4 環境

エコ・シティの理念と方法


進士五十八
(東京農業大学地域環境科学部教授)


はじめに
  この100年間、 地球上の人口は4倍増であった。 にもかかわらず経済は20倍、 エネルギー消費は25倍増であった。 何ともエネルギー浪費型社会をつくってしまったものである。 その最たるものが都市文明。 巨大な機械、 巨大な装置と化した都市空間では、 大気、 水、 その他生物的自然の循環さえままならない人工環境が当り前になって、 単にエネルギーの無駄な消費だけでなく、 自然の生態系を破壊し、 都市環境の悪化、 例えば自然面減少による気温の変化、 ヒートアイランド現象、 生物相の貧困化、 過密と緑の減少に伴う情緒不安やテクノストレスの増大が大問題になっている。
  そのような非人間的都市環境の改善と、 折からのCO2削減など地球環境問題、 さらにはリサイクルの促進、 省エネルギー化、 クリーン・エネルギーの活用、 自然と農と健康の回復などへの期待をこめて 「環境共生都市」 (Eco-city, ecological city) が提案されているのである。

1. 共生の思想
  地球環境時代のあらゆる人間活動の基調となるべきは 「共生の思想」 であろう。
   「共生」 (symbiosis)とは、 生物学的に異種の生物同士が互いに利益を分けあって共同生活することを意味する。 一方だけが利益を受けるのを寄生というのと対置して考えるとわかり易い。
  自然界の様々の動植物同士の間にも、 動植物と人間の間にも、 「共生」 あっての 「持続可能」 (sustainable)な生命活動が可能になるのである。
  このことをわかり易く述べているのは、 歴史小説家であった司馬遼太郎である。
   「……むかしも今も、 また未来においても変わらないことがある。 そこに空気と水、 それに土などという自然があって、 人間や他の動植物、 さらには微生物にいたるまでが、 それに依存しつつ生きているということである。
  自然こそ不変の価値なのである。 なぜならば、 人間は空気を吸うことなく生きることができないし、 水分をとることがなければ、 かわいて死んでしまう。 さて、 自然という 「不変のもの」 を基準に置いて、 人間のことを考えてみたい。
  人間は、 ―― くり返すようだが ―― 自然によって生かされてきた。 古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。 このことは、 少しも誤っていないのである。 歴史の中の人々は、 自然をおそれ、 その力をあがめ、 自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
  その態度は、 近代や現代に入って少しゆらいだ。 ―― 人間こそ、 いちばん偉い存在だ。 という、 思いあがった考えが頭をもたげた。 二十世紀という現代は、 ある意味では、 自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
  同時に、 人間は決しておろかではない。 思いあがるということとはおよそ逆のことも、 あわせ考えた。 つまり、 私ども人間とは自然の一部にすぎない、 というすなおな考えである。
  このことは、 古代の賢者も考えたし、 また十九世紀の医学もそのように考えた。 ある意味で平凡な事実にすぎないことを、 二十世紀の科学は、 科学の事実として、 人々の前にくりひろげてみせた。
  二十世紀末の人間たちは、 このことを知ることによって、 古代や中世に神をおそれたように、 再び自然をおそれるようになった。
  おそらく、 自然に対しいばりかえっていた時代は、 二十一世紀に近づくにつれて、 終わっていくにちがいない。 …」
  以上は、 「二十一世紀に生きる君たちへ」 と題して、 小学校6年生の教科書 『小学国語』 (大阪書籍、 1989) に掲載された司馬遼太郎の文章である。
  そこには、 第一に、 近代科学、 工業文明の発達が、 自然への傲漫な態度を生み出したこと。
  第二に、 その結果発生した環境問題の深刻さと人間の賢さが、 人間も自然の一部という基本認識をとり戻したこと。
  そして第三に、 エコロジーや環境科学など学問の方法が、 この認識の正しさを科学的事実で証明したこと等を述べている。
  司馬の視点で大切なことは、 「人間は決しておろかではない」 という点であろう。 二十世紀の工業文明の大きさは、 地球環境そのものを左右するほどのものになってしまった。 だから、 そうした人間やその人間たちが生みだした科学や技術も否定されるべきだ。 とは、 司馬は言っていない。
  科学技術力が自然を征服できるほど強大になったことに問題があるのではなく、 自然のもつトータルな偉大さや重要性を認識し行動すべきだという環境認識力や環境倫理力の減退といった現代人の側に問題があったのではないか、 と私は思う。
  そのような問題のひとつが、 「都市化イコール善 (発展)」 と考えたことだし、 なおかつ 「都市化イコール人工環境化」 という錯覚に陥ったことだと思う。 そこでは当然、 「自然を単なる操作対象」 と見なす見方、 考え方がふつうであった。 そこでは、 「自然との共生」 などと言う考え方は登場しようがなかったのである。
  しかし、 今後の展開で私が重要と考えるのは、 これからは 「共生」 の理念が重要であるのは勿論であるが、 それは盲目的な自然讃美と自然回帰であってはならないし、 極端な科学技術性悪説や都市性悪説に走ってはならないということである。
  現代文明の構造を十分に踏まえつつ、 生産のシステム、 社会のシステム、 都市や生活のシステムなどすべてにわたって、 出来るだけ具体的に、 それぞれの現場で、 「共生の理念と方法」 を定着してゆくことが大切なのである。
  私の考えでは、 第一に生産システムにおける環境共生を実現するためには産業界、 研究技術開発における 「クリア・プロダクツ・テクノロジー」 や 「エコロジカル・テクノロジー」 の追究が求められる。
  第二に都市のシステムと構造を、 省エネルギーと大気、 水、 動植物などの循環が可能な 「エコロジカル・シティ」 へと改造することが求められる。
  第三に市民の生活の仕方、 くらし方を3R (reduce,reuse,recycle) や人間自体のバイオリズムを尊重した 「エコロジカル・ライフ・スタイル」 に転換してゆくことが求められる。
  真の意味で環境共生都市を標榜するには、 本来以上の3つの側面を充すべきといえるし、 さらにこうした新しい都市社会を支えるには、 第四に土地利用計画などの策定に当って、 例えばイアン・マクハーグが主張している 「Design with Nature」 など 「エコロジカル・プランニング手法」 の活用が不可欠であるし、 第五にその具体化に当って、 例えば 「オルタナティブ・テクノロジーの開発」 とか、 近自然工法や多自然工法,ビオトープづくりなどといった 「ネーチャー・デザイン」 とか 「ネーチャー・エンジニアリング」 の実践が不可欠である。
  このように 「エコ・シティ」 の川上では、 環境共生に向けての参加や環境教育が推進されなければならないし、 地域計画、 システムから建設技術にいたる川下まで一貫して共生の理念がなければならない。

