7 政治

地域づくりが国づくり
――「低コスト高満足」社会への道すじ――


加藤秀樹
(構想日本代表、慶應義塾大学総合政策学部教授)


1. キーワードは何か
  高齢者介護、 ごみや廃棄物の処理、 学校教育、 地域の振興、 そして行革、 財政赤字、 地方分権。 どれも日本中の地方自治体が共通してかかえる問題だ。 同時に国の問題でもある。 国も地方もこれらの問題への対応に追われているが答えを一層むつかしくしているのは、 これらが、 あちらを立てればこちらが立たずといった関係にあると考えられていることだ。 私はこのような状況をほぐしていくうえでのキーワードはコミュニティだと考えている。 かつては 「コミュニティ大国」 だった日本が、 急激な都市化の過程で大都市を中心にコミュニティを失っていった。 これをもう一度どうつくりあげていくかが、 冒頭に挙げた諸問題を解決していく上での共通する鍵であり、 日本全体にとっての基本的な課題だと考えるのである。 以下このことについて考えていきたい。

2. 大きい政府が抱える問題
  日本人の多くは、 福祉、 教育、 文化、 社会資本整備などはすべて行政 (国及び地方自治体) すなわち 「お役所」 あるいは 「官」 が行うべきことと考えている。 つまり、 国民、 住民は、 多少の不公平はあっても、 税金を納めることによって、 大部分の公共的な活動を 「官」 に委ねてきた。 しかし、 官僚の汚職事件や薬害エイズなどは別にしても、 様々な問題が生じている。 社会資本整備といえば、 公共工事を行うこと自体が目的化して、 大して使われないダム、 港湾、 空港などが造られ日本中がコンクリートで固められている。 文化の名の下に全国各地に立派な多目的ホールや美術館ができたが肝心の中身が伴わない。 このような事例を多く目の前にして、 官が行う公共的な活動が本当に国民や住民の利益、 満足度の向上をもたらしているかが疑わしくなっている。
  高齢者福祉を例にとってもう少し具体的にみてみよう。 政府のこれまでの方針は、 福祉=社会的弱者の一律救済という思想のもとに、 高齢者を施設に集め画一的に管理し、 サービスを提供するというものである。 したがって施設がどれだけ充実しているかという物差しで入居者の満足度が測られ、 そのような施設が全国にどれだけ建設されたかで、 国全体の福祉レベルが判断される。 そこでは生活のうえでの楽しみや生きがい、 家族との絆などは二の次である。 かりに、 そのような施設を建設するのに30億円かかり、 年間の運営に数億円かかるとする。 一方ホームヘルパーを養成し、 公的な補助を行ったとしても、 経費ははるかに安くつくだろう。 面倒を見てもらう側のお年寄りとしては、 いくら立派であっても施設に入るよりは自宅でホームヘルパーに手伝ってもらいながらも家族と暮らす方がうれしいかもしれない。 それでも、 今の日本では結果的にはより多くのお金をかけた方が 「高福祉」 ということになってしまうのである。
  また、 行政が対応するということは、 税金を使っている手前、 サービスの内容に平等性が求められ、 入所者の多様な求めに応じられない結果となることも多い。 さらに、 各施設は必ずそれを所管する官庁が決まっていて、 サービスの内容も所管官庁の職務の範囲内になってしまう。 高齢者の場合、 施設に暮らしながら医療サービスを必要とする人もいるが、 福祉と医療は別のタテ割行政であるため、 福祉施設で得られる医療サービスには限界がある。 経営面でも、 価格設定が画一的で、 個々の施設の特性が考慮されず、 経営条件が悪いケースにもとづいて設定されるため、 無駄が多くなってしまう。 無駄を合理化して余剰金を出すと、 監督官庁からサービスを怠ったと判定されるので、 予算はとにかく使いきらざるをえないとの指摘もある。 行政が関与することによって、 必要なサービスが提供できないのみならず、 競争原理が働かず、 コスト面でも非効率となる。
  これと同じような状況は、 国、 地方を問わず、 教育、 環境、 地域振興などに関して広く見られる。 つまり、 国や地方が公共的な事業、 サービスを独占的に担ってきた結果、 コスト=税負担は高く、 住民の利益、 満足に結びつかないものが増えてきたということだろう。

