4 環境

環境問題をいかに克服するか


進士五十八
(東京農業大学地域環境科学部教授)


  この100年間、 地球上の人口は約4倍に増えている。 この人口を支える経済活動は、 20倍、 そのために消費されているエネルギーは25倍にも増えている。
  何故、 4倍の人口に対して、 経済20倍、 エネルギー25倍なのか。 いうまでもなく、 それは大量生産、 大量消費によるコストダウンで経済を拡大してゆく、 いわばエネルギー大量消費型、 また大量廃棄型、 浪費型文明を推しすすめた結果である。
  以上の数字は、 地球全体であって先進国、 特に日本ではもっと大きな割合になっている。 飽食の時代、 大きいことはいいことだ、 使い捨て文明、 メタボリズム建築など、 資源もエネルギーも無限にあると錯覚し、 地球環境を汚染するなどとは毛頭考えもせずに、 私たちは都市の構造も生活の仕方も、 すっかり工業化させてしまった。 極めて楽観的にである。
  もちろんそうした100年間の歩みには、 公害問題という形で、 また都市問題という形で警鐘が鳴らされることもあった。
  大気汚染、 水質汚濁、 騒音、 振動、 自然環境の破壊など、 そして遂にイタイイタイ病や水俣病など人間の肉体と生命を脅かすほどの深刻さをもって、 公害被害は日本列島のすべてをおおった。
  一方、 都市への人口の集中による過密化は通勤地獄や住宅難といった物理レベルの環境悪化にとどまらず、 化学合成物質の多用問題や光化学スモッグなど化学レベルの公害の激化、 さらには自殺、 組織暴力、 異常性行動、 テクノストレスなどいわゆる都市病理といわれる精神レベルの深刻さをもたらすにいたった。
  工業的都市文明の部分効率主義は、 地球全体とか生態系とかへの配慮もなく進展し、 それに合わせてこうした地域レベルでの諸問題が複合して、 地球環境問題をふくらませていった。
  愈々ここに到って、 文明のあり方そのものを問う形でしか問題解決の方途はなくなってきたのである。

  公害問題に対して、 公害対策を施し、 公害企業に補償金を出させる。 又、 都市問題に対して、 道路を立体化し、 電車を複々線化し、 高層住宅を建設したが、 果してそれでよかったか。
  公害の背後には、 コストに象徴される国際的な経済競争があり、 部分効率でしかモノを見ない、 別の言い方をすれば、 自然との共生とか、 環境との共生とか、 エコロジカルなシステムの中での循環を保全しなければ地球の将来を危うくするといった視点を全くもち合わせない工学的発想、 工業技術系関係者の視野狭窄症があった。 同様に都市問題の背後にも、 集住による利便性、 集中による経済的・文化的競争力の増強による都市間競争を是とし、 そこでの市民生活、 特に子育てにおける自然体験の意義などということに対する視点など見向きもしないという 「不健全な都市観」 の存在も指摘できる。
  この100年間の工業文明の問題点は、 2大別して説明できるように思う。
  ひとつは巨大な機械力の出現によって、 様々なモノを大規模化したことだろう。 農地を大規模化し、 都市そのものとその部品である道路、 河川、 橋梁、 建物を大規模化してきた。 それを支えるために電気や水などエネルギー系統も機械化し、 巨大なシステムをつくらざるを得ないようになってきた。
  大スケールの空間は、 自然との間でバランスを失い害虫など生物的、 気温など気候的、 水質汚濁など化学的、 食糧自給のアンバランスなど農業的諸問題をも派生させた。
  これを補うために合成化学工業、 石油化学工業など化学力を駆使する時代に突入してしまった。 化学者たちは眼前の課題を注視しながらミクロな研究を続けるうちに、 第一に農業に対し、 土壌汚染、 地下水汚染、 生物生態系の破壊につながる農薬や化学肥料を提供するにいたる。 第二に市民生活の高度化や合理化を支える便利なものとして、 プラスティックス、 各種医薬品、 各種加工食品を提供し、 やがて第三にオゾン層の破壊につながるフロンガスの放出やガソリンの大量供給によるCO2と温暖化問題をはじめとする今日の地球環境問題、 そして第四に未来の生命を脅かす内分泌かく乱物質 (いわゆる環境ホルモン) を広く地球上にばらまいてしまった。