2. 自然共生・環境共生・地域共生
  共生の思想を、 生物学から拡大して考えると、 これからの社会のあり方には3つの共生が必要のように思われる。
  都市とは人々が集住してくらす場である。 集住環境を維持するために、 土の道は石の道に、 そしてやがてアスファルトやコンクリートの道に改造され、 その結果、 透水性を失い、 地下水を涵養することが出来なくなって大地を殺すことになってしまう。
  これは、 都市がいけないのではなく、 都市を自然や環境との共生を考えないで改造するという方法が悪いのである。
  従って、 都市の中に農地、 樹林地、 河川地などを適量保全しつつ宅地化を図れば問題は大きくならなかった筈である。 前にあげたオープン・スペースの役割は水循環を担保し都市気候を緩和し生き物を生息させるだけでなく、 人口を適正密度に維持することで、 健康な都市を形成するのに欠かせない。
  このように、 都市的規模では緑地 (open space) を計画的に保全すること、 建築的規模では屋上緑化や壁面緑化などによって植物と共生するようにすることが 「自然との共生」 である。 換言すれば、 生物的自然との共生である。
  私の研究では、 地域計画レベル (300m×300m単位に) でグリーンミニマム50% (自然面率50%、 緑・土・水面など透水面積が全体の50%以上存在するような環境であれば、 人々は自然とか緑の存在を実感できるということ) である。
  緑地や農地は水を透し、 空気を供給するから、 そこでは小はバクテリア、 大は樹木や小動物にいたるまで生き物が生きられる。 土木建築物のような人工面と、 生き物が生きるに必要な自然面の共生が、 自然共生の基本ということになる。