3. 「官から民へ」 の本当の意味
  世はあげて 「官から民へ」 の時代だ。 先に述べたような状況に対して、 行政の仕事と役人を減らし企業に委ねていけば、 サービスも効率も改善し、 経済は活性化するというニュアンスで使われる。 しかし行政改革や規制緩和を進めるだけで本当にそんなに素晴らしい社会が実現できるのだろうか。 私はそうは思わない。 第一に、 官から民とは、 行政のコントロールから市場メカニズムへという意味合いで使われる。 しかし、 それでは20世紀初頭に戻れというようなものではないか。 福祉国家が行きすぎたからといって資本主義の原理主義を説くのではあまりに能がない。 第二に、 効率、 競争、 成長を取り戻そうというのでは、 単なる経済至上主義であって、 ついこの間まで多くの人々が口にしていた 「精神的な豊かさ」 や 「生活の質」、 「ゆとり」 更には地球環境問題との折り合いをどうつけるのか。 そこに答えはない。
  ではどうするか。 私はこのいわば市場メカニズム至上主義も、 それに対して、 それでは弱者の切り捨て、 福祉の低下になるという批判も、 いずれも暗黙のうちに官が公共分野を担い、 民が市場において私的な事業を営むという前提で物を言っていると思う。 確かに、 経済学で登場するのは政府部門と民間部門=企業だけであり、 経済分野の専門家の間ではこのような前提となってしまうのも仕方ないのかもしれない。 これまでの日本では、 国民が税金を払い、 それを政府が様々な行政サービスに割り振ってきた。 つまり国民が高い満足を得ようとすれば、 高い税金を払う必要のある 「高福祉高負担」 社会だった。 逆に、 政府にあまり期待しないなら、 税金を安くすればいいことになる。 これがいわゆる大きな政府、 小さな政府の議論だ。 この議論を押し進めると、 行政改革、 規制緩和の目指すところは 「低福祉低負担」 ということになる。 そこでは人々は優勝劣敗の市場原理の下で 「自己責任」 で生きていくことになる。
  この大きな政府、 小さな政府の議論は、 上記のように公共的な活動、 サービス提供は政府だけが行うという従来型の固定観念に縛られている。 私はここで、 「官」 以外の公共的な活動の担い手を登場させたい、 とりあえずNPOといっていいだろう。 すでに各地でボランティアを含むNPOが老人介護や地域教育、 リサイクルなど様々な活動を行っている。 欧米ではNPOの活動範囲は日本よりははるかに大きく、 そこで雇用される人数、 生み出される付加価値の大きさは注目に値する (注1)。 日本でもこの分野は今からまだまだ成長していくだろう。
  ここで、 念のため言葉の整理をしておこう。 これまで日本では公共分野にかかわることは専ら 「官」 が担ってきた。 のみならず、 官は私的な分野にまで手を伸ばしていた。 国鉄や電々、 第三セクターはその例である。 民営化とは私的な分野から官が手を引くということだといえよう。 そして行革とは、 これまで官が担ってきた公共的な活動を縮小するということになる。 そしてこの官が手を引いた公共的な部分を担いつつあるのが民間で非営利活動を行うNPOなのである。 (図1)

