例えば世界の都市問題を考えた場合、 スラム問題、 ホームレス問題、 人種問題が深刻でない巨大都市というのはあり得ないのですが、 日本の場合、 東京はホームレスが多いといっても3千人か4千人単位です。 アメリカの大都市では万単位で、 バングラデシュに至っては何十万、 何百万単位なんですよ。 そういう意味では日本は千葉、 横浜の辺を含めた関東圏に2千5百万人が住み、 大した争いもなく過ごしている。 同じような価値観を持ち、 同じような時間を過ごす。 世界最大の長寿国でもあり、 これだけ衛生的な巨大都市はないのではないでしょうか。

高津  そう思いますね。 ヨーロッパで一部、 再開発をしてきれいになっていますが、 規模が小さいですからね。

米本  マクロでみた場合、 日本は人類の文明ステージの相当変わったところに入り込んでいます。

高津  たまたま日本では首都圏とか東京という地域の機能的な意味の共通性が、 今まではプラスに働いたんだろうと思います。 そこを構成しているひとりひとりが、 あまり自己主張しないし、 義務教育が相当ハイレベルであったために能力的にも均質だったと思います。 いろいろな外的要因がプラスに働いた。 しかしおそらく近いうちに崩壊過程に入っていき、 共通性、 パブリックな精神、 コモンズといったものが剥落してくると考えられます。

米本  日本のサラリーマンは多少時差通勤をしているとはいっても、 ほとんどの人が文句も言わずに混んだ電車に乗り、 10時には出社しています。 こういう姿を外国人がみると、 日本人は、 例えばコーランとか聖書のように秘められた共通のテキストを持っているのではないかというように感じるようです。 これだけ同じ行動をとる人たちがいるということは何かあるだろうと。 回教は時間になったら必ずお祈りするじゃないですか。 日本人のこれだけ大量の人間が何の疑問も持たないまま、 同じ時間に起きて、 昼はみんなで並んで食事をし、 1時半頃には戻るのが不思議でたまらないのでしょう。 しかしそんなテキストは我々は持っていません。 それなのにみんな同じ事をやってあまり大過なくこれだけのエネルギーを使ってみんな平和に暮らしているわけですよ。 現時点ではそうなっていますが、 永遠に続くとは考えられない。 そうなったときの、 次の共通のモデル、 シナリオがあるのかということになりますと、 悲観論を唱える人と、 いや未来はあるのだという2つに分かれると思うんです。

高津  あまりにも東京において良い仕掛けができすぎてしまったために、 私は悲観的なんですよ。

米本  外からみると良いものを作ったように見えるのですが、 誰が設計したわけでもなく自動的にできたのだと思います。 都市設計としては大失敗しているんです。

高津  強い意思をもってつくったわけではないんですよね。

米本  日本は世界先進国だというのですが、 ヨーロッパから飛行機に乗って成田に降りたって東京に向かいますと、 都市の計画性がないめちゃくちゃな家の並びなのです。 明らかに香港や台湾など東南アジア系の発想で、 ヨーロッパの首都の設計でもないしワシントン型でもニューヨーク型でもない。 全く違います。

高津  米本さんからは 「長寿化」 をキーワードにさまざまお話を伺いましたが、 高齢化が話題に上ったところで、 年金問題等にもお詳しい経済・雇用・労働分野の小塩先生はいかがですか。
  
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  人口動態の変化に対し頑健なシステムづくりを
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小塩  私は、 一応経済学が専門なのですが、 その方面から申し上げたいことがあります。 まず現状の認識なのですが、 景気とか経済という短期的なものの見方からしますと、 バブルが崩壊後の不況、 バランスシート調整、 デフレスパイラルといった問題がありますが、 もう少し長期的な調整過程が今進行しているのではないかと思います。 私はポイントは1995年だと思います。 なぜそう思うかといえば、 この頃に日本の労働供給がピークを打ちまして、 それ以降はマイナスになっております。 伸び率が低下するのではなく、 減少という過程に入っております。 それはマクロ経済学的には長期的な潜在成長率の低下ということを意味しますし、 はっきり申し上げてマイナスの成長率でも全然おかしくない。 むしろプラス成長が異常であるというようなことになるのではないかと思います。 短期的な調整に加えて、 長期的な調整過程にあるという難しい時代だろうと思います。 それと歩調を合わせる形で、 今までの社会経済システムを見直す必要があるという議論がいろいろ出てきています。 それが現状認識です。
  それで21世紀はどうなるかという議論ですが、 経済学ではよく定常状態の比較と移行期の比較を分けて議論するということをします。 今までは人口が順調に増加してきた時期であり、 それはそれなりに一つの定常状態だったと思います。 これからは人口が減少するというのが一般的な形であり、 それが定常状態になるわけです。 おそらくここに集まっておられる方々の念頭にあるのはだいたい20〜30年先だろうと思います。 50年先だと生きているかどうか分からないということです。 そうなると21世紀の問題といっても、 人口が減少していくという定常状態の話というよりも、 むしろ人口が増加してきた時代から減少していく時代への移行期の問題の方が実は大きいのではないかと思います。 そうなりますと、 やはりポイントは人口動態の変化に対して世の中がどのように変わっていくかということだろうと思うのですが、 2つだけポイントを申しますと、 1つは市場で調整できる部分と政策的に調整をしなければならない部分とのズレが出てくる可能性があるということです。 人口が減少し、 少子・高齢化が進むなか、 世の中においても自然に調整が進む部分はあると思います。 例えば年功賃金がダメになり能力賃金制が出てきたりとか、 あるいは終身雇用が崩れるとか、 そういうものは放っておいても進む話だろうと思うのです。 ところが、 社会保障や税制に関しては、 そのままにしておいたのでは過去の形を引きずるということになりますので、 人口動態の変化に対応して制度改革を進めなければ、 市場での調整と制度改革との狭間で人々の経済的な利益が失われるという危険性がこれから出てくるのではないでしょうか。 それが移行期の問題点の1つです。
  もう1つは、 利害対立が明確になるのではないかということです。 今までの社会経済システムで結構メリットを受けていた人たち、 それが今回の大きなテーマである団塊世代の人たちだろうと思います。 それに対し、 今のシステムでデメリットを受けている人たち、 アウトサイダーの人たちもいます。 具体的にいえば、 女性とか定年後の高齢者は今の仕組みのなかではあまり居心地は良くないはずです。 まあ、 良いという人も中にはいるかもしれませんが。 そうなると仮に制度改革を進めるとはいっても、 それによってメリットを受ける人、 デメリットを受ける人がはっきりと出てきます。 これが移行期の問題として意識しなくてはならない2番目のポイントだろうと思います。
  そこで、 団塊世代のことについて一言申し上げますと、 やはり今までの社会経済システムを作ってきた主役がこの世代だろうと思います。 後でいろいろ議論があると思いますが、 これから少子・高齢化が進むと、 自分たちが作ったシステムで自分たちが苦しむというところが出てくるのではないかなと思います。 特に年金や医療などは、 人口が順調に増加することを前提にして作り上げられている部分がありますが、 その仕組みが、 団塊世代の人たちが引退したときにうまく機能しなくなるという危険性がかなりはっきりしてきています。
  そうすると、 どのような対応がみられるか。 私の楽観的な観測なのですが、 団塊世代の人たちが引退近くになった時、 あるいは引退してから、 あまり若い世代の人たちに負担をかけないような仕組みというものを自分たちがイニシアティブをとって作り出すのではないかという気がしてならないのです。 と申しますのも、 我々くらいまでの世代は大丈夫だと勝手に自信を持っているのですが、 それ以降の世代は何となく頼りない気がするのです。 そうしますとその頼りない世代によりかかっている仕組みが成り立たなくなるのではないかという気がして、 自分たちでちゃんとしっかりとした社会保障の仕組みなどをこれから団塊世代の人たちがリーダーシップをとって作っていくのではないかなという気がします。
  それで3番目の、 どのような仕組みが良いのかという話です。 私は社会保障などについていろいろ勉強していますが、 1つの理想像として、 やはり人口動態の変化に対してかなり頑健といいますかロバーストな仕組みとをこれから作っていかなければならないし、 そういうものをぜひ団塊世代の人たちにつくってもらいたいと思うわけです。 年金や医療では、 自分たちで自分たちの面倒を見る、 他の世代の人たちにあまり迷惑をかけないという、 各世代で完結しているような仕組みをつくっていくことが望まれるわけです。
  ところがここでちょっと問題があります。 ここは政治学の話になるので私よりも飯尾先生に是非お伺いしたいと思うのですが、 今までの仕組み、 政治的な意思決定の仕組みというのは、 これから人間がどんどん増えていくことを暗黙のうちに想定していると思うのです。 仮に政策のミスが発生したとしても、 後でたくさん人間が出てくるためにある程度処理ができる仕組みだと思います。 だから、 将来世代に少しくらい負担がかかる仕組みを今の世代が決めたとしても、 後で修正がきくというようなことで民主主義的なルールが成り立っていたと思うのです。 各時点で世代の利害を反映するような意思決定をしたとしても結構回っていた。 これからの世代はどんどん頭数が少なくなりますから、 各時点の意思決定の失敗が将来世代に直に響くといいますか、 解決できない形で失敗が残ってしまう危険性があるのではないかと思います。 つまり、 各時点の世代の利害を反映した意思決定の仕組みが、 次の時点では問題を引き起こし、 その問題が処理できないということが起こってくるのです。  

高津  経済学ではそこを対象にしていなかったのですね。

小塩  していなかったと思います。 それは今まであまり世の中にはなかった仕組みなのですね。 将来世代に対し、 我々はどう思うのかということを政策的に意識しなければ、 いろいろなところで問題が起こるのではないかという気がしますね。

高津  でもそこは時系列の利子率かなんかを計算して、 将来価値を現代に換算して…。

小塩  今、 高津さんは将来価値とおしゃったのですが、 どこまで考えるかということですよ。 他の将来世代の利害をどこまで意識的に考えて現時点で意思決定をするかという。 それは今まではそんなに意識しなくても良かったのですが、 これからはかなり意識的に考えなければ問題が出てくるのではないかという気がします。

高津  先ほど小塩先生から、 政治的な意思決定の仕組みについて飯尾先生にお伺いできればというお話がございましたが、 いかがでしょうか。
  
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  意思決定システムを確立し、 日本の進路を問え
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飯尾  意思決定システムは、 まさに今日お話しすることの核心ですが、 小塩先生のご質問に対するお答えについては、 話す順番がありますので後でお話をいたします。
  まず 「あなたは現状をどう捉えますか」 という点についてお話します。 私の感じでは、 日本は一つの曲がり角というか、 選択できる最後のチャンスを迎えていると思います。 先ほどお話に出た現在なされている政府による所得再配分が、 人口が増大せず、 成長が止まるために、 将来的には不可能になるというのは、 すなわち先進国になったということなのです。 先進国になるまでの政治に対し、 先進国として維持するための政治というのがあるのでしょうが、 これは大変難しいことです。
  先進国が先進国として再生するというのは、 世界の歴史でみるとほとんどないといってよい。 社会が成熟するというのは、 それぞれの利益がきちんとできあがるということを意味します。 政治はその利害を調整するのが役目ですから、 政治の仕組み自体もしっかりできあがってしまいます。 そうしますと成長しきった段階では政治の仕組み自体も成長しきっていまして、 新しく出てきた問題に対しても既存の仕組みを使って対処しようとしますから、 非常に後ろ向きの対応にならざるをえない。 これは政治の宿命です。
  だからできあがった政治の仕組みを一遍つぶさないと、 次のものができません。 ある意味ではいくらか社会的混乱をもたらしますが政治のシステムを大きく変えて次のシステムに向かっていくのか、 あるいは、 新しく出てきた問題も昔ながらのやり方で解決していくのかという分岐点に今の日本はあるのではないかと思っています。 今の日本の政治は極めて精緻に完成されております。 マクロの部分は全部固定されていることを前提にミクロの調整を極限まで推し進めていくというところがありまして、 政治の関心がある部分にはかゆいところにまで手が届くきめ細かな面倒をみているけれども、 全体としてみれば、 放置されている大きな課題があるという状態です。 今の日本政治の仕組みを前提にすると、 新しい問題は、 だましだまし時間をかけて処理するしかありません。 それでいいのかということなのです。
  次に 「21世紀はどのような時代になるか」 というご質問ですが、 私は21世紀の初頭はどのような時代になるかというよりも、 どのような選択をするかが問題だと思っています。 と申しますのは、 政治というのは人間が社会をどうしようかという営みなのです。 どうしたいのかによってその姿は大きく違う。 私としては2つぐらいの道を考えております。 1つは、 日本のこれまでの政治システムを変えずに継続するという道です。 この場合は、 新たな発展がなく、 やや衰退するということです。 一挙没落というのもないわけではありませんが、 大きな破滅の可能性は低いでしょう。