  次に、 環境共生である。 生物的自然以外の資源やエネルギーについても 「ゼロ・エミッション」 (廃棄物ゼロ) や 「リサイクル」 (再資源化) が叫ばれ、 「省エネルギー」 「クリーンエネルギー」 「ローカル・エネルギー」 も実用化に向っている。 一般的には、 環境共生の一語に、 自然共生も後述の地域共生概念も含めているが、 狭義にはこうした無生物系の物質やエネルギー資源循環により、 環境の健全性を担保する方向を示唆すると考えたい。
  この場合、 環境と共生するのは人間活動であり、 人間の諸活動に伴うあらゆる物質系の負荷を最小限化することが求められる。
  それには、 前述したような物質循環を可能にするような 「クリアプロダクツ」 技術の開発が不可欠であるし、 その前提として、 なるべく 「必要なモノ以外はつくらない」 「どうしても必要なモノは作るが、 必ず再利用する」 「そしてあらゆるモノはリサイクルして再資源化を絶対条件とする」 という3Rを徹底して実行することである。
  21世紀には、 ゼロエミッション型の工業、 農業、 都市が実現してこよう。 また、 それなくしては人類の将来は危いだろう。

  共生を図るべきは、 自然の生き物や物質、 エネルギーばかりではない。 目にみえないが、 先進国と発展途上国、 大都市と農山村とか、 商工業と農業、 都心と郊外地域との関係についても 「共生」 の理念が不可欠であると思う。
  人間の世界でいえば、 市民と農民、 男性と女性、 若者と老人、 金持ちと貧乏人、 ホワイトカラーとブルーカラー、 技術者と職人等、 それぞれ異なった側面をもっている者同士、 互いに助けあってこそ生きられるのである。
  先ごろ、 工場立地法の改正があって、 新規工場の立地に当って工場緑化面積の割合が15〜20〜25%と、 地域の事情に応じて±5%の自由度が設けられることになった。 従来は一律20%であったが、 例えば工場敷地の一部開放などにより、 地域住民との好ましい関係が増強されれば、 すなわち 「地域共生」 がすすめば5%少なくても良い、 といった考え方である。
  住宅地におけるマンションや工場、 近頃ではレストランの建設などが紛争を起こす。 住宅環境の安寧を侵される住民が反発するためである。 こうした折、 既住の住宅階高の平均高の例えば1.3〜1.5倍を超えないこととか、 工場の規模は、 既住の平均宅地規模の3倍を超えないこととか、 何らかの共生の目安が共有されれば、 「地域共生」 が可能となり紛争は減るだろう。
  上記は一例であるが、 広義の環境共生の概念には、 こうした広範囲の 「共生」 を含めて考えることが重要になるだろうと思うのである。