  われわれ人間は、 一度手に入れた文明を捨て去るわけにいかないという。 昔に戻ることは不可能だという。 しかし現状の深刻さを理解すれば、 極度に機械力で巨大化した都市文明と極端に化学力を悪用した工業文明と工業的ライフスタイルの問題点を反省し、 その弊害をいかに排除して 「脱工業・近自然型」 の生活環境とライフスタイルの創造に向かうべきか。 重大な岐路に立っていることに気づくだろう。
  環境ホルモン的作用を有する化学物質にはどういうものがあるのか。 どの程度の量で影響があるのか。 それを探すことだけが科学者のつとめではないだろう。 むしろ無原則、 無防備にひたすら合成化学物質に頼る文明観に反省を求めて、 健全で健康な生活のあり方を示唆することこそ科学者の使命ではないのか。
  農薬の限界量や分解速度の研究よりも、 自然界の諸条件の組み合わせで、 いかにしたら環境共生を可能とする農業生産システムが可能なのか、 なおかつ農業生産が地域環境の保全にも有効なあり方はないのかどうかを研究しようという方向性こそ重要ではないのか。 ちょうど日本の水稲栽培システムが、 サスティナブルな穀物生産と水田という国土保全システムともなっていたようにである。
  一方、 都市のあり方も、 これまでのエネルギーを大量に消費し、 自然生態系をも破壊してきた人工巨大設備型都市からの脱却を図らなければならない。
  既存の大都市を一日も早くエコロジカル・シティ (環境共生都市) へと再生すべきであるし、 地方の中小都市は、 周囲の田園自然との共生関係を確立し、 多自然居住を実現する方向で変革すべきである。
  都市の構造と都市民の生活は一体である。 エコ・シティを本物にするには、 市民生活をエコロジカル・ライフスタイルに転換しなければならない。 それには子どもの頃から環境教育を受け、 地域の自然とふれあうことやリサイクル運動などに参加実践することにも力を入れていかなければならない。
  折から、 総合的学習の時間やゆとりある学校教育が標榜される中、 身近な公園や都市農地、 里山を活用した環境教育を広範に展開したいものである。

  環境問題を克服するには、 どうすればいいのだろうか。
  私は、 悲観論はとらない。 人間の可能性も、 人間の創造してきた技術や文明に対しても全否定するようなことをしてはならないと考えている。
  ただ素直に、 失敗は失敗として認めなければならないし、 これまでの方法が間違いであったことを反省し、 新しいシステム構築に向かう努力を始めなければならないとは思う。
  反省すべき第一は、 部分効率第一主義である。 換言すれば、 ある制約のもと組み立てられた実験の結果、 ある条件が効果ありとわかると、 全てをその条件にもって行ってしまうというような単純な判断の仕方を反省しなければならない。 人間を偏差値ひとつの指標できめつけるのと同じである。 こうした部分データの積み重ねで物事を判断する工学系の発想は危険でさえある。 すべからく生物界のバランスは、 もっと総合的で有機的なものである。 前に、 水田農業の例を出したが、 根も茎も花も実も、 そしてイネの生産性から地下水の涵養機能までを含めて総合的に評価するような、 広く深い総合判断が 「農学系の発想」 の意味といってもよかろう。
  工学系の発想を農学系又は生物系の発想に転換すれば、 ひとりでに 「環境からの発想」 を基調とすることの重要性が認められるだろう。
  環境との関係を意識した都市を 「環境共生都市 (エコ・シティ)」 と呼ぶとすれば、 そのことはより本源的に 「農村と都市の共生」、 すなわちバランスある都市と農村の共存と交流の構築に向かわなければならない。
  次いで、 環境との関係を意識した生活、 すなわち 「エコ・ライフ・スタイル」 の実践が希求されなければならない。 自然体験、 農とのふれあい、 土との身近な関係を都市地域でも持つことが出来れば、 子どもたちの将来は安心である。
  すでに全国で、 都市緑化とか緑のまちづくり、 アメニティ・タウン等といわれる自然と歴史と文化のまちづくりが、 地域にこだわり、 地域の様々な生活資産を生かしながら、 まちづくり・むらづくり運動として活発化している。
  そのことは、 多くの国民が経済福祉のみならず 「環境福祉」 にも強い関心をもつようになっている証拠である。 全国で500〜600の自治体が 「景観条例」 を設けているのも、 自分たちの住む町や村の風景を大切にしようとしはじめている証拠である。 いまや大都市生活に憧れをもつ時代ではない。 身近な自然や歴史と文化環境とふれあい、 その豊かさを味わいながら生きることが好ましい生き方になりつつあるのである。
  最後に、 産業界に 「クリア・プロダクツ」 を求めたい。 環境を汚染しないで、 人間に有用なものだけを生産するシステムを