高津  それはどんな場合ですか。

飯尾  破滅的没落があるとすれば外交・軍事面でしくじった時です。 それがなければ、 先進諸国になると経済規模も大きくなるので徐々に変化しますから、 システムはそれなりに調整される。 日本の生活水準がいくら落ちるといっても、 少しずつ下がっていくのであれば、 気づかないうちに衰退していたという衰退の仕方です。 政治体制を固定して、 外交・軍事さえうまく気をつけておけば、 それなりの緩やかな衰退は可能だろうと思います。
  しかし、 外交・軍事で大失敗するかどうかは、 実は今お話ししている選択肢とは別問題であり、 その国に良いエリートがある程度揃っているかどうかで決まります。 外交・軍事はどうしても専門家の世界の話で、 一般の国民が寄与し得ないところがありますが、 日本の場合、 エリートの実力に大変心もとないところがあるので、 皆さん危機感を持っているのです。
  そういうことがないとすれば、 緩やかな衰退シナリオによる、 ごく普通の 「かつての先進国」 の姿になるのではないか。 ポルトガルのような国をイメージしていただければよいかと思います。 これは政治が新しいものを求めて社会をフォーミュレイトするという考え方からすると、 ある意味では失敗なのですが、 上手に失敗した場合です。 そういうシナリオが1つ。
  私が考えていますもう1つの可能性は、 日本の政治が成功する場合です。 今まではレディメイドの答えが先進諸国にあり、 スウェーデンの福祉やイギリスの住宅政策の真似をすれば良かったわけですが、 それがなくなってしまった。 日本に可能性があるとすれば、 欧米とは違う意味での先進諸国になっていることです。 考えるに、 先進諸国が再び活況を示すのは、 どこにもない問題をうまく解いた場合なのです。 そういう点では今の日本に到来している非常に大きな危機は、 実はチャンスなのではないか。 その最大のものは高齢化です。 高齢化が進めば労働人口は減少するとみんなが思っていますが本当でしょうか。 年金というのはお年寄りは働かないという仕組みですが、 日本人のお年寄のなかには働きたいと思う人は結構おり、 労働化率が高いわけで、 うまくそれを使う方法がないのか。 女性労働力もどうしたらうまく使えるようになるか。 ファミリー・フレンドリーといったことは、 日本の企業こそが考える必要があります。
  今の年金・医療システムは既得権者のためにできていますから、 新たなチャレンジのためには役に立たない。 何もしない方が儲かるという人がたくさんいます。 それを変えようという動きが出てくるかどうか。 実はシンガポール、 台湾、 韓国、 中国などアジアの国々を始め新興工業国は今後日本と同じ形の高齢化曲線を描くわけですから、 そういったグループからみると日本は最先進国になるわけです。 その日本において高齢化の問題が解決できればその意味は大きい。 高齢化のみならず、 住宅問題やアメリカ型の大量生産・大量消費のパターンから高付加価値型産業への転換の問題なども、 解決すれば今後非常に意味のあるモデルになることは間違いありません。 そうなれば、 再び日本は発展する可能性があります。

高津  どうすれば、 政治は火をつけられますかね。

飯尾  そこで、 3番目の 「何をしたらよいか」 というご質問の答えに移るわけですが、 そこに立ち至って日本の政治には大問題があります。 今、 世界中の政治の分野では、 主権国家にとって代わるような政治システムをつくれるかどうかが大課題になっています。 主権国家システムというのは、 すべての問題を国家レベルで解決するという非常に単純な仕組みです。 それに対し、 最近のグローバライゼーション、 地方分権、 あるいはNPOなどが強調される新しい流れは、 国家には頼らないという話であり、 1ヵ所でものを処理しない仕組みになってくるという話です。 主権国家体系を支える国民・国家の神話が崩れてユーゴスラビアのようになっている国もあるし、 アメリカにおいても底辺ではまったく国民統合できない仕組みになっている。 それをどう考えるかという問題があります。
  実は、 日本の場合、 先ほどの小塩先生のご質問に関係しますが、 ポスト国家という以前に問題がありまして、 主権国家としての意思決定の仕組みができていないのです。 戦後の日本政治は、 国家内においては徹底して分散型意思決定を行ってきた。 つまり目的がしっかりしていれば、 大体すべての構成員が同じ事を考えていることから、 中心のところでバンと強い総理が出てものを決めなくても、 各役所でものを決められるという分散型システムで今まできました。 今、 その前提となる価値観の一致というものが失われてしまい、 分散システムによる非常にバラバラな決定がなされ、 ちぐはぐな政策対応が行われてしまう。 最近の景気対策などもそういうことではないか。 結局、 今の日本は体系だった意思決定をするという課題と、 主権国家体系に代わる意思決定システムをつくるという2つの課題を背負っているのです。
  もっとも、 主権国家として意思決定ができない国家だということは、 強いマージナル性を持っているということで、 裏をかえせば、 何か新しいものを生み出す可能性を秘めた 「変な国家」 だということもいえるかもしれません。 しかし日本の政治が乾坤一擲の大勝負に出るためには、 いくつか必要なことがあります。
  1つは主権国家型意思決定システムをいったん確立するということです。 つまりシステム自体を変えるという 「決定」 をする必要があるので、 それができる意思決定システムを確立しないといけません。 議院内閣制は、 理論的にいえば、 集中的意思決定システムに適合的な制度ですから、 ちょっと手直しをすればそういう決定ができるはずなのです。 ところがそれをやってないのです。 簡単に申しますと、 日本の政府は、 政府・与党というように二重の政府構造になっている。 政府というのは官僚が内閣を乗っ取ってしまっており、 各課・各局に分かれてばらばらで積み上げ式しかできない。 与党のなかでは、 政治家は組織的に行動するのではなく、 族議員がつまみ食い的に好きなものをとるという仕組みになってしまう。 大変な分散型システムです。 与党と政府の2つを合体化させて、 日本を変えようという強い決定主体をつくることが非常に大切になってくると思うわけですね。
  そこのところをいったん作った上で、 次に先ほどの緩やかな衰退シナリオか、 飛躍シナリオかということを決定しなければならない。 そこのところが決定できないと、 緩やかな衰退シナリオでなく伸びるべきだという人もいますし、 既得権者もいますから足して2で割ったようなことになるのが、 これまでの常道でした。 しかし、 そうするとちぐはぐな対応になって、 非常にエネルギーのロスが大きい。 そういう場合に一番危ないのは先ほど申し上げた外交・軍事であり、 一貫した戦略に基づかずに出たとこ勝負でやっていると大失敗をする可能性があります。 そうすると一挙没落シナリオとか破滅シナリオの方に向かっていくわけです。 緩やかな衰退シナリオの担い手は、 さまざまな制度から利益を得ている既得権者でありまして、 私は 「行政依存人」 と名づけています。 これは行政サービスによって儲けているという意識がある人たちですね。 実をいうと、 現在の日本の政党のほとんどは、 この行政依存人の政治活動=経済活動という図式に支えられています。

高津  いわゆる業界ですね。

飯尾  業界、 あるいは業界に属している人ですね。 私は 「行政依存人」 の逆概念を 「経済自立人」 と名づけておりまして、 これは何か特定制度のお世話になるよりは自分で働いて稼いでいる方が大きいという人たちです。 日本が再び飛躍をとげることができるかどうかは、 そういう人たちが政治勢力を結集して 「実験」 をやろうとするかどうかにかかっています。 その点で、 日頃世の中で言われている 「大きな政府」 とか 「小さな政府」 というのは本当の解決ではありません。 財政規模からして、 小さくて効率的なのが良いにきまっていますから、 どこかに最適解があるはずです。

高津  それは新しく作り出すという意味ですか。

飯尾  今ある政策体系をある程度おじゃんにして作り出すということです。 量ではなく質を変化させることが大事です。 ジェネラルでフラットな制度をつくれば市場競争の要素が大きくなり、 各人、 各企業の創意工夫の余地がでてくるでしょう

高津   「経済自立人」 出現の可能性は高いと思われますか。

飯尾  経済自立人自体はすでにいろいろ出ていますが安定しない。 それを政治的に組織化できるかどうかがポイントです。 経済自立人の政党というのが切実に求められるのです。

高津  もう少し経済情勢が悪化したり、 社会情勢が不安定になってきたりすると、 バラバラと出るというのが、 持続的になったり、 あるいは量的にも多くなったりする可能性はありますか。

飯尾  可能性はあるのですが、 世界史が教えるところでは、 音頭をとるべきトップエリートは状態が悪くなるとたいてい国外に出ていってしまうので、 必ず組織化されるとは限りません。 ただ天才的な組織者が生まれるとか、 ネットワーク化についてのイノベーション、 イメージ操作などによって勢力を結集する道があります。 そして政治家が自分で選挙をするのではなく、 仕事を持ちながらボランティアで選挙を行い、 自分たちの代表を政治家にすることで、 新しい政治勢力を支えていく人々が、 どれぐらいまとまって出てくるかによって、 日本の政治の姿が決まってくるといえるでしょう。

高津  地域・社会分野をご担当の大西先生いかがですか。
  
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  生命科学、 情報通信で世界に貢献を
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大西  去年第5次全国総合計画をつくったときに 「庭園の島」 という言葉を入れたら一時注目されました。 最初はガーデンアイランドと横文字で書いていたのですが、 最終レポートは庭園の島というように翻訳したというところがおもしろいのですが、 ともかく庭園の島を目指すと書いてあります。 私は目指すというよりも現状が良くも悪くも庭園の島という感じがします。 悪くもというのは、 庭園の島というのは、 いかにも箱庭的仮の姿という感じだということです。 将来どうなるか分からないのですが、 とりあえず自分の持ち分の所だけはつくり込んだと。 しかし、 その外ではいろいろなことが起こっているから、 この箱庭もつぶれるかも知れない。 しかもそれはちょっと手でつくっただけであって、 本物ではないということです。 非常に不安定な箱庭というのが悪い意味です。
  逆に良くもというのは、 一応きれいなものをつくったということです。 経済大国になってそれなりに国土や都市が整備されて、 まあ一定水準の街並になっているということです。 良くも悪くも庭園の島である日本が、 さらに良くなっていくのか、 やはりそれは箱庭であり虚構だったんだというふうになるのかは、 箱庭の中が決めることではなく、 むしろ外が決めることだろうという気がします。 外に何か大きな事件や戦争が起こり、 それに巻き込まれて箱庭がつぶれるかもしれないし、 そういうことがなければ、 ますますきれいにつくり込んでいって芸術的な箱庭、 庭園の島になるかもしれない。 それは多分に外が決めることだ。 それが現状かなという気がします。 大きく言えばそうだが、 もちろん内部努力も起こりえます。 現状に対してみんなが満足しているか、 あるいは、 何か変化が起こる兆しがないのかというと、 そうでもないと思うのです。 こうした不満は、 内部からの改善につながる可能性がある。
  統一地方選挙の結果をみても、 私の住んでいるところではなかなかおもしろい結果が出ています。 市長選挙に現職と女性が立候補して女性が勝ったりとか、 市議会議員の方も女性や若者の健闘が目立っています。 隣の市でも同じような現象が起こっているのです。 従来でいえば中高年の男性が地方政治も支配していたという面がありますが、 そうでない人に対する期待が集まっているのではないでしょうか。 あるいはそういう人が自分の代弁者だと思う人がかなりいる。 これは1回だけの選挙の結果かも知れませんが、 女性や若者のような中高年男性に代わる人たちが代表となる政治社会を望む人たちが、 そういう変化を引き起こしているのではないか。 そういう意味では変化の余地がある社会だと一方では言えると思います。
  他方で、 庭園の島といいながらも箱庭なのですが、 アメリカのニューヨークにインタビューに行ったときに、 たまたま住宅の話になりました。 マンハッタンから1時間弱くらい行ったところで、 3ヘクタールくらいある家に住んでいると言う。 びっくりするような環境に住んでいたりする。 我々の方は、 職場は確かに立派だけれども、 住宅の話はあまりしたくないでしょう。 生活の質はあまり高くないという意識はあります。 そういう意味では庭園の島に対する満ち足りなさというのがあると思います。 それを例えば政治行動によっても変えようという動きが出てきている。 箱庭的ではあるけれども理想郷とは言えないにしてもそれに近いようなすごく安定した、 かつ、 ある一定水準の国土・都市をつくったけれども、 それに不満を感じざるを得ないし、 あるいは不満を感じている人たちのいろいろな新しい動きがあると思います。 これが現状認識です。
  ただ、 それが大きく変わるかというと、 箱庭の中での不満解消運動、 願望実現運動に過ぎないのかもしれない。 枠組みそのものが大きく変わるというのは、 むしろ外の力によるのではないか。 それでは、 外の力に対して無力でいずれ壊される運命にあるのかというと、 ものすごく大きな力が働けばそうなってしまうかも知れない。 抗すべくもない力もあるでしょうが、 日本人は比較的ある種の上昇志向なり、 それを支える能力を持っていると思います。 それがうまく作用すれば、 箱庭を改善しながらかなり長期にわたって維持できるという可能性もある。 つまり21世紀にわたってです。 その上昇志向を発見するには、 やはり日本が世界に対していかに貢献できるかということが大きなテーマです。 戦後50年を振り返ってみると、 例えば自動車などの輸送機器や、 電気製品の良いものを供給してきました。 そしてこの2つで日本は世界の生活改善に役立ってきたのです。 その見返りとして、 日本人も箱庭を手に入れたのです。
  これからを考えると、 1つは生命科学の領域があると思います。 みなが死にたくないし、 できるだけ丈夫で長持ちしたいと願っている。 それに生命科学はこたえてくれるかも知れない。 生命科学が基礎になって医学、 薬学といった分野で何か発明・発見が行われれば、 人間がもっと元気になって長生きできるかもしれない。 これはどこまで行くかは別にして、 関心事になるだろうと思います。 生命科学 (ライフサイエンス) と情報通信 (IT) という2つが、 21世紀にみなが関心を持つ分野になるだろうと思います。 そこで日本人が何がしかの貢献をしていけば、 それなりに箱庭を支える力くらいは見返りに得ることができるであろうし、 それをやろうという意識はあるのではないか。
  もう1つ、 それとは別に箱庭と団塊世代との関係ということですが、 私は団塊世代が箱庭を作ったわけではないと思います。 ある時代に生きた人、 そこには団塊世代も含まれていますが、 ともかく多くの人が、 戦後から50年の間にそういうものを創り上げた。 つまり、 それが日本人にとって一番良い選択だった。 戦争・軍備に向かわずに何かをやるとすれば、 工業製品をつくりながら、 貯えた金で日本を整備するというように自ずから走ってきたのだと思います。 そこに団塊世代も入っていたということで、 まさにそれを今、 団塊世代が支えているのですが、 1900年代の後半から2000年代に生きている日本人が我知らずそういう選択をした結果、 ある種の桃源郷をつくってきた。 桃源郷はうまくやるともっともつかもしれないから、 多くの人はそれをもっともたせようとするのだと思いますね。 それが許されずに箱庭を壊して、 もっと荒々しい世界に巻き込まれるかどうかというのは来世紀の問題だろうと思いますが、 日本人が箱庭を壊さずに、 しかも、 箱庭からのメッセージが世界の人の役に立つということをやって行く余地もないわけではない。