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4. 公益のアウトソーシング
  これまで日本では、 何が公共の利益=公益になるかを判断し、 またそのための事業を行うのは専ら官の役割だとされてきた。 民法学者の星野英一氏はこれを 「公益国家独占主義」 と呼んでいる。 たしかに日本では古来、 一般的に公=国と理解されてきた。 現在でも公的な支援といったように公=国あるいは官の意味で使われることが多い。 また万事 「お上頼み」 の癖がある。 しかしこれは本当に日本人から消し去り難い国民性であって、 変わることはないのだろうか。 私はそうは思わない。 なぜならばそれは明治以来せいぜい130年程の間に身についたものであるからだ。
  いわゆる国民国家が成立する以前の国の役割は治安維持とか外交、 防衛など限定されたものだった。 夜警国家と呼ばれるものだ。 そこでは、 身の回りの公共的なことは基本的には自分たちでやるというしくみが出来上がっていた。 災害対策、 公共工事、 教育、 保険衛生、 町づくり、 身障者や高齢者の世話など現代では国や地方政府が行っていることの大部分をコミュニティ単位で担っていた。 伝統的な日本の社会でも同じく、 これらのことは村単位、 町単位で行っていた。 このように夜警国家時代は日常的な公共活動に関する限り極めて分権的で、 その主な担い手はコミュニティ単位の 「民」 であった。
  このような 「小さな政府」 から20世紀型の 「大きな政府」 つまり福祉国家への変遷の背景には、 産業革命以降の社会の変化があった。 工場労働者の出現、 都市化そしてそれと併行して進んだ所得格差の拡大や伝統的なコミュニティの荒廃、 都市の衛生や治安問題の発生などである。 同時に、 工業力を背景とした国家間の経済力競争も激しくなった。 そして、 その競争を勝ち抜くためには、 道路、 港湾をはじめ様々な社会資本を整備しなければならず、 また、 急激な都市化に対応して労働者の最低限の生活を保障し、 国を秩序づけていくには、 それまで地域毎に提供されていた様々な公共サービスを国が担わざるを得なくなっていった。 その行き着いた先が福祉国家であり、 この過程で公共分野の担い手が民から官へとシフトしていったと言えよう。 これは各地域の住民の側からみると、 それまで自分たちで行ってきた様々な公共的な活動を行政に対して 「アウトソーシング」 していった過程だとも言えると思う。
  日本の場合、 この過程が明治以降、 欧米先進国に追いつき追い越せということで人一倍急激に進んだ。 しかも、 近代化と富国強兵の実現が第2次世界大戦で中断されたため、 キャッチ・アップのプロセスが戦後もう一度くり返されたのである。 昭和20年以来一貫して拡大しつづけてきた公共事業、 基幹産業育成のための傾斜生産方式にはじまった産業政策、 所得倍増などの経済政策、 そしてそれらを支える画一的な教育政策、 さらにこれらを全国に行きわたらせるための地方自治制度など中央官庁主導の中央集権的な政策は、 経済的な豊かさを手に入れ、 欧米先進国に追いつき追い越すためには極めて有効に機能した。 しかしそれと裏腹に、 公共分野の民から官へのアウトソーシングが集中的に進んだ。 そしてそれまでの担い手であったコミュニティとそこにおける公共生活のためのルールも 「前近代的」 なものとして切り捨てられていったのである。
   「公益国家独占主義」 が日本の歴史をみても主流ではなかったという証拠をいくつか挙げておこう。 警察、 消防、 教育、 公共事業などは現代では誰もが政府が当然に行うべきものと思っているが、 江戸時代にはその多くを民間が担っていた。 目明かし、 火消し、 寺子屋、 道普請などの言葉を想いおこせば納得して頂けると思う。 教育についてみると、 江戸幕府には現在のような全国一律の教育行政はなかった。 しかし幕末の江戸の就学率は70%から80%を超え、 当時のヨーロッパよりはるかに高かったと言われる。 寺子屋用の教科書は、 実物が残っているだけでも7,000種類以上、 うち約1,000種類は女子教育専用だという。 「江戸の花」 といわれた火消しもまた町人自身による組織だった。 江戸の行政全般を担当していた奉行所の侍たちがすべてあわせても数百人しかいなかったのに対し、 火消し人足の数は1万人近くいたとされる。 ここでも民が中心であったわけだ。 大事なことは、 寺子屋の師匠にしても火消しにしても町の人のほぼボランティアとしての活動であり、 それが故に町の人たちの尊敬や憧れの対象になっていたということだ。 (注2)
  かつて我々が教えられた江戸時代は専制君主国家の見本のような国だった。 そこではお上がすべてを取り仕切っていた。 だからこそ多くの日本人は、 「お上頼み」 は古来日本人の特性でありちょっとやそっとでは変わらないと思っている。 ところが、 それは正しくないらしいのだ。 江戸時代のお上の役割は実は饅頭の薄皮のようなもので、 その皮の下では徹底した地域の自治が行われていたのである。 先に述べた例のほか、 結、 衆、 講、 組などコミュニティの共同事業を表すたくさんの言葉がそのことを物語っている。 つまり日常生活の上での公益は専ら一般国民が担うというのが江戸時代の基本的なしくみであり、 だからこそ現代の 「高福祉高負担」 型政府が直面している様々な問題を抱え込むことなく、 長期間続いたと言えるのではないか。