3. エコ・シティへの展開
  環境福祉の観点に立てば、 自然環境、 すなわち都市の緑とか都市の生き物、 一歩進めて都市における自然の循環の回復などという環境政策の視点が重要になる。
  これまでは人工都市の中に一定の緑量を取り戻す、 あるいは緑を置くだけの 「都市緑化」 であったが、 地球環境問題を背景としてこれからは“循環"の回復、 “生態系"の復元を目標とする 「生態的復元 (ecological restoration)」 が期待されるようになっている。
  特に、 人工的大都市圏では、 点的に都市公園を配置し、 ビルの緑化をすすめても、 それだけでは“自然環境の回復"は絶対に困難である。 緑に化すのではなく、 「自然環境を復元する」 (ミチゲーション) という認識を明確にもつことが必要だ。
  そうした認識から私たちは 『都市再開発と環境に関する調査』 (1987年度環境庁委託研究, WG:大成建設) でエコロジカル・シティを提案した。 このレポートは、 土木分野で 「透水性舗装」、 建築分野で 「省エネ建物」、 造園分野で 「都市緑化」 を、 それぞれ推進することで多様な相乗的効果を引き出し (図1参照)、 エコ・シティの実現を目指すという構想であった。 しかし、 そのときはまったく反響がなかったが、 その後1992年リオ・デ・ジャネイロにおいて地球サミットが開かれ 「アジェンダ21」 が打ち出されると、 我が国の政策潮流は“環境"一辺倒となり、 1993年からは建設省の新規事業として 「環境共生都市づくり」 のモデル都市指定が始まるようになり、 「エコ・シティ」 を目指して 「都市環境計画」 の策定推進が叫ばれるようになったのである。
  私も、 事業に先立って設けられた建設省都市環境推進研究会 (エコ・シティ研究会/1992年8月設置) に委員として参画したが、 その定義は 「環境共生都市とは、 水、 大気、 動植物が循環できる都市」 とされた。
  同じ頃、 運輸省でも港湾、 海洋環境有識者懇談会 (1992年6月より) が設けられ、 最終的には 「エコ・ポート」 (環境共生港湾) が提案され、 同様の意義づけがなされた。 この他、 「エコ・ロード」 など、 それまでの建設界の潮流とは大きく変わって“自然"、 “循環"、 “エコロジー"が常識となって浮上していく。

4. エコ・シティへの具体的方法

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  図1のように私たちは、 現実的でなおかつ、 エコ・シティ実現への近道は透水性舗装、 省エネ建物、 都市緑化の3本立メニューの早期実施であると考えていた。 ところが、 建設省のエコ・シティ研究会における検討は広範に及び、 次の3つの施策体系が示された。
  省エネ・リサイクル型都市づくり
  都市内のエネルギーと資源のリサイクルを最大限に実施。 自然エネルギーの有効利用。 エネルギーの変換・貯蔵・輸送の高効率化。 複数要素システムの複合化、 大規模化。 省エネ型交通体系 (新交通、 交通情報システムなど) の構築。
  水循環型の都市づくり
  汚水浄化システム。 再循環システム。 アメニティ水環境システム。 雨水河川等利用システム (透水性舗装、 雨水浸透桝、 エネルギー利用など)。
  都市気候緩和・自然共生型の都市づくり
  各種緑化推進 (ビオトープ、 都市公園、 市民農園、 保全林、 環境施設帯、 法面緑化、 人工地盤緑化、 屋上緑化、 生垣化など)、 広幅員歩道整備などによるオープンスペースの系統的整備 (風の道など)。
  以上を実現するには、 パッシブソーラー (静的太陽エネルギー利用)、 コージェネレーション (発電時の排熱も暖房用として活用するシステム)、 新交通システム、 壁面緑化や屋上緑化など具体的技術の実際的開発、 さらには税制の優遇や融資、 助成策をはじめ、 都市計画における総合的な行財政システムの改善がワンセットで整備されなければならないことになる。 したがってコンセプト (計画概念) としてはイメージできても、 既存の都市をエコ・シティ化するには相当の時間を要すると思われる。
  現在、 考えられているエコ・シティ実現への施策メニューは図2のようで、 余りに多彩である。 総量として多くの研究費と人材をつぎ込むためかえって省エネとエコロジカルではなくなるのではないかと危惧するほどである。

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  従って、 私自身の考えでは既に十分に技術開発が済み、 実行可能な透水性舗装・省エネ建物・都市緑化の3つの手法を、 一定規模以上の都市では義務化するような政策をすすめるのが一番よいと思っている。 そうすれば、 間違いなく、 新世紀半ばにしてエコ・シティは実現するはずである。
  むしろ、 私は 「エコ・シティ」 などとわざわざ言う必要がない時代が早くくることを期待している。 適正な人口密度の田園都市が普通になり、 地方では 「多自然居住」 がすすむ。 又、 都市と農村の交流が 「マルチハビテーション」 への潮流をつくる。
  都市的居住、 半都市的居住、 半田園的居住、 田園的居住、 多自然居住のどれを、 どのライフステージで選ぶかは、 市民の選択に任される。 そういう時代が間違いなくやってくる。 そこでは、 エコロジカルは当たりまえになっていよう。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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