高津  微調整の仕方というのはどうなるのでしょう。

大西  微調整でもなくてかなり……。

高津  これから先の低成長や人口高齢化・減少という状況下では、 維持していくことすらも相当な努力を要するのではないかと思うのですが。

大西  人口が減っていくというのは内部の問題だから、 そこはアジャストするのでしょうね。 みんなが人口減少下で生きていくほかないことを認識すれば、 そこはみんなで生きる道を考えざるをえない。 認識すればある程度は納得できる世界ですよね。 つまり負担関係が今までとは変わるとかね。

高津  冒頭にも申し上げましたが、 実際に岐阜の日々の生活は最先端のところにあるのです。 つまり郊外型のマイホームに住み、 マイカーをフルに活用して自分の好きなところにショッピングや遊びに行くという生活が一家庭、 1人ずつバラバラにあるわけです。 そうしたアメリカ型の生活を最大限追求していると思うのです。

大西  アメリカ型とも違うと思いますが。

高津  いや、 そうですよ。

大西  生活の中身はね。 これから先も、 そういうことを続けていくのではないですか。 長生きしながら生活を楽しもうと。 それで行けるところまで行こうと。 まだ行けるところまで来ていないかもしれない。

高津  まだ行けるところまで来ていないのですか。 まだ大丈夫だと。

大西  来ていない、 まだ大丈夫だと。 あるいは維持するという観点に立てばね。

高津  維持する努力をすると。

大西  これが一番重要な価値だから、 努力するだろうと思いますね。 重要な価値というのは悪いことではないわけですよ。 その上で哲学、 世界、 政治を語ってもいいわけです。 しかしそれを維持していくのは相当なことです。 一方でお金も稼がなければならない。 それを情報と生命科学で稼ごうというわけです。 箱庭の箱を守っていくためにいろんなことをやる。 そこでどこまで生き延びられるか。 そのうちに周りの国が安定してきて、 EUみたいになってくれば、 また新しい時代が開けるわけです。 ところがまさに日本の場合はしばらく箱庭でいなければならないという状況にあると思います。

市川  問題は箱庭をキープしていたら、 周りの庭が良くなってきて、 日本の庭はそのままでというシナリオはあるわけですね。

大西  そうなればEUのように箱庭の外枠を外していくと思うのです。 そういう時代が来るかもしれない。

市川  次なる局面に移るというのは、 歴史的にみれば外圧によるものがほとんどですね。 黒船の来襲や敗戦、 都市計画でいえば地震など不可抗力によるケースです。 箱庭を守っている限りは箱庭なのですが、 周りが良くなるとか、 突然周りから箱庭を壊す力が入るということがあるかもしれない。

大西  壊されない力も出すんでしょうね。

市川  その時に壊されないというか、 壊されても直すような力を発揮するというのが日本の歴史ですね。 問題はそのインパクトがなくて箱庭のレベルを高くできるかどうかということです。

大西  レベルはそれほど高くならないかもしれませんが、 維持するということですね。

市川  もう1つは、 日本人の上昇志向というお話がありましたが、 私は個人的には誤解を恐れなければ日本民族というのはある分野、 特に理科系ではかなり優秀ではないかと思うのです。 そういう意味では生命科学や情報通信が生きる道というのは一理あり、 その辺に特化すればかなり良い結果が生まれるのではないか。 「夢よもう一度」 で、 国をもう1回興せるかどうかが、 21世紀の特に前半では大きな課題だと思うのです。

大西  必ずしも、 もう1回興すという発想ではなくても良いのではありませんか。 維持していくということですから。 没落はしてないですよ。

市川  没落したわけではなくて、 一時期の勢いが止まったわけですね。

大西  勢いが止まったというか、 外に立って日本をみれば勢いがないわけではないですよね。 みんなが後退しているわけだから。 その中では一応前を向いている。

高津  箱庭的なものを維持するといっても、 今までとこれから先ではずいぶん質的に違うのではないかと思います。 小塩先生が移行期にあるとおっしゃっていましたが、 今までつくられた水準なり、 あるいはそれを支えているいろいろなシステムをそのまま守るということではなく、 いろいろな周りの条件変化に対して、 自らが相当努力をして変えていかない限り、 水準が維持されないような時代になるのではないかと思います。 維持するという表現ですと、 何もしないでもこのまま行けるんだという感じが含まれるのではないでしょうか。

大西  現在の状態というのも、 いろいろな葛藤の結果ですよね。 都市計画などもそうですが、 いろいろな対立をとおしてルールができて、 その結果こういう空間が維持されて、 あるいは生活についてもいろいろなルールのもとでこういう生活が成り立っているわけですよね。 それぞれの分野で議論の末に合意形成があったわけです。 だからそれぞれの経緯をみていくと、 安定的に維持されているというよりも、 いろいろな対立や細かな衝突がある形で解決されたり、 合意が形成されて社会のバランスがとれているということです。 それを非常に静態的に見ればある状態が維持されているということになるが、 そのなかにはいろんな動きがあるけれども、 ガーデンアイランドのなかの小さな戦いが1つ1つ解決されているということです。 箱庭を壊すような強烈な動き同士がぶつかって恐怖の均衡にあるとまではいいませんが。

高津  様々な調整が今後とも進んでいけばある程度維持できる。

大西  革命を起こして全部転覆させなければ生きていけないと思っている人もいないわけではありませんが、 マジョリティにはならないですよね。

高津  そういう人がマジョリティになって欲しいと思うのですが…。

大西  先ほど申し上げたような女性や若者の挑戦はあるわけです。 それは認めていくわけです。 女性グループの政治組織というのはなかなか素晴らしい側面があると思います。

高津  環境分野をご担当の進士先生はいかがでしょうか。
  
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  科学万能主義を反省し、 今こそ 「農」 の視点を
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進士  私はガーデンアイランドをめざそうという目標は大変重要で、 時代的なタイミングとしても実に適切だと思います。 ガーデンの捉え方がいろいろ違います。 時に日本庭園の場合は確かに箱庭です。 どのように出来ているかといえば、 まず垣根や生け垣で外を囲み、 空間を独立させるのです。 その中にミクロコスモスをつくる。 ミクロコスモスのテーマは、 古代では仏教で、 極楽浄土になるんです。 宇治の平等院庭園がそうです。 囲まれた中に理想郷を造る。 その理想的テーマが当時は浄土曼陀羅であり、 浄土の思想・世界を表現している。 阿弥陀堂があって周りに大きな池があるというのが理想であった。 ところが江戸時代になると大名庭園になります。 大名の屋敷は非常に大きい。 万石以上の大名には何千坪などと決まっていました。 三四郎池も、 もともとは前田侯の庭園の池です。 尾張徳川家は新宿に戸山荘という庭園を持っていました。 これは13万坪あったのです。 日比谷公園が4万坪ぐらいですから、 3倍ちょっとです。 凄いでしょ。 浜離宮も10万坪を越えています。 それが庭園ですから壮大な空間であり、 この場合は箱庭という感覚はない。
  新宿の戸山荘の場合は小田原の宿場を表現し、 箱根山玉圓峰というのをつくった。 今でも戸山公園の中に残っています。 わざわざつくった山です。 今でいうと公団のニュータウンレベルのスケールです。 公共造園と私造園に分けて考えますと、 公共造園というのはラフなのです。 つくりがいい加減というか単価が安くて、 デザインの詰めが甘い。 そういう意味では戸山荘は公共造園的スケールだけれど、 作りは私造園で、 大変見事に隅々までつくられています。 もちろん、 ちゃんと息抜きもある。 水田が作られ農の風景を取り込んで、 もちろん武蔵野の雑木林が取り込まれてと、 ちゃんときめ細かい造園ではあるけれど、 メリハリもついている。
  私の言い方ですればペットの自然もあるし、 家畜化した自然もあるし、 野生の自然もある。 ですから私は、 これを国土的なスケールにすればガーデンアイランド・日本だと思っているのです。 国土的スケールでみると、 都市はペット的自然、 農村部は家畜的自然です。 田園というのは自然を開拓し飼い慣らして人間が暮らしやすいようにしたものですから、 家畜的自然です。 国立公園や自然環境保全地域というのは、 山村もそうでしょうが野生的自然です。 そこには非常にワイルドな動物、 植物がいてスケールも雄大です。 私はガーデンアイランドというのは本来そういうものであって、 町家の庭の箱庭とは違うと思います。

高津  規模が全く違いますね。

進士  そうですね。 イギリスは国土全体が公園のようだと言いますね。 言葉使いで言えば、 ガーデニングは、 囲まれた世界の中でやること。 古代、 中世まではガーデニングの時代です。 これは皇帝ひとりのために徹底してつくる。 ガーデンは規模も視野もだんだん拡げて、 近世になるとイギリスの領主館ではランドスケープガーデニングという言葉を使うようになります。 カントリーサイドに広がる広大なイギリス的風景をとりこんだガーデニングです。 それは敷地そのものが広大な上に、 さらに敷地の枠を超えて、 遠くの風景や大自然を眺望し、 それをひとつの領域として取り込むものです。 ガーデンというのはガンという言葉、 ガードする、 守るという意味です。 それにエデンの合成語です。 エデンというのは喜びとか楽しみという意味です。 中世までの愛の庭とかエデンの園は箱庭っぽい。 しかし、 近世になってからのランドスケープガーデンはうんと広くなります。
  それを更に拡張し、 社会性を加えたのが近代のアメリカです。 ニューヨークのセントラルパークはランドスケープアーキテクチャーといっているわけです。 ガーデン (ガーデニング)、 ランドスケープガーデン (ランドスケープガーデニング)、 ランドスケープアーキテクチャーというふうに3段階に分けると、 近代以降はランドスケープアーキテクチャーの時代なのです。 イギリスの風景式造園というランドスケープガーデニングとどこが違うかといえば、 ランドスケープガーデンの頃は、 大きさは違わないのですが、 主人公は貴族です。 ところがアメリカには貴族も国王もいない。 ニューヨークの人口が60万人ぐらいの時にセントラルパークの建設が計画されフレデリック・ロウ・オルムステッドという造園家が設計に当たったのです。 オルムステッドの思想はなかなかすごい。 造園家は植木屋と変わらないと思う人がおられるのですが、 造園家はもっと社会的な側面をもっています。 セントラルパークができるというのは実に社会的というか政治的なのです。 150年位前、 1858年に造ったセントラルパークの思想は実にすごいのです。 人口60万人くらいの時代、 ちょうどウォール街の辺りに中心市街地があった。 一番南です。 マンハッタン島の一番上の方に公園を計画するのですが、 これは幅が800メートル、 長さが4キロ320haですね。 これをマンハッタンの北西に造るというのです。 そこにはニューヨークのクロトンの貯水池があり、 それを入れてやったのです。 このアイデアを出したのがイブニングポストの記者でブライアントという人です。 設計者のオルムステッドのテーマはグリーンスウォードといって緑の芝原というものでした。 彼はそれまでイギリス旅行をしたり農場経営をしたり、 アメリカの赤十字社運動や黒人の奴隷解放運動など実にいろいろな社会活動をやった人なのです。 彼のテーマであるグリーンスウォードとはイギリスの田園風景をつくるようなものなのですが、 それは何のためかというのがポイントです。 オルムステッドの思想では、 セントラルパークをつくるのは、 市民、 労働者、 一般人の幸せのためにというのが大方針なのです。 それは何故かというと、 当時のニューヨークの上流のお金持ちにはアディロンダックとか、 ホワイトマウンテンとかがあった。 東京で言えば箱根ですね。 週末はそこの別荘に行って暮らすというのがライフスタイルなのです。 当時のニューヨークは恐らく騒然として、 土埃が出て、 不衛生で、 という時代ですね。 アメリカの都市公園の発達の背景にはこういうことがあります。 死体が腐って困るから教会をつくり、 教会墓地が一杯になって不衛生で病気が出るというので、 郊外の丘を墓地にするというのが公園墓地のそもそもの始まりで、 そこへ先祖供養に行く。 それはある種のピクニックになる。 それが実に公園になるわけです。 そういう公園が全国にできてから、 やがてセントラルパークになるわけです。 都市生活というのは、 大勢が都市に集中するわけだから、 環境は悪化して不健康になる。 だから健全な環境をつくるために緑の公園というアイデアが出るわけです。 そこには思想性があって単に緑の空間をつくればよいというのではない。 一般市民のためにアディロンダックやホワイトマウンテンをつくるという思想こそ近・現代の価値観だと思いますね。 市民主義というか、 市民が大事だということです。 彼はそれをズバリ書いています。 彼は自分の経験から、 南部の粗野に対する北部の文明と言っている。 奴隷虐待で稼いでいるという国が南にある一方で、 北には都市社会の文化と民主主義をもつ文明的な国がある。 その象徴が公園であると。 「公園をつくる仕事は最高に意義のある民主主義的な発展であり、 公園が成功する事によって我が国の芸術や美に関する文化がこれに依存するものになる」 とオルムステッドは書くわけです。 格調高いでしょ。

高津  そうですね。

進士  公園をつくることは、 単に遊び場をつくるというような発想ではない。 社会性をもっているわけです。 ガーデニングからランドスケープガーデニングへ、 そして次いでランドスケープアーキテクチャーになる。

高津  今伺ったような思想は日本にはありませんね。 すみずみまで経営的感覚で手を入れるという意味では箱庭的というか……。

進士  いいえ、 それは皆さんが人工的な部分しかみていないので、 箱庭的にみえる。 例えば京都の竜安寺の庭園にしても、 皆さんは石庭だけを取り出して考えるわけですが、 サイト・プランニング (敷地計画) から言えば石庭はほんの一画にすぎません。 サイト・プランニングからいうと、 石庭の前方下には鏡容池という大きな池があり、 境内には林が広がり、 裏には衣笠山が連なる。 さらには遠くへの眺望をも含めたランドスケープガーデンです。 石庭は非常に大きな自然のなかの、 ワンポイントにすぎないのです。 ところが素人はここだけが庭園だと思うから、 箱庭だと思うわけです。 もちろん石庭が絵になりやすいからでもあります。 今の日本の土地利用計画にはそういうダイナミックな発想がなく、 専ら用途地域の色塗りをやったり、 建坪率、 容積率を決めたりといったものに終始している。 昔の土地利用は、 大自然と上手くつきあう術をもっていたのですが、 そういう良き伝統が近代で切れてしまったのです。