5. 公益国家独占主義の変革
  過去130年間あるいは50年間に公共の利益の中身が大きく変わってきたこと、 また、 それを国が担いつづけてきたことにより組織益、 利害関係者の私益が優先されるようになり、 無駄や不公正が限界まできていること。 これをどうするか。 一つは、 国が提供する 「公益」 の中身や無駄、 不公正を見直すことだ。 様々な行政改革や規制緩和はこれにあたる。 もう一つ、 より根本的なことが、 明治以降あるいは戦後 「公益国家独占主義」 を制度づけてきた基本的なしくみを変えることである。 ここでは二つ挙げよう。 民法34条の公益法人の規定と省庁の設置法だ。
  民法34条は公益法人の設立には主務官庁の許可を要するという規定で、 明治31年の制定以来変わっていない。 特定非営利法人促進法 (いわゆるNPO法) はこの規定の特別法で、 認証手続きで非営利団体に法人格を認めようというものだ。 しかし民法34条の重要性は単に法人格を認めるかどうかの問題以上に公益性を官が判断するというところにある。 したがってこの規定から公益という文言を取り去ろうというのが私の提案だ。 結果として、 非営利団体の法人格は国が公益性の是非を判断することによって決まるのではなく、 営利団体と同様、 登記することにより得られることになる。 付け加えると、 公益法人税制に関して何らかの形の第三者機関を設け、 この機関が 「公益性あり」 と認めた非営利法人に対して税制上の優遇措置等が与えられる仕組みを作りたい。 第三者機関が公益性を評価するというのは次の考え方による。 公益とは世の中の役に立つということである。 しかしそれは抽象的な不特定多数の全体的な利益ということではない。 したがって何が公益かの一律で客観的な基準を設けることも、 また、 行政官庁がその判断を的確に行うことも困難だ。 そこで様々な公益活動が及ぶ空間 (地域であることが多い) ごとに 「世の中」 の構成員が主体となって公益を発見していくルールと手続きを定めようということなのだ。 そして税制上の優遇措置などの公権力の行使による支援策はその判断に従って与えられるという仕組みを作ろうということである。 (注3)
  以上は公益国家独占主義を公益を世の中 (地域) が判断し、 担う仕組みに変えるという100年ぶりの大変革案だ。 直ちに実現するのは困難だろう。 しかしNPO法がそこへ向けての一つのステップであるのと同様、 すぐに実行できることがいくつかある。 その一つが 「非営利活動支援条例」 の制定だ。 これはNPO法施行のための手続き条例ではなく、 NPOの活動を資金、 人材、 情報などの面で地方自治体が具体的に支援するためのものだ。 ここで気をつけないといけないのは、 NPOの活動を行政の単なる肩代わりや下請けにしないということだ。 そのためにも条例案の検討自体を、 NPOメンバーや行政官を含む第三者機関で行うことを提案する。 併せてNPOに対する寄付を住民税の対象から控除することを条例で定める。 (注4) そしてこれらの条例が成立すれば、 先に述べた公益性認定を行う第三者機関を設けて、 支援の判断を委ねる、 というものである。
  設置法は各省庁の役割と組織について定めた法律で、 その主要な規定は 「所掌事務」 と 「権限」 である。 例えば大蔵省設置法には、 「国の予算及び決算に関すること」 などの所掌事務が列挙され、 その大部分に対して同様の書き方で権限が与えられている。 ここで問題となるのは、 すべての省庁の分担事務を足しあわせると国民の活動はすべてどこかの官庁が担当していることになることだ。 科学技術庁設置法の権限として 「宇宙の利用を推進すること (他の行政機関の所掌に属することを除く)」 という規定がある。 これなどは日本のみならず宇宙を日本の役所で切り分けているわけだ。 行政は個々の法律に基づいて行われる。 これを我々は法治国家と呼んでいる。 どこの国でも国民の活動すべてを対象とするほどの法律を作ることはないだろうから、 国民の活動のうち政府が口を出す部分は全体の何割かであろう。 ところが日本ではすべてをどこかの官庁が担当し権限行使する仕組みになっている。 だからこそ、 民は官を頼り、 官は民をコントロールしようとする 「もたれあい」 構造ができている。 ここにもまさに 「公益国家独占主義」 が見てとれるのである。 なぜこうなったのか。 それは明治政府において、 官僚が 「天皇の官吏」 として統治権を持ち行政を行っていたしくみを戦後の設置法にそのまま引き継いだからである。 このしくみを根底から変えるには現行のような所掌事務や権限の規定はすべて削除しなければならない。 そもそも行政は個々の法律に基づいて行われるのであるから、 設置法自体なくてもいいのである。 2001年の省庁再編に向けて現在設置法の改正作業が行われている。 新設置法にも所掌事務は規定されるが権限
規定は削除されることになった。 これは構想日本の提言とキャンペーンの成果であるが、 少なくとも個々の法律に基づかない行政指導を行う根拠はこの改正でなくなった。 100年以上続いたしくみの中で殆ど日本の 「文化」 になりかかっていた官民のもたれあい構造はそのバックボーンを失った訳だ。 10年単位でみるとこの精神構造は官、 民の双方で大きく変わるにちがいないと私は確信している。 (図2)