高津  日本の美をもう一度回復するには、 そういう視点を取り戻さない限り難しいでしょうか。

進士  私は今それが取り戻せるチャンスだと思っているわけです。 数日前放送したNHKテレビのコラムでも 「景観から風景へ」 というテーマで同じような主旨のことを申し上げました。 先ほど申しましたように、 日本人は本当は大きく自然や歴史能力とか感性を持っていたと思うのですが、 近代的自然科学の思想と方法に教化されてからは、 特に研究者達は物事を分けるという分析主義になってしまったようです。 総合化ぬきで分析中心の科学になってしまった。 要素に還元しすぎた。 そういう見方が科学であり学術であるという考え方が定着してしまって、 総合化の視点が欠落してしまったのです。 庭園の話でいえば、 石庭だけを写真集にして売り出すという方法ですね。 最も効果的な映像に還元してしまった。 それ以外のものは全部捨象してしまったのです。 明治以降の100年間、 過去の素晴らしい財産を捨ててしまって、 軽薄な分析主義、 科学主義、 あるいは専門家主義に陥ってしまったのです。 専門家というのは、 専門の部分は微に入り細に入り見えるのですが、 自分の専門以外はほとんど見えないという欠陥を持っています。 それが現代の都市にも表れている。 農村計画も都市公園の真似をして農村公園をつくったりしています。 農村の本質は何か。 農村は生活と生産が重なるところでもあり、 自然と人間も重なっています。 その上で営んでいる社会です。 だから自然から切り離して工場の中でものを生産するという都市のあり方とはまったく違う論理が本当はあるのです。 ところがそういう農村までも都市化し、 農業まで工業化してしまったのですね。 私はそういうやり方を反省しなくてはいけないと思いますね。

高津  ジェンダー・ジェネレーション分野の藤崎先生、 よろしくお願いします。
  
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  地域社会再構築としてのネットワーク
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藤崎  21世紀への展望・将来像については不透明としかいいようがなく、 特に団塊世代に焦点を合わせるかたちでは論じにくい部分があります。 未来論に対して警戒的になるのは、 私がやっている社会学という学問の性格にもよると思いますが。

高津  現状なり構造の分析が主体になりますか。

藤崎  そうですね。

高津  例えば地域社会や家族のような共通の基盤のようなものが中心部分にあって、 それから離れていくような動きは一部にはあったにせよ大きなウエイトを占めることはなかった。 それによって地域や社会の安定性がおのずと保たれていたという気がします。 今後はそうした共通的な基盤がさらに強まる方向へ進むのか、 あるいは弱まって混沌とした状態になっていくのでしょうか。

藤崎  やはり後者の力学が強く作用すると思います。

高津  今までの日本とか日本人は、 意図したわけではないでしょうが、 その時代時代の外的なかく乱要因にうまく対応してきて、 結果として共通の基盤、 安定した状況ができるという歴史だったという印象をもっています。 これからも起きるであろう外国人や高齢化の問題、 コミュニティに対する愛着がなくなってくるという問題にも、 マクロ的にみれば結果的にはそこそこの対応がなされ、 安定が持続される確率が相当高いようにも思うのですが、 これからはそういったことは難しいでしょうか。

藤崎  安定とか変動と申しましても、 安定というのはまったく動かない状態ではありませんし、 変動は歴史の流れの中で恒常的にあります。 ですから相対的な問題にすぎないとは思いますが、 ただ、 戦後50年をリードしてきた社会理念とこれを支えてきた社会のシステムが、 このままではどうしようもないというところまで来ていると思います。

高津  最近の女子学生の行動を見て、 先生はどうお感じになられますか。 いずれ女性として社会に出たり家庭に入る予備軍として見たとき、 彼女たちの活動が支えとなって社会が大きく変わってきそうな感じはなさいますか。

藤崎  閉塞感の中にあるのかなという感じがします。 男女雇用機会均等法が成立して、 とりあえず女性も一生働いていくことについて希望の光が見えたように思えた時期はごくわずかあったかもしれませんが、 さまざまな限界とか現実の厳しさに直面しています。 けれども、 彼女たちの多くは、 結婚して妻、 母としてだけ生きていくことは、 人生80年時代にあっては空しいと感じています。 かといって仕事をしつづけてキャリアを積むとなると、 むしろある部分は厳しくなっている面もありますし、 また彼女たちの多くは結婚や子育てを断念してまでキャリアウーマンとして生きたいとは思っていないのです。 バランスのとり方に個人差はありますが、 できるならば両方を獲得したいと願っています。 仕事と家庭を両立するには夫の協力が必要ですし、 育児が仕事の足かせになることも多いでしょう。

高津  おそらく子供を1人も産まなくなるのではないですか。 少なくともマクロの集計レベルとしては、 これからしばらく1人以下になるでしょう。 やはり人生は長いですし、 1世帯の世帯収入の厳しさもこれからさらに増すでしょうから、 いろいろな形で働くと思うのです。 日本経済全体にゆとりがなくなっていることから、 子育て支援政策にコストをかけるのもままならないし、 ますます少子化に拍車がかかると思います。

藤崎  その辺の予測は難しいですが、 意識的に自分の選択として子供を産まないという生き方をする人は少しずつ増えていくとは思います。

高津  女性にとってさまざまな障害があることは承知していますが、 ある意味で障害を探せばどんな状況においても常にあるわけで、 障害があるからうまくいかないという考えをもとに、 だから自分の仕事が出来ないと捉えることもできますが、 逆に今の社会というのは能力主義になってきていますから、 意欲があって有能であればピックアップされる可能性が非常に高いと思うのです。 一人一人の自覚と能力が今こそ問われていて、 社会や過去のしがらみのせいにするのは簡単ですが、 それは違うのではないかと思います。
  なぜそう申し上げるかというと、 50代半ばくらいの女性の方々と議論したときにこうした話をききました。 若い女性から、 自分は良い大学を出て大企業で仕事をしているけれども誰もサポートしてくれないという話をよく聞くと。 しかし、 その方が自分の人生を振り返ってみたときに、 1人だから何もできないと思ったことはない。 1人だろうが集団だろうが気にしないでやってきたというのです。 そうした立場からみると非常にひ弱に感じるということを聞いたことがあります。 市民感覚があり、 感性豊かで自立した個人であれば、 自分の活動を妨げるような部分を乗り越えていけるのではないか。 そうならなければ、 これからの日本はうまくいかないと思います。

藤崎  その方たちはそうやって頑張ってきたと。

高津  ある程度成功したというか、 実績を作られた方のタイプとしては、 頑張ったという人と、 特に意識せずに普通にきたという2通りあると思います。

藤崎  ただご本人の意識はともかく、 やはり頑張ったんだと思います。 そういう感覚からすると、 今の若い世代には性別に関係なく覇気が感じられないということで、 もっとしっかりしなさいよという言い方になりがちだと思います。 特に女性に限定していえば男並みになることで初めて生き残ってこれたという部分があったのではないか。 一番典型的なのは結婚しない、 子供を産まないというように、 ある部分を切ったことによって初めて男と一緒に肩を並べて働ける。 また時代状況からして、 おそらく男性と同じ能力を持っていて同じことをしたのでは、 やはり男性の方が先に昇進していったりしますので、 能力的には同じでももっとすごいことをやらなければ同等に評価されなかったと思いますから、 それを実際にやってきた人達なのでしょう。 今の若い人達は、 そういう基準から見ると確かに覇気が感じられないとか、 今一つがんばろうという意欲に乏しい、 ということになるかもしれませんが、 自分の人生に何を求めるかということが変わってきているのです。

高津  それはすごく感じます。 いろいろな方向に価値をおく人たちがたくさん出てきていますから、 従来のように偉くなるとか社長になるとかお金をたくさん儲けるとか、 そういう頑張り思考的なものだけではなくなっちゃったんでしょうね。 それはそれで良いと思います。 ただ、 それを自分の中にとどめるのではなく、 社会の中で実現しようとしたときには、 何らかの形で社会との関わりが生じてきます。 そのときに1つの共通したグループとして意思表示し実現させるという行為が必要となると思いますが、 そういう点についてはあまり積極的というか戦略的ではないような気がします。 そういうのはあまり気にしないのですか。

藤崎  目標の多様化について言えば、 女性たちのネットワーキング活動がありますよね。

高津  東京圏などで市民運動を行っている何とかネットワークというのがあります。 ネットワーキングとネーミングするのは女性の人達が多いような気がしますが、 そうは感じられませんか。

藤崎  ネットワークという既成の組織や集団の枠を超えるような人と人とのつながりに注目されるようになった社会的背景を考える際に、 性別は関係ないと思います。 戦後50年が目指してきたやりかたは、 組織とか集団でがっちり固めて一丸となって目標を達成するという形だったと思いますが、 それだけではダメだよということがあきらかになってきた。 組織のもっている限界性や問題性も見えてきたし、 組織や集団になじまない活動もあるのではないかということでネットワークをつくることが一種の流行のようになったのであり、 女性だからということに無理に結びつけなくてもいいと思います。 ただ、 現実に誰が担い手になれるかということを考えると、 自己実現が図れて経済的にも安定しているという人は少数ですから、 現状では主婦層に偏らざるを得ない。 男性が入ってくる場合はたいてい定年を迎えた前期高齢者の方たちが多いですし、 まれにはちょっと休みを利用してやりたいという青壮年期のサラリーマンだとか、 学生もいたりしますが、 そういう人たちは少数派で、 やはり中年主婦が中核になっていますね。

高津  東京とか神奈川は非常にそれが盛んで大きな力になっていると思いますね。

藤崎  都市部にかなり特有だと思います。 ただもう一方で、 一昨年あたりから松本の郊外農村で介護問題の調査などをしていますと、 やはり都市部とは違い、 農家であるが故に季節的にある時期はとても介護など出来ないという深刻さがあります。 そういう中で農協の婦人部を母体に介護のネットワークづくりがなされている事例も非常に多いのです。 ですから先頭を切って進めていったのは都市部かもしれませんが、 ちょっと質の違うネットワークづくりというのが、 それぞれの地方ごとに行われているんじゃないかなと思います。

高津  ネットワークづくりの特徴を考えると、 既存の組織とか仕組みではうまく対応できない、 あるいはそれに反発や限界を感じるという前提があって、 それを変えるために自分達が公的部門なり大企業には頼らずに自分たちの中で自己負担で処理しようということですね。

藤崎  頼らないと言いきって良いかどうかは分からないですけど。

高津  出来る範囲の部分について可能な限り自分たちでやりたいようにやろうと。

藤崎  というか、 公的組織ではできないものがたくさんあるわけですよね。

高津  そうですね。 一種のパブリックというかコモンズのようなものだろうと思うのです。 対象となる関心事項は全くバラバラであり、 1つずつの規模は小さいのですが、 みんながある暗黙のルールに従って共通の目標を実現するために何かやるという動きがあるのです。 そういったものが無数に出てくれば社会が豊かになり、 一人一人が幸せを実感することにつながる気がしますね。

藤崎  そうですね。 地域社会の再生、 再構築につながるのではないでしょうか。

高津  町内会や自治会、 あるいは昔の隣組のようなものと、 最近のNPOのようなネットワーキングの動きとは違うのでしょうか。

藤崎  ネットワークというものは、 もちろん国際的な規模のものもありますが、 基本的には小単位で形成されますから、 母体となる範域が地域であるという点では共通していますね。 新たにネットワークをつくろうとする動きが出てきた背景には、 町内会とか部落会という類の既成の地域集団がうまく機能しなくなり、 日常生活を支える安心感の源泉にはならなくなってしまったというのが最大の理由だと思います。 かつての町内会や部落会は利害の共通性によって機能しており、 生活のいろいろな側面における共通項があったと思うのです。 農村などがその典型で、 職業的にも共通の基盤があり、 治水など家単位では出来ないものを助け合ってきた。 これは利他主義に基づく助け合いというわけではなく、 「情けは人のためならず」 ではありませんが、 結局は自分がその地域の中で生きていくためにはやらざるを得ない、 やることが当然だということがベースにあったと思います。 しかし今は産業構造も変化し、 それに伴って人口も流動化して、 たまたま同じ町や村に住んでいるからといって必ずしも共通項や利害・関心の一致が得られるわけではないですよね。
  また、 かつては生活全部丸ごと一緒におつきあいしましょうというようになりやすかったと思いますが、 プライバシー意識が強まっている現代ではそのようなつきあいは難しいと思います。 だから地域社会の人間関係の絆は放っておけば弱まっていかざるを得ないのですが、 それでよいのかという問題意識が出てきました。 公害、 環境、 高齢者介護など個人や家族単位では解決できない問題があることに気づいてネットワークがつくられるようになったのです。 しかし、 昔のように生活丸ごとでなく、 個別的な関心を共有できる限りにおいてつきあい、 行動をともにしようということですね。

高津  岐阜などではそうした動きがあまり感じられませんし、 日本社会全体に 「お上」 意識が根強いようにも思いますが、 ある問題について自分たちがグループを形成し、 自分たちの中で可能な限り処理していくというのが基本であるという考えは広まっていくでしょうか。