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  以上の2点は 「公益国家独占主義」 の骨格を制度化しているが、 これを様々なしくみが肉付けしている。 地方自治体に関しては補助金や地方交付税の配布の仕方はその主なものである。 補助金は国が使途を決め、、 地域の実情に応じた裁量の余地は元来ない。 地方交付税はその点自治体が自由に使えるということになっている。 しかしその配分は基準財政需要額というものに基づいて行われる。 つまり国が、 地方自治体が必要とする財政の規模の基準を決めているわけで、 ここにも公益は国が判断するという考え方があらわれている。

6. 日本再生のカギはコミュニティの再生
  我々は本来地域の住民が共同で行うべき多くのことを行政に委ねてきた。 くり返し述べてきたようにその結果が行政の巨大化、 非効率であるが、 同時にそれはコミュニティや個人の生活の空洞化をもたらした。 我々はかつて結とか組といった形で行われていた地域の共同事業を行政にアウトソーシングすることが 「近代化」 だと考えていたのだが、 その近代化の結果、 同じ町内でも住民同士のコミュニケーションは極端に減ってしまった。 ましてや大都市や新興の住宅地ではもとよりそんなものはないに等しい。 神戸の震災の時、 旧くからの市街地では近所の住民の家族構成や暮らしぶりがお互いに分かっていたため救助活動がはかどったということを聞いた。 この例を持ち出すまでもなくゴミの分別がなかなか守られないといった日常的なことを含めコミュニティ空洞化に起因することは多い。 個人についても同じことが言える、 江戸時代の寺子屋の師匠や火消しまで逆のぼるまでもなく、 近所づきあいの中でお互いが些細な面倒を見たり見られたりすることで、 ちょっとした満足感や気分の良さを味わった経験を持つ人はまだ多いはずだ。 しかしこのような機会も急速に減ってきた。 NPOの活動に多くの人々が参加するのは、 一つにはその空虚を埋めようとする行動だと私は思っている。
  コミュニティにおける活動は、 福祉、 教育、 文化、 環境など様々な分野にわたるが、 いずれも共同で作業を行うには、 一定の約束事、 秩序が必要になる。 そう思って身の回りを見渡すと、 一昔前まであたり前であった約束事が破られている例がずい分目につく。 授業中の私語、 人混みの中での犬座り、 電車の中での化粧ときりがない。 学校でのいじめや学級崩壊、 援助交際などもその延長線上にあると私は思う。 公私の区別や公共空間の認識ができないということは個人が私的なところに閉じこもりつづけたことの結果だろう。 それは多くの場合家庭や学校での教育のせいにされることが多い。 しかし根本的には、 本来、 家庭を含むコミュニティで行うべき共同作業を人手に委ねつづけたことの結果だと私は考えている。 そして周囲の人達とのコミュニケーションや折り合いをつけることを止めてしまったから、 そこで当然の前提とされていた約束事も忘れ去られたのだ。