藤崎  ここ10年くらいの間にNPO的な活動が多様な形で広がってきていますし、 こうした動向はこのまま続くのではないかと思います。 どこまでそれが広がるかというのはなかなか難しいところですが、 自然発生的にそういうグループが生まれる場合もあると思います。
  例えば60年代あたりから 「ニュータウン」 が大規模に開発され、 特定の地域に若い家族が大量に入ってきましたが、 20年、 30年、 40年たつうちに子どもたちは大部分外へ出ていき、 夫婦だけで高齢化していくわけです。 一部では50%近い高齢化率に達している所もあり、 高齢者も日常的に不自由を感じてちょっと手助けが欲しいと思うし、 まだ高齢者になっていない人たちもその様を目の当たりにして明日は我が身という感じを持つようになります。 そのような地域では中年の主婦が行政にはできないような、 ちょっとしたサービスを提供するネットワークづくりをしています。 例えば、 デイサービスの車は迎えに来てくれるが、 家の前までは来てくれない。 そこで、 家と送迎車の駐車場所との間の移動に付き添ってあげるという活動もあります。 ある種の問題が地域の中にあるという現実を目の当たりにしたとき、 同じ地域住民として何とかしたいという気持ちが自然に出てくる場合もあるだろうと思うのですが。

高津  それは民間のビジネス活動としては成立し得ない分野なのでしょうかね。 行政というのは非常に図体が大きいものですから、 きめ細かくやるというのは不得手ですね。 今は行政対象は多様化していますから、 いちいち応対していたら非常に大きな政府にならざるを得ません。 しかしそれをやる必要はあるわけで、 活動の性格としてはその間をつなぐものだと思います。 うまくすればニュービジネスにつながるという気がします。

藤崎  成り立たなくはないと思いますが、 莫大な利益が得られるかというと疑問ですね。 そうした活動の場合、 まったく無償でやっているところもありますし、 時給500円をいただくなどの例もあると聞きますが。

高津  もちろん、 有償ボランティアでよいと思います。

藤崎  そういう自然発生的なものもありますし、 半分行政が仕掛けるという方法もあります。 高齢者や主婦層が比較的関心をもちそうなテーマの社会教育関係の講座を何度か開き、 その後で自主的な勉強会をやろうというような働きかけや場所の提供を行政側で行えば、 意欲的に活動をするグループが出てくると思います。 例えば子育て関係のグループなどはできやすいと思います。

高津  身近なテーマから入ったネットワークが公的な意思決定にかかわれるようになるとよいと思います。 増えてきてはいますが、 レベルがなかなか上がらないというのが日本のネットワークの現状でしょう。 ネットワークのコーディネーターが、 行政側と同程度以上の能力を備えていて、 活動の基盤はNPOであるけれども、 その人材が公的部門や大学等へ行ったりしてもよいと思います。 そうでないと、 行政側からすると片手間にやっていてくれればいいやと思うかもしれないし、 NPOの方も一種のファッションになってしまう可能性があります。

藤崎  ボランティアと一緒ですね。

高津  そういう形のものがあってもよいけれど、 社会の質的なレベルを引き上げ、 魅力ある社会にするための重要な一つの主体ととらえることも必要ではないでしょうか。 その研究・リサーチ能力を高めないことには、 これからの時代、 バラエティに富んだ社会にするのは難しいという気がします。

藤崎  社会的な観点からすればそれが理想かもしれませんが、 すべてのネットワーキングに社会貢献のような画一的な目標を設定させる必要もないと思うのです。 例えば、 全くの自己満足、 親睦を深めるという次元で終始しているグループがあっても、 それはそれでよいと思います。 少なくとも地域の中で人間関係の絆がまったくできないという状況に比べればずっとよいと思いますし、 NPOも他の公的機関もパーフェクトなモデルを目指そうとすると必ず無理が生じます。 いろいろな部分をいろいろな性質を持った組織なりネットワークがモザイク的に埋めていくというのがよいのではないでしょうか。
  ただ、 活動の中核が主婦層であることにともなうジレンマや限界などもあります。 有償ボランティアにしても、 活動によって得られる収入は食べていくだけの生活費にはほど遠いわけです。

高津  意外と少ないみたいですね。

藤崎  彼女たちが活動できるのは、 やはり夫が働いているからなのです。 ひたすら物質的な豊かさを追求してきた戦後半世紀を反省し、 生活の質や生きがいに目を向けて行こうという意識の1つの表れとしてNPOやボランティア活動が位置づけられているのは確かですが、 担い手である主婦の夫は相変わらず過酷な企業戦士として働いているわけで、 その問題をどう考えるのかという課題があります。

高津  NPO・NGOは職業としては不安定であり、 30年、 60歳まで1ヵ所で働けないなど、 将来の不連続性に対する危惧は避けたいと思うのでしょうか。 文明・文化の分野をご担当の福田先生、 いかがですか。
  
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  なぜ?と問うことを禁じた教育
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福田  私は現状を否定するのでも肯定するのでもありません。 言い方を変えれば、 豊かにはなったけれど人間も世の中も大して変わっていないかもしれないと思うのです。 人間の体の寸法も腹が出た、 脚が長くなったということはあっても、 大して変わっていないし、 せいぜい身長が10か15伸びたぐらいでしょう。 その時に知識量の増大に比例して情報だけが、 あるいは技術だけが非常に先走りしており、 おそらく人間の感性とか身体とかと大きな齟齬を来しているだろうということは感じています。 ただ肯定的でも否定的でもなく、 あるがままに進むだろうと思います。

高津  日本の場合、 戦後50年ぐらいの間に社会資本整備をやってしまいましたから、 今おっしゃったように技術とか情報の使い方の所は非常に変わりましたよね。 ところが人間の思考形態とか感情はそれほど変わっていなくて、 物的なものだけが変わってきています。 アメリカの生活様式が蔓延しており、 一家に3〜4台車があり、 基本的には郊外の戸建てに住み旦那さんも奥さんも大卒、 子供2人で週末は東西南北の好きなところへ車を使ってショッピングへいくという生活ですよね。 そういう生活が全てで、 あと特段の人生の大きい目標やスリリングなことがない。 ショッピングモールへ行くということがその家族の人生にとって一番スリリングなことかもしれません。 ウイークデーの就業形態をみても、 平凡でつまらない極めて定型的な業務なんじゃないでしょうかね。

福田  しかし、 日本は明治以降、 そうした単調さに価値をおくような教育をしてたわけでしょ。 つまり戦後で言えば、 みんなが同じテレビを見、 同じ教科書を使い、 同じ学校を出た先生が横並びで整列させて学生に教えてと、 同じものを追求してきたわけですから。 単調だからいけないというよりは、 それを売り物にしてきた国だという気がしますね。 極端に言えば、 哲学はいらないと教わり、 教えてきた。

高津  そうかもしれないですね。

福田  しかし、 現在起こっている問題の克服にせよ、 21世紀への展望にせよ、 最終的には、 哲学を持てるか持てないかという問題に帰納すると思います。

高津  そうですね。 今の日本はそれがないですね。

福田  おそらく考えようとしなかったし、 考えることを禁じたのではないでしょうか。 教育そのものもそうです。 大学院の学生に私が 「なぜ」 と問いかけると、 皆一様に驚きます。 私の方が驚いて 「なぜといままで聞かれたことがないの」 と質問しますと、 小中高校を通して大してなかったというのです。

高津  うちの子供も 「なぜ」 と質問すると、 先生がいやがるらしいです。

福田  そうですね。 大学でも授業中に学生が分からない部分について 「なぜですか」 と尋ねたら、 先生がいやな顔をし、 3回しつこく同じことを尋ねたら 「来週から来るな」 と言われたという笑い話のような話があります。 つまり、 「疑問を持たずに、 とにかく1つのトラックに乗って行け」 という教育が今日の我々を形作っていますね。 教育と哲学は両輪の関係で、 どちらも重要であり不可欠です。 今、 学校崩壊とか学級崩壊が話題になっていますが、 これも日本における哲学不在が原因でしょう。 さらにいえば、 日本語の哲学と英語のphilosophyは違うと私は感じています。 それを私の友人である何人かの英国人に聞いてみましたが、 やはり同じような印象を受けるというのです。 それを説明するのは難しいのですが、 philosophyが日々生きるという全てに関わるダイナミックなものであるのに対し、 日本の哲学は難解な学問になってしまっているのです。

高津  そうですね。 教典みたいな感じですね。 philosophyというのは日々の哲学の規範ですかね。

福田  日本の哲学は日々の生活において生き生きと脈動しているということはないですね。 その点では確かに私の見方と英国人の見方は一致したなと感じたのです。
  ところで、 私たちは 「君の哲学はなんですか」 という質問は絶対にしませんね。 外国人の友人に 「あなたの日々の哲学は何」 という質問をしても、 それほど疑問に思われることはありません。 ところが私たち日本人はえてして 「君は何の仕事をしていますか?」 「年収はいくらですか?」 「君の大学はどちらですか?」 「結婚はしていますか?」 「子供は何人いますか?」 という 「5つのばかげた質問」 をします。 出身地、 出身大学、 現在の勤務先、 既婚か未婚か、 子供は何人かということさえ聞けば、 人間の情報が全て分かるかのように錯覚していますが、 おそらくそうした問いは、 狭い地球上でもあまり意味がないと思います。 哲学の問題は生き方の問題と結びつくと思いますが、 分析的に考えることがないので情動とか感情の問題や知り合い関係で動いてしまうところがある。 哲学は、 突き詰めれば、 私は宗教に行きつくと考えています。

高津  日本も哲学なり原理・原則が中心となって動くという社会になる可能性はあるでしょうかね。 人間の方は2人に1人が大卒になり始めており、 高等教育という面では進んできました。 技術・情報に関しても過去には考えられないレベルにまで達しています。 しかしながら肝心な人間の方に 「ものの考え方」 「行動の原理」 という基本的なものが身についていないからダメですかね。

福田  それは非常に難しい問題だと思いますが、 大学を例にとって、 どういう理念で大学が作られ学生に何を要求しているかということを考えたとき、 右に習えの教育を通して、 現場ですぐに使え、 言うことをよく聞き、 マニュアルをすぐに読みこなせる人をつくる教育をしている。 マニュアルを作る人とか、 マニュアルのもう1つ前の原理を考える人を育てるような教育をしてきたかどうかという問題があります。 そう考えると、 大学の哲学という問題を私たちは十分考えてこなかったし、 そんなことを考えるよりは、 英単語1個を覚えろとか構文の読み方を考えなさいという所で勝負して、 どうだ私の方がよく知ってるだろうという優劣の関係を保ってきました。 「君のユニークな点は何」 という所を聞かなかったような気がします。 そうすると例えば高津さんと私がここで出逢って、 年齢差、 地位、 学歴、 これまでの家族関係など、 全部関係なく突然腹蔵なく話し合ったときに、 本当に肝胆相照らして語り合えるかというと、 やはりあいつはどこの大学だったかなど属性の方に突き動かされて、 ユニークさという点に関しての判断を失いがちだと思います。 つまりそこに個人とか個性という問題、 瞬時に才能を互いに認知し合うという関係に対する思い入れが少なかったのでしょうね。

高津  あらゆる分野においてそれぞれのプロがいるわけです。 それこそ職人さんから大学の非常に優秀な先生まで。 分野ごとにある程度プロに任せるという仕組みが生まれるかどうかが変化の鍵になるような気もします。 ところが、 高度成長用のプロはたくさんいたかも知れませんが、 手法というかハウツーの専門家ばかりになってしまったので、 今のように高度成長が終わり低成長へ移行している過程の中では役に立たない。 規範とすべき哲学は不変だとは思うのですが。

福田  規範とすべき哲学は不変だと思います。 しかし、 今のお話だと、 その場合には、 スタッフ制を引く、 すなわちエリートを育てるということになりませんか。

高津  そうかもしれませんね。 組織をフラット化し、 プロジェクトに応じてプロジェクトリーダーを選択するという形態の所までは行われていますが、 エリートを据えるというところまでは現状ではできていないと思います。

福田  意思決定権をあるエリートに委ねてその人が引っ張っていくというのと、 合議制でわいわいがやがややるのと、 効率よくするためにはその両方が必要でしょうが、 私たちは責任を持って引っ張っていける人材の育成をしてこなかったという気がします。 責任を取ることの意味も問わなかった。

高津  日本は非常に豊かになってしまったので、 1つ1つの要素は相当高水準です。 しかしそれだからといって人は満足しなくなってきているのです。 総合化というのは既存のある要素を何らかの方法で組み合わせたり、 その方法を考え出したり、 あるいは使い方を工夫をすることによって全く違うものが生み出す。 総合化する能力が求められているにもかかわらず、 コーディネイター、 エージェント的な機能を有する人材が今の日本では極めて少ないのです。

福田  総合化するということは、 あちらのこともこちらのことも分かったうえで、 自分で責任を持って束ねるということですね。

高津  そうです。 最近、 アカウンタビリティーということが盛んにいわれますが、 自分で整理して組み立てない限り相手に説明できないのです。

福田  分析し考察する能力を備えた人には困難ではないのですが……。 そうした人材をどこに据えるかということもリーダーのヘッドハンティング能力にかかっていますね。 何々大学卒であるとか、 当社に勤続十何年とか、 持ち回り人事のようなことをやっているような組織は今後発展を期待できませんね。

高津  それをやっていると中長期的にはつぶれていくでしょう。

福田  現実に問題が起こってから行動するのではなく、 先取りしていくことが大事ですね。

高津  感性がないとだめですね。 直感の部分がある。

福田  これまでの教育は、 そういった部分を育ててこなかったんだろうと思います。 百何十年も前から、 いやもっといえば江戸時代、 室町時代ぐらいからかも知れませんね。 アカウンタビリティを要求する代わりに、 金も出し地位につけてやるから、 従前の通り、 慣習に従ってやれとなって、 判断を停止したような気がするのです。

高津  判断し、 そういった能力を証明する機関が日本にはないのです。 本来は大学が一番よいと思いますが、 大学の卒業証書が一種のスタンダードにならない憾みがあります。 企画するということは無から有をつくり出すことであり、 ストーリーをつくるというか映画をつくるようなものですね。
  雑誌の編集も映画製作に似たところがあるのかも知れませんが、 ノンフィクション作家でもあり、 編集者でもあられるエンターテインメント、 スポーツ、 レジャー分野の佐山さん、 続いてお願いします。
  
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  知的企業家精神をたたえていた団塊世代
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佐山  雑誌を作る側で編集したり企画したり、 寄稿したりということをかれこれ20年近くやってきたなかで、 ちょっと団塊世代に特化して語らせていただきます。 私は昭和28年3月生まれの巳年で、 坂本龍一、 村上龍といった人たちの一歳下。 団塊世代ではないけれども、 その尻尾のあたりだという意識はあります。 そして仕事をしていくうえでずいぶん団塊世代の方には助けていただいた。 直接の上司にあたるような年代なんですね。 現実にマスコミの世界は、 更に上の60年安保世代とは色々ありながらも、 今まさに団塊世代がヘゲモニーを握りつつある。 それも比較的早くから、 彼らは現場での自己達成が可能だったという捉えかたをしています。 元全共闘の人は、 他業種よりかなり多かったと思います。

高津  やはり多いですか。

佐山  さすがに最近はそういう話題も減ってきましたけど、 ムードとしてはやはりありましたね。 全共闘の人たちの就職時期は青田買いという言葉があったくらいで、 実は就職は大変に良い状況で、 意外と苦労なくみんな就職したということがあると思います。 僕らくらいの年齢の団塊の尻尾ぐらいだと、 急な石油ショックの影響で、 今ほどではないけどやっぱり就職はかなりひどかった。 しかしいずれにしてもノンフィクション系の作品は団塊世代の世代芸で、 なかなか魅力のある人が多い。

高津  どういう魅力がありましたか。 何か新しいものを生み出すというような。

佐山  いわく言い難いですけれども、 知的な何か新しいものを作るんだという実験的情熱、 知性なり文化なりの領域での起業家精神をものすごくたたえていました。 情と理とのバランスが良かったという思いがありますね。 ただ、 何せ人が多くて競争の激しかった世代ですから、 作家にしろ編集者にしろ誰がどこの学校出身だとか、 ものすごく学校歴にこだわりますね。 何を修めたとかの話より、 どこの大学だ、 高校はどこだ、 中学はどこだとやはりなりがちでした。

高津  ルーツが大事なんですね。 そういうのはありますか、 共通して。

佐山  ええ。 もう一つは、 何か 「男らしさ」 というものに対するその世代独特の強迫観念があるようです。 男らしさのゆくえがどうなっていくのかという研究は大阪大学の伊藤公雄さんをはじめとする男性学をやっている方たちのテーマで面白いのですが、 幸福論の構築というあたりで団塊世代は少しばかり闘争的に過ぎたと思います。

市川  今の話でちょっと思ったんですけど、 要するにどこ出身、 何とかというのは銀行員なんか典型で、 何年卒、 どこと大学をいうわけですよ。 それで終わるわけです。

高津  役所もそうです。

佐山  出世もあらかじめ入った段階で決まっていて、 途中で大病でもしない限り大体決まってると聞いていますから、 必要以上に学校歴などの属性にこだわるのも分らない話じゃない。 ただ、 現実にはエリートとしての内実を備えている人はほんの一握りでしかないですね。

市川  銀行の場合競争が激しいですから、 出世の要件を備えていても、 実際には多くの人がふるい落とされてきますけど、 今の佐山さんのお話は、 ある種権威的な組織に入れば権威的な仕組みで上がっていくという形を言っているわけですね。 ところが、 それが今崩れているという話があると思いますが。

佐山  出版の世界に話を戻しますと、 他人と同じ事をするのは冗談じゃない、 あるいは新しい才能を発掘してそのつぼみに肥料と光と水を与えて花を咲かせてやるんだという気概がまずないです、 仕組みの側にいる人間に。 放送はもともと免許ビジネスですけれど、 出版は免許いらないわけで、 自由度だけは高い。 しかも、 大手なら30そこそこで年収1,000万円ぐらいもらえたりするわけです。 ところが、 そのあたりの年収というのがクセ者で、 他の同年代のやつは色々消費をセーブしているけど、 まだ俺は好きな時間に会社に出られて買いたいものは買えるよ、 うまいもん食えるよというのが一番厄介な状況なんです。 こういう現実はもう無階級社会なんだからどうしようもないなと思います。 つまりクラスマガジンが成り立たない。 それはたしか 『朝日ジャーナル』 の廃刊のときに作家の安岡章太郎さんもおっしゃってた。

高津  無階級。

佐山  ええ。 世界的にも稀な。

高津  やっぱり芸術とか創作活動というのはある程度こう打倒というか打破すべきような階級とかあるいは制約とかそういうものがないと…。

佐山  一つにはパトロネージの問題だと思うんですよね。 企業市民とかメセナがバブルの頃に盛んに言われてましたから、 好況がもうちょっと続いていたら違う状況になっていたかもしれないですね、 僕はむしろバブル期を懐かしむことが多くて顰蹙をかっているんですが。 いま一つは、 団塊世代が一番残念だったのは自前の新聞を作らなかったことです。 上の世代とは切れている全く斬新なデイリーの、 「1日だけのベストセラー」 としての新聞を、 きちんと一から作り直すということがなかった。

高津  こういう分野でも、 今の若い世代というのはいわゆる無気力とか、 新しい時代を自分たちの若い世代が作り出していくエネルギーがあまり感じられないですか。

佐山  突破口を隙間産業に見つけて入ることができた人は幸せで、 いま活気があるのは、 パソコン関連とJリーグの周辺ぐらいなものではないでしょうか。 外から見ればただ騒いでいるだけのように見えると思いますが、 とくにJリーグのサポーターは彼らなりに100年構想のようなビジョンに自分たちの将来を仮託していたりもするんです。 つまりある地域に市民スポーツ組織をつくって、 そこでFCバルセロナのようにバスケットのクラブもバレーのクラブもみんな同じユニフォームを着て応援する。 そういうものが全国にできればいいな、 及ばずながら貢献したいという気持ちの若者が意外と多いですね。

高津  私事ですけども自分の子供で、 中学1年生になるやつがいるんですけどもね、 最初に何になりたいか書かせるというのがあって見たらサッカーのプロ選手になりたいと書いてあって 「えっ」 と思ったんですが、 今の子供にとってみると当たり前なのでしょうか。 昔なら陸軍大将とかになるのでしょうが。

佐山  陸軍大将というよりも長嶋に代表される野球ヒーローでしたね、 団塊世代は。

市川  何か逆に突破口があるとすると21世紀というかまあ15年あとくらいにあぶれてしまった団塊世代が暴れだしてとかそういうのはありませんか。

佐山  地域に根差すスポーツクラブの構想という中では今のところ彼ら世代の多くは残念ながら邪魔な要素になっています。 出向社員としていやいや現われて違うノリのことをしてしまう。 出向をこれ幸いチャンスと切り替えられればいいですけど、 Jリーグのクラブに来る前からもう人生に疲れていますね。 もちろん団塊世代でも非婚の男女とでは違うでしょうし、 あるいは離婚歴があるとか子供のいない人というのはまた分けて考えるべきだと思うんですが、 とにかく出向で来た人からは日々是新たというか、 毎日顔をつき合わせても飽きられないような新鮮な精気が感じられない。 そこで下の世代は陰で 「給料泥棒」 と言うと。 それが何か現状のようですね。 自由度の高い第3次産業の職場ほどこういう厳しい目にさらされている気がします。

市川  日本の今までの給与体系が、 今は払わず後で払いますといういわば先送りですよね。 だから将来地位を上げるだとかの含みをもたせて、 現状を取り繕うのだけどもいずれ破綻する。 やっぱり団塊世代がおそらくその影響を受けるでしょう。 将来もらえるものがもらえなくなってしまうわけですから。 まだ今出向で行く場所がある人はいいんですが、 この後のグループは出向もないわけですよね。 その時やはり革命とは言わないけども粗大ゴミになっちゃう全くだめな活力がないグループと、 それを許すまいと思って暴れはじめるグループとに分かれるんじゃないんですか。

佐山  そこでのリトマス試験紙というか踏み絵になっているのが、 キーボードが打てるかどうか。 あともう一つが、 喫煙習慣と縁を切っているかなんですね。 パソコンは二山越さなくてはいけないんです。 キーボードが打てて、 しかも会社で接続してもらうのではなく自分の家でも同じように扱えること。 これは相当やる気がある人でないと難しいでしょう。 或いはまた非会社人間としての行動がとれるかどうかにもかかってきてしまう。 そういう哀しいリトマス試験紙は他にもいくつかありますよね。 いやならいやで割り切ればいいんですけども、 競争好き世代ならではの葛藤が生じますから、 それをみた団塊ジュニアはますます父親を越えられない。

高津  団塊ジュニアというのは、 団塊世代の元気がなくなった像を越えられないと思うのでしょうか。

佐山  親を越えるのは子供にとって大変なことです。 家族機能の研究をしている人は必ずそう言います。 フロイトが父親の行っていない所に旅したことを嬉々として手紙に綴っている位ですから。 そこで必要になってくるのが、 レジャー/スポーツの順機能側面ということなんでしょうね。 一緒に筋肉使ったり、 それが苦手な親子であれば、 相応の文化施設で共に遊ぶ。複顔的な男の姿を子に見せることが、 歓待の倫理に裏打ちされた人間らしさにいつかつながるはずです。

高津  こんなぐうたらな親父を見習いたくないから違う道へ行くとかいう可能性は低いですかね。

佐山  スポーツの世界で成功している人には事情のある家庭の子供たちが意外に多いんです。 ただ、 それはメディアが知っていてもなかなか書けないことなんです。 <父の不在>が頑張りの源になるケースはたしかに少なくない。 問題は、 次のステップである 「世界」 という大きな舞台で羽ばたけるかどうかです。 ハイカルチャーの父としてサブカルチャーの子を禁圧しないと、 子はいつまでも汚いストリートファッションのまま大人になれずに、 ジベタリアンとしてコンビニの前でしゃがみ続ける。 個人的にはそういう社会はあまり見たくないということです。

高津  食糧・エネルギー分野の新田先生はいかがでしょうか。
  
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  食糧・エネルギー・環境問題の総合的解決を
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新田  食糧は日本だけの問題ではなく世界の問題でもあります。 アジアの人口増をアジアで支えられるかという問題は大きいことでして、 インドネシアでは既に食糧不足になっていますよね。

高津  そうなんですか。

新田  中国は今のところ大丈夫ですが、 人口増と生活水準の向上に伴って、 問題が生じてくるであろう。 大都市が食糧自給できるように郊外の貧しい農村地帯の生産性を上げるようにと命令を出しています。
  全世界的に見ると21世紀には、 2020年頃からアジアの方からタイトになっていって、 それを補うのはおそらくラテンアメリカ、 オーストラリアになるであろうとみられています。 例えばアルゼンチンやブラジルはずいぶん土地が空いており、 アマゾンのずっと南のセラードには、 国際食糧資本が進出してきまして、 上から見るとかなりの規模の大農場ができ始めているそうです。

高津  岐阜県もアルゼンチンに、 岐阜県の農地面積に匹敵するくらいの農地を買おうという構想があります。 一人当たりに必要な食糧をどこかの地域で生産することは可能だと思うのですが、 問題は流通も含めて必要最低限の食糧をどのようにして等しく分け与えるかということでしょう。

新田  おっしゃる通りです。 それから、 食糧は食糧のことだけを考えれば解決するのではなく、 エネルギーや環境と密接に関係していますからそれを解かなければならない。 エネルギーについていえば、 京都会議の京都プロトコールでCO2の排出量を削減しなくてはいけないことになった。 日本はこれにかなり一生懸命で、 ヨーロッパやアメリカはそれ程熱心ではないのですが、 アメリカ国内でみますとCO2の排出権市場というのをボランタリーにやり始めています。

高津  ボランタリーというのはどういう人達がやっているのですか。

新田  企業です。 企業で取引市場をつくっています。 それは先物買いなのですが。

高津  売ろうとする企業はどんな業種ですか。

新田  特定の業種ではないようです。 電力会社の間でも新鋭の機器を入れたりして効率を上げる。 効率を上げるために別の技術を持っている電力会社が投資をして、 下がれば下がった分だけは排出権を売ろうということをやり始めている。 アメリカとカナダの間にもまたがっています。 将来、 アメリカの国としてはやらないにしても、 州政府が強いですからやるかもしれません。 そういう意味で、 今のうちからやっておいた方が将来得をするであろうというのがありますね。
  オーストラリアも、 石炭の代替燃料を導入する動きがありますし、 植林をして2020年までに人工林を3倍に増やそうという計画があったり、 外にはみえませんが着実にやっています。 ヨーロッパなりアメリカでは石炭を天然ガスに変えようということでパイプライン敷設が進んでいますね。 それをアジアにもしたらどうかという。
  しかし、 アジアの途上国をみると天然ガスを持っているところは極めて少ないし、 インド、 中国、 インドネシアにしても石炭がとても大事で、 インドネシアでは石油や天然ガスが出てもそれを売り物にして、 自分の国では石炭を使っていこうとしている。 日本も含め先進国が石炭の技術開発を捨てて天然ガス化するというのは非常に危険というか地域の貢献にはならないと思うのです。 石炭というのは産地によっていろいろな種類がありますのでそれを規格化する必要がある。 例えばCWMという、 石炭を粉々にして水が3割ぐらい入ったドロドロの液体燃料があります。 発熱量や灰分がどのくらいかというある程度の幅の規格がつくれます。 それを仮に日本が提案してネットワーク化すれば、 タンカーが非常に楽になる。 途上国には大きな港湾がありませんから、 液化すれば石油タンカーをほとんどそのまま使えるんですね。 海上に置いておいてパイプで接続できるわけですし。 日本でもこのCWMは一部で使っています。