  先程からコミュニティという言葉を度々使っている。 かつては町内や村落が日本のコミュニティであった。 しかし今はコミュニティにあたる適切な日本語がない。 そのこと自体、 我々が社会の中で共同で行うべき作業もその単位も念頭に置かずに過ごしてきたことを示しているのではないか。 そう考えてくると、 日本人が社会の約束事をもう一度つくり直すのも、 日常の身近なことで満足感を味わうようになるのも、 コミュニティでの共同作業を行うことによってしかできないのではないか。 最近NPOの活動に多くの人が参加しているのは、 人々のそうした欲求のあらわれだと思う。 そして、 それが時間を経て 「運動」 ではなく日常のあたり前の行動になった時が 「日本再生」の時だと私は考えている。 (注5) これは見方を変えると、 我々一人ひとりが自分の身近なところで世の中に対して何をするか、 世の中から何をしてもらえるか、 その出入りのバランスがよく見えるしくみということもできる。 そのようなしくみが冒頭に挙げた様々な問題の解決につながる。 私はこれを、 全額表示の 「高福祉高負担」 でも 「低福祉低負担」 でもない 「低コスト高満足」 社会と呼びたい。 このような社会では個人は大いに官から自立することになる。 しかし個人どうしの関係は今よりずっと密になるだろう。 実はそれはかつて我々が捨て去ってきた 「前近代的」 で面倒臭い関係なのである。 現在の 「自由」 な社会と少々 「面倒臭い」 社会とどちらを選ぶか。 私は我々が直面している沢山の厄介な問題のことを考えると、 面倒臭くてもコミュニティ単位で自分たちのことを共同で行う社会の方が結局は長持ちするしくみだと考えている。 しかも我々は情報の時代に生きている。 かつての閉鎖的な地域的コミュニティを超えてネットワークでつながる開放的なコミュニティの可能性もある。 世の中の状況にあまり悲観的にならず、 タックルして行きたいと思う。
  以上述べてきたことは、 当然のことだが、 国家制度の問題ではない。 世の中のしくみの問題であり、 我々が日常の生活を通して行うことなのである。 しかしこの社会制度が確立しないと国の基盤は崩れる。 社会制度をしっかりしたものにすることが国の繁栄につながるとすれば、 そのために国や自治体は何をし、 何をすべきでないのか、 これこそが日本の政治の最大のテーマである。

  注1. レスター・サラモン 「米国の非営利セクター入門」 によると、 1995年の米国におけるNPOの活動規模はGDPの8.2%、 雇用の6.9% (ボランティアを除く) を占める。
  注2. このあたりの事情は石川英輔、 田中優子著 「大江戸ボランティア事情」 に詳しい。
  注3. 構想日本 「民間法制審議会」 報告書参照
  注4. 構想日本 「地方自治体がNPOに対する寄付金控除を条例により独自に行うことの提案」 「非営利活動支援条例モデル」
  注5. 渡辺京二著 「逝きし世の面影」 は江戸時代の日本人の暮らしぶりを生き生きと甦らせている。


■加藤 秀樹 (かとう・ひでき)
  構想日本代表、 慶應義塾大学総合政策学部教授。
  1950年香川県生まれ。 1973年京都大学経済学部卒業後大蔵省入省。 証券局、 主税局、 国税庁、 国際金融局、 財政金融研究所などを経て、 1996年退官。 1997年変革を目指す仲間たちと 『民』 の立場で政策、 法律を立案するシンクタンクとして構想日本を設立。 同年より慶應義塾大学総合政策学部教授を兼務。 編著書に 『環境保全と経済の発展』 (ダイヤモンド社、 1994年)、 『アジア各国の経済社会システム』 (同、 1996年)、 『金融市場と地球環境』 (ダイヤモンド社、 1997年) など。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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