高津  どこで使っておられるんですか。

新田  勿来で使っていますし、 電力以外でも使っています。 日本の発電技術が良いといいましても、 それを途上国にそのまま適用すると、 石炭の種類が違いますから、 灰がつまったりいろいろなトラブルが起こります。 それを解決する技術を共有化するということは非常に大事なので、 私はCWMの方にいくべきだと思います。
  オーストラリアは植林に熱心ですが、 日本でも王子製紙、 講談社、 電源開発、 伊藤忠が一緒になって植林会社をつくったり、 いろんな動きがあります。 実はエネルギー、 食糧、 植林をみんなバラバラに考えると無駄な話で、 必ずリンクがあります。 例えば先ほどの中国の話ですが、 中国は食糧が必要であると同時に、 エネルギーの75%を石炭に頼っていますので排出するSO2の量がすごいわけです。 もちろんきれいな石炭を使おうという動きは出ていますが、 公害によって呼吸器系のガンの発生率が非常に高い工業地帯もあります。 経済成長と、 環境すなわち国民の健康を守るということが両立していないわけです。 ところが我々がたまたま気がついたのですが、 土地のアルカリ化が進んでおり、 乾燥したときにはトンカチで叩いてもへこまないぐらい硬くなっています。 植物は芽も出せない根も張れないというひどい状況なのです。 いったん雨が降りますとずぶずぶになって、 表面が流れてしまう。 黄河の水が濁っているのはアルカリ化の影響なのです。 測ってみるとpHが10ぐらいのところもあります。

高津  そんなに高いのですか。

新田  その特効薬は石膏なんですよ。 石膏は天然にあることはあるのですが掘り出さなくてはいけないし、 ロック、 岩状ですから粉にしなくてはいけません。

高津  最近、 石膏というのはゴミの焼却機で、 結構需要が高いみたいですね。 岐阜にも石膏の大きな会社があって最近伸びているそうです。 これが一番有効なのですか。

新田  これしかないのです。 たまたま大気をきれいにするための脱硫装置を入れますと副産物が出てくるのですが、 何とそれが石膏なのです。 中国において大気浄化のための脱硫装置と石膏による土壌改良を組み合わせた仕組みをつくろうではないかということで5年前から実験を始め、 今日に至っています。 オーストラリアも同様にアルカリ化が進んでおります。

高津  日本ではなかなか起きないのですか。

新田  日本は酸性の土壌ですから起きないのです。 オーストラリアの写真を見せていただいたのですが、 陥没したところが結構あるんですよ。 全国にアルカリ土壌が拡がっているのですが、 南の方には天然の石膏があることはある。 ですからその近所では天然石膏を使っているのですが、 日本が石炭を輸入しているクイーンズランド州あたりは石膏がないんですよ。 日本では中国からSO2が流れてきて、 酸性雨を降らせていますね。 日本に降ってくる酸性雨の約半分は中国からなんですよ。 中国から出てくるSO2の0.5〜1%は日本にやってくるのです。 何とかして日本はそれを止めなくてはいけない。 中国でも病人が一杯出てきて、 放置しておけば平均寿命は下がるでしょう。 それぐらいひどい状況であり、 何とかしなくてはならない。 食糧問題をとってみても、 中国が大量の食糧を買い付けるようになったら困るわけです。 そこで中国で、 何とか大気汚染や食糧問題を解決しようということで先ほど申し上げた仕組みを導入しています。

高津  そんなに効果があるんですか。

新田  はい。 全くゼロであったところが、 ha当たり4トンぐらいとれるようになりました。 ものすごく変わるんです。 脱硫装置がつけられないようなところはバイオブリケットに取組んでいます。

高津  バイオブリケットというのは何ですか。

新田  石炭を粉々にした豆炭なのですが、 豆炭に脱硫用の石灰を入れるのです。 バイオですからとうもろこしのくずを粉々にして入れるわけですよ。 ぎゅっと締めるわけです。 締める圧力が高くないと燃焼時や運搬時にバラバラになってしまう。 この技術は日本にしかありません。 1時間に100作れる小さなマシンを作って、 環境保護局の研究所で運転しています。 そのみそは灰なんですよ。 灰も土壌改良に有効利用出来るのです。

高津  経済的にはペイしそうですか。

新田  はい。 オーストラリアもアルカリ土壌が多いのですが、 日本の国内でCO2を下げる為に、 いくつかのシナリオがありますよね。 原子力発電所を16基以上つくれとか石炭火力発電所の稼働率を落とせ、 天然ガス化しろというのがあるんです。 それは最初の方に申し上げましたけれど、 日本はどこから天然ガスを安定供給してもらえるのか。 CO2問題の解決のために大量の天然ガスを導入するには、 成功するにしてもかなりの年月を要します。 よってその効果を論ずるのは時期尚早だと思うのです。 今お金を持っているのは電力会社だから、 電力会社にパイプラインを作らせろと言っている人もいますが、 間違いだと思います。 むしろオーストラリアと仲良くすべきだ。 もともと仲のいい国です。 オーストラリアは日本にとって石炭、 鉄鉱石、 食糧の供給国であり、 将来は天然ガスや石油の供給国になり得るわけですよ。 オーストラリア自身は植林しようとしています。 オーストラリアの輸出産品のトップが石炭で、 その金額は全体の10%を占める。 その半分を日本が買っていますから5%を日本が買っている計算になる。 それを鉄鋼と電力で半分ずつ使っています。 日本の電力会社が使っている石炭の6割がオーストラリア炭で、 いまだにいくつかの電力会社は火力発電所をつくろうとしている。 現につくっているんですよ。 それなのに稼働率を下げよというのはとんでもない話です。 そこで石炭を積んできた帰りの船に石膏を積んでいってオーストラリアのアルカリ土壌を改良するというスキームを作ろうということを今、 仕掛けています。 先ほど申しました製紙会社、 電力会社などの日本の企業が植林しようというのは、 単にユーカリを植えまくれという話で、 土壌改良というのは考えないわけですね。 将来的には石膏を向こうに返すというのを経団連プロジェクトにしてオーストラリアの一次産業のサスティナビリティを確保するというパートナーシップをつくっていきたいと思います。

高津  一通りお話を伺いまして感じますのは、 現在の日本における諸問題群が、 哲学の不在、 教育における目的観の喪失、 行きすぎた要素還元主義による総合的視点の欠落といったものに起因するのではないかということです。 こうした視点からもう少しお話を伺えればと思います。
  
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  都市の農村化で感性を取り戻せ
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進士  近代は農村を都市化してきたわけですが、 前にも言ったように、 行き過ぎたので少し戻すという意味で、 これからは都市の農村化をやらなければならないと思っています。 とりあえずは、 市民農園をつくるとか、 壁面緑化や屋上緑化で緑を都市に戻すというレベルがありますが、 それはフィジカルな側面からだけで田園都市をつくるに過ぎない。 私はどうもそれだけではいけないと思っています。
  明治政府は政権交代にともなって江戸の徳川政治を批判しました。 政治上の宣伝としてはやむを得なかった部分もありますが、 必要以上に農村社会は封建的で暗黒だというキャンペーンをはったのではなかったかと思います。
  丁寧にみると、 文化的レベルでも地方の文化水準は高かった。 地方ごとの農業のやり方、 暮らしのあり方から、 消費、 漢方薬による健康管理にまで言及する 『農書』 がたくさん出ています。 これは昔の農村の篤農家が書いているのです。 つまり昔は地方地方に文化があり、 地主階級である名主とか庄屋とかいった人たちは、 相当な学問レベルにもあったし、 出版文化が盛んでしたから沢山の本も全国に流布していたのです。

高津  都市住民よりも意外と市民意識が強かったのですかね。

進士  篤農家らは、 リーダーシップを発揮するプロデューサーでありマネージャーでありディレクターであり、 いろいろな役割を背負っていたのです。 経済だけではなくて文化活動、 オピニオンリーダーでもありました。 農地解放までは彼らが地方を支えていたと思います。 福田先生の 「哲学」 のお話ではありませんが、 恥の文化もあったし、 先憂後楽という思想もあった。 何も時代劇のドラマになるような、 悪代官が農民から搾取するということばかりではなかったのではないですか。
  日本の農村というのは、 ヨーロッパの農地に比べて農学的にみて生産性が高い。 気温が高く、 水が豊富で土が良い。 それに勤勉で労働集約的でしたから農業生産性は高い。 それが減反政策によって、 せっかく生産性の高い農地がほったらかしにされ、 工業製品輸出の犠牲にされている。 政治家は日本の国土の自然を知らなさすぎる。

高津  政治家に限らず、 今の現代人全部だと思います。 自然と農業を知らなさ過ぎますね。

進士  何でも数字や理屈で考え過ぎる傾向がありますが、 私はどちらかというとこれからの時代、 感性というか感覚が大事であると思っています。 生きるためには感性とか動物的感覚が必要なのです。 ところが近代化の過程で頭だけを使うようになり直感力が低下してきた。 我々は、 どういう社会が好ましいか、 どういう環境であるべきか、 どういう生き方が最も人間らしいかという感性をだんだん失ってしまい、 他から情報をもらわなければ判断できないという情けない状態になってしまいました。
  山菜摘みをするには山菜の知識が必要になります。 植物図鑑も開かなくてはいけない。 道の駅でビニールの袋に入った山菜を300円で買ってくるのと、 自分で見つけて山で摘むというのは大きく違う。 山菜を摘むという行為と同時に、 山へ入って行くわけですからそれこそ山村の暮らしもみることになり、 自然性と社会性を両方手に入れることができます。 本当のランドスケープは壮大であり、 日本の山村のことも考えていくと、 新田先生のお話ではありませんが、 東南アジアの熱帯雨林のことも考えるという発想につながるのです。
  マルチハビテーション、 多自然居住を進める政策を本気で打ち出せば、 もっと大きな移動も起こってくると思います。 フランスでかつて、 お金持ちだけのものであった旅を一般大衆のものとするために安い宿を確保する等の政策が講じられ、 ソーシャルツーリズムを大きく発展させましたが、 日本人は根っこのところで自然と付き合いたいという国民性がありますので、 それをうまく刺激し引き出す具体化的な施策がセットになれば、 変わってくるだろう思います。 道の駅なども良い試みではあるけれど、 産業政策に特化しすぎている気もします。

高津  文化論ではなく、 どれだけ儲かるかとかね。

進士  極端なことを言えば拠点施設は不要で、 ガイドマップだけあればいい。 それよりも交通政策とか休暇政策など、 ソフトの部分を丁寧にやることによって、 コンスタントに来客はあるでしょう。 シーズンだけたくさん来てオフシーズンは誰も来ないでは困りますから、 料金制もオフシーズンとシーズンとの間に10段階ぐらい設ける、 学校ごとに農村体験をやるのもよいでしょう。 総合的学習の時間ができてゆとりの教育をと言っているわけですから、 人口が10万人以上の都市に住んでいる子供は全面的に農村体験をさせるぐらいのことをやれば日本の将来のためになるでしょう。 大量生産とピークをつくるとコストを下げられるというのは工業の論理であり、 農業の論理はコンスタントに継続させることこそ大事ということです。 農村の文化や農の論理というものを踏まえながら、 都市の利便性や集中性や文化水準の高さも認めていくということが大事でしょう。
  
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  「共生」 の目指すもの
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藤崎  社会学という学問は近代の幕開けと共に生まれました。 なぜかといえば、 そこで初めて本当の意味での 「個人」 という概念が認識されるようになったからです。 もちろん 「人間」 はいつの時代もいたわけですが、 近代以前は、 単純化していえばまず共同体があって、 共同体の1つの細胞・要素という形で人間が位置づけられていたのです。 そして、 例えばヨーロッパであれば、 キリスト教的な規範が秩序の維持に貢献していました。
  それが、 市民革命や産業革命とともに近代と呼ばれる時代に入り、 いろいろな意味で初めて個人が誕生したのです。 個人の誕生により一人一人の人権が重んじられ、 個人主義という価値観が成立したことは、 一方では進歩であったと思いますが、 同時に全体との調和や秩序維持の問題、 そして利害対立の問題が起こってきました。 強い規範や宗教的な秩序などによってもう一回全体を方向づけ、 個人の人権を抹殺することは出来ないけれど、 個人を尊重しながらもう一方で社会的な秩序を形成していくにはどうすればいいかという問題を解明するために社会学が登場したと思うのです。
  社会科学の領域で、 例えば経済学などはもう少し古い時代からあり、 近代社会における経済的秩序をどのように達成するかということを問題にしたのですが、 どうも経済学という網ですくうだけではその辺りの問題を全部すくいあげることは出来ないのではないかと。 もう少しトータルな意味での人間、 合理的に思考して常に経済的利益等、 何か分かりやすい目標に向かってみんなが行動していくような存在ではなくて、 場合によっては非常に非合理的な行動をとることもある生身の人間を、 社会との関係で考えていくというテーマを追求してきたのです。 だから社会学は、 近代と共に生まれて近代社会の成熟と共に発展して理論の蓄積を重ねてきたのですが、 ここ最近では、 近代の延長線上では考えられないような問題状況が新たに出てきているのではなかろうかと思います。
  日本の戦後に関していえば、 科学技術の進歩とか経済的・物質的な豊かさの追求という共通目標があり、 それに向けて国民一丸となってとまではいえなくとも、 それが一定の社会的秩序を維持するための基盤になっていたと思います。 ところがここにきて、 その方向をどんどん進めてきたが故にさまざまな問題が出てきて、 どうもこれではまずいんじゃないかということが言われ出したのですね。

高津  意図したわけではなかったと思うのですが、 一人一人が貧しかったためにそれを志向したのだと思いますね。 それが終わったときに、 それに変わる共通の目標が出来ればよいのですが、 今のところないのです。 そうかといって、 例えば政府がこういうのだという提案もできないという状況ではないかと思います。

藤崎  社会学も近代という枠組みにのって発展してきた部分があるわけですが、 近代というものをもう一度一歩離れたところから客観的に評価し、 出発点から考え直してみる必要があるのではないかと思います。

高津  近代というもののベースがこのままではまずいのではないかという問題意識を持ったときに、 それを解きほぐすキーの1つはジェンダーですかね。

藤崎  1つのキーであるとは思いますね。 なぜなら、 近代社会のなかで誕生した 「個人」 とは、 実は人間一般を意味するものではなく、 人的資源として社会に貢献できる男性だけが想定されていたこと、 そして、 そのような男性中心社会がさまざまな問題やひずみを生み出しているということがあきらかになってきたからです。 戦後の社会を支えてきたある種の共通価値や目標がもはや有効ではなくなったとき、 おそらく一番簡単なのはそれに変わりうる別の価値を持ってきてもう一度全体をまとめ直すことなのでしょうが、 そういう方向には行かないと思うのです。 「共生」 ということが盛んにいわれていますし、 全部ひっくるめて同じ方向にみんなを向かわせましょうという発想自体がこれからはとうてい支持されないだろうと思うのです。

高津  最近のNPOなどをみていますと、 広い意味での生活の質を向上させるためにグループをつくるという方向に行くのでしょうか。

藤崎  やはり豊かになるということは個人主義が強まっていくということと必ず背中合わせになります。 目標が拡散したり、 鋳型のように人々を画一的な方向に向かわせるような秩序が維持できなくなったのは、 近代という時代が目指し、 実現したことの当然の帰結ですからね。

高津  ある意味では極めて合理的な状況ですね。

藤崎  そうですね。 おそらく 「共生」 が目指すものは、 すべてを1つにまとめてしまうのではなく、 それぞれの異質性をお互いに認めあった上で、 最低限の協力関係を維持していくということではないでしょうか。 それは地域であれ、 日本であれ、 地球という規模であれ、 お互いが自分一人で生きているのではなく、 何らかの形で支えあわない限り自己という存在もありえないということに、 もう一度目を向けることだと思います。

高津   「共生」 というのはなかなか難しいんですよ。 今ご説明していただいた部分は基本的にその通りだと思いますが、 「ネットワーク社会」 「共生」 以外に何か良い言葉が欲しいですね。 「共生」 はちょっとわかりにくいですね。 その言葉が見つかると、 閉塞状況が多少なりとも変わるかもしれません。 社会学にとって、 今は非常に面白い時代なのかもしれませんね。

藤崎  社会学の理論的パラダイム自体を、 見直す必要があると思っています。
  
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  個人研究の市場化を
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米本  価値観の転換ということで申し上げれば、 日本の富を医療、 介護、 教育、 学術といったものに使うという価値観の社会になることが必要だと考えています。 医療費が多いということで80年代の半ばから医療費削減の方向に進んでいます。 確かにむだな医療は目につきますが、 それ以上に保険医療、 介護で経済が回転する社会を作ることが重要ではないか。 省エネルギー・省資源型社会とは、 医療、 福祉、 教育、 研究資金が循環する社会ですよね。 研究というのは、 社会がどうなっているのか、 あるいは地域の資源がどうなっているか、 地域の自然がどうなっているかということのバックデータですから、 それは自然保護につながったり、 行政の政策立案の基本になりますので、 そういう部分で需要を喚起し、 経済を変えていくのは重要だと思います。

高津  先生がご覧になる成熟経済というもののひとつの具体像ですか。 今まで一生懸命ものをつくって輸出してドルを稼いで貯めるというのが美徳とされた時代に生きてきた者としてはいささか後ろめたさがあるのですよね。

米本  スウェーデンの場合を思い浮かべればよいと思います。 500万から600万人の国だからモデルにならないと切り捨てられていた面が多かったのですが、 実は地方分権を行っていくとスウェーデンのようになると思います。

高津  日本はすぐにアメリカやドイツのような大きな国をモデルにするのですが、 土地利用計画においてもベルギー、 オランダ、 ノルウェーなど、 小さな国の方が日本にとって参考になるという議論があります。 今の話もそれに近いと思っていたのです。

米本  その通りです。 スウェーデンは20世紀の初めには必ずしも経済的には豊かではありませんでしたが、 ふたつの大戦をくぐり抜ける間に世界の先進国になったわけです。 EUの市場統一による影響でスウェーデン政府も以前より小さな政府になりましたが、 今なお良いモデルだと思いますね。 地方分権が推進されるなかでちゃんとした福祉をやる際のモデルとなるでしょうね。

高津  数百万単位でやってきた経験をモデルとする方が良いのですね。

米本  私は、 医療福祉から研究へというように移行していくのではないかという気がします。 というのは、 普通の人は自分の健康について関心があり、 病気については研究したくなるわけです。 個人の自主的な調査研究、 それがたまたま福祉や年金の研究であったり、 あるいは生物でも何でもいいのですが、 勉強することを鼓舞することで一種の消費市場を創りあげる。 その研究成果を共有データとしてプールしておいて、 逆に行政が政策立案する際に活用をすればよいし、 行政サービスのフィードバックにもなるわけです。

高津  今はそれができていないでしょうか。

米本  できていないと思います。 個人が調査するということは、 大学の先生がやっていることを素人がまねごとでやっているというのではなく、 余暇を単なる道楽に費やすのではなく、 社会システムの一部を調べるために使うということです。 調べた成果は自分の生き甲斐にもなるし、 社会的な視点から改めて編集することによって行政の政策立案の根拠にもなる。 政策のフィードバックにもなる。 それがたまたま医療だったり保険だったり自然保全だったり教育だったりする。 そういう需要を喚起し、 補助金を付ける。 そういうものがポストモダンの先進成熟社会でしょう。 なぜそんなことをいうかといえば、 スウェーデンの地方の行政官というのは大学の先生みたいなんですね。 幼稚園の先生も行政官も非常に知的で、 まるで大学の先生と話しているみたいなんです。 来学期から大学の福祉科で 「地方行政と福祉」 というテーマで1週間集中講義をしても全然おかしくないくらいの知的な人たちです。 そういう意味では研究と行政、 研究とサービス、 研究と個人の生き甲斐といったものを、 ある種の需要として市場化してしまうのもよいのではないか。

高津  それは面白いですね。

米本  大学の専門家は何になればよいかというと、 個人がいろいろ勉強することについてのインストラクターになればよいのです。 普通の人の研究は、 最初はつまらない研究ですから、 アドバイザーや批判者になって、 研究を評価し励ますのが専門研究者の役目です。 専門研究者は、 自分の好きな研究をするのもよいのですが、 個々人の生き甲斐なり、 人生の余暇のエネルギーを意義ある方向に進めるためのアドバイザーになる。 研究テーマは、 どうしても環境、 医療、 福祉、 教育というあたりに収まらざるを得ない。 そのうちの優良なものは情報として共有して行政が利用してもよいし、 他の研究者が利用してもよい。
  これからの時代は、 医療福祉というエネルギーを使わない省資源型の消費を何の後ろめたさもなく拡大したらよいのではないか。 拡大の仕方として、 個人の探求心、 向学心、 その裏には生き甲斐なり不安があるのでしょうが、 そこを一種の新しい需要として掘り起こして、 経済を回転させる。 これは大学の活性化にもなるし、 行政の合理化にもつながる。

高津  医療、 福祉、 環境が大事だという話になったとき、 その担い手が個人ではなく、 すぐにお医者さんや環境産業の方にいってしまうのです。 それはそれでよいのですが、 少しは個人の探求心・興味や心豊かになるための勉強と新しい省エネ型の需要項目とが結びつけば、 面白い世界になるかもしれませんね。 大義名分を与えるというか。

米本  雰囲気としてはスウェーデンはそうなんですよ。

高津  日本からみて何をしているのかわからないほど静かですが、 そこそこ良いことをやっているのですね。
  新しく枠組みをつくって医療、 介護、 福祉、 環境というものを社会や経済の牽引力としていくというお話は非常に興味深いのですが、 現状はそうなっていませんね。 どう現実化するかというのが問題ですが。

米本  難しいですね。 私はNGOの一員ですが、 先進国の中でこんなにNGOがない国はない。 要するに公的な課題については全部行政に文句を言って行政にやらせるものだと思っている。 自分たちはただ日々税金を払って経済活動、 もしくは主権者としての消費しかやっていない。 こんなへんな先進国は日本だけです。 私は日本には、 主権というのは消費者主権しかなくて、 政治的には去勢されている国だと思う。 それを変えるのは有能なオーガナイザーだと思いますよ。

高津  そこは同感ですね。

米本  これまでやって駄目だからこれからも駄目だろうと思うでしょうが、 私は何かある閾値を超えると日本は本当に良い社会になると思います。 今みていますと絶望的にみえるのですが。

高津  今のままでは駄目だと思っているんですよ。 閾値の超え方が提示されたり、 オーガナイザーが出ると変わり得ると私も思いますね。

米本  それは10年かからないと思います。 4年で日本国内は変わると思います。

高津  もし閾値を超えるときが4、 5年で来るとした場合、 それにうまく団塊世代が乗ることができれば、 今の50歳代前半の人達の老後といいますか、 人生80年の人生が相当バラエティー豊かになり得るのではないかと思うのですが。

米本  潜在的にはそうですね。

高津  そういう力が、 我々に残っているかどうかをチェックしなければいけない。 これがなかなか疑問なのですよ。 どうも粗大ゴミではないかという感じがしないでもない。

市川  戦前、 戦中、 戦後派みたいな話があって、 団塊世代は戦後生まれ戦後教育ですね。 役所でいえば今は課長クラス、 後5年もすると部長、 局長も出てきますね。 政界はともかく、 それ以外は全部上まで握るわけですね。 その世代が割り切れるかどうか。 おそらくまだ割り切れないのではないでしょうか。

高津  閾値を超えないというのは、 大組織、 集団でやってきた人には、 NGO的な活動のひとつひとつは小さいが、 それが数が集まれば社会を変え得る可能性を持っていることが分からない人が多いからでしょう。

市川  4年後に団塊世代は55歳になるわけですよ。 その頃には確かに何かが起こるかもしれない。 いろいろな既存のシステムが破綻をきたし、 新たな枠組みを求める動きが出るかもしれませんね。

高津  健康、 福祉、 環境、 教育というのは、 このままでは良くないとひとりひとりが切実に思っているわけですよね。

米本  みんな駄目だと思っているのですが、 外国などと比較すると意外と良かったりして、 国内のやり方でもいけるのだというのもあるんですね。 真面目に勉強すればそういうものが一杯見えてくると思う。

高津  何か大きく枠組みを変えなければならない時には、 ある種の総合化が必要だと思います。 先生のご担当分野でいえば、 医療という専門化した形で語るのではなく、 他の要素を加味して総合化してビジョンをつくる力が弱まっているという気がしますね。

米本  私は短期的にも長期的にも楽観的ですが…。

高津  私はそれを期待したいんです。 変わるとすれば面白いと思います。 持っているストックが結構大きいですから。 ガラガラと変わり出すと思います。 連続変化じゃなくて不連続変化だと思うんですよね。 数年の間にガラッと変わる。
  
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  多様な価値観認める社会を
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三浦  情報化が叫ばれ、 情報技術が進展すればこれからの時代は何とかなるというような考え方もあるようですが、 人間はものを食べてこそ生きていけるのであって、 食糧生産があり、 工業技術があってその上に情報技術があるのであって、 情報技術さえ進めばみんな食べていけるかといえば、 そんなことはありません。
  教育についていえば、 日本の成功の象徴は大量生産型の効率追求システムであると思いますが、 それに寄与した教育はこれからは役に立たなくなるでしょう。
  昔は学歴はなくても偉い人はいたわけです。 実際に地域社会の人たちは尊敬してもいた。 しかしそれがいつしか有名大学卒じゃないと偉くないという体系になってしまったことがそもそもいかがなものか。 価値の尺度が一本になるというのはよくないんじゃないか。 複数の価値体系があるべきですね。 別に大学を出なくても良い。 能力を発揮していればその人は素晴らしいのだということが認められる社会にしていくことが大事だと思います。

福田  日本の巨大な赤字という現実を考えたとき、 将来へ向けての投資をどの分野にするかということを良く考えなければなりませんが、 元々、 芸術・文化への投資が少なかったのが、 今、 政府は教育予算を真っ先に削ろうとしているように私にはみえるのです。 これは非常にまずいことだろうと思っています。 教育は、 現在の投資であると共に、 将来への投資でもあるからです。 100年、 200年の計を立てると、 教育予算を削ると、 じっくりボディ・ブローのように効いてくる。

高津  最近の日本人は、 目に見えるもの・動くもの・触って分かるものにしか価値を見いだせなくなっている。 目に見えない・動かない・触って分からない無形なものはある意味で文化なのですが、 もちろん金にもならないし、 ほとんど評価されない。 しかしそういうものこそが、 これからの時代の枠組みをつくり出したり、 行動原理を規定する一番基本的な部分に大きな影響を与えるのです。 先行き不透明であっても先ほどの 「なぜ?」 と問う独創的な教育がなされていれば、 自分で何かをつくり出すというか立ち向かって切り開いていくでしょう。 起業するとか学問をおこすとか。

福田  極端な話それは奇人変人をも大切にしようということにもなりますか。

高津  直感は大事だが山勘はいけないというのと同じで、 奇人変人ではいけないと思います。

福田  やはり常識は備えているが、 非常に想像力豊かであれと。

高津  ある部分では奇人変人であるべきでしょうが、 中心的な部分は常識的な方が社会は安定するでしょうね。

福田  安定した社会の中でいつも不満がぶすぶすとくすぶっているような状況ですね。 みんな横並び、 少しそこからずれれば、 「出る杭は打たれる」 で、 社会でも学校でもすぐにいじめられるます。 認める幅を広げるということは大事でしょうね。 これは、 先ほどの三浦さんのご指摘ではありませんが、 入学試験、 入社試験とか国家公務員試験とか、 旧態依然とした既存の尺度、 判断基準をどう打ち崩していくかということにかかっていますね。 多様な価値観を認めることは、 良い意味での寛容な社会、 人権感覚あふれる社会の建設にもつながっていくと思います。

高津  21世紀を明るいものとするためには、 まだまだ様々課題がありそうですが、 一つひとつ挑戦してまいりたいと思います。 本日はどうもありがとうございました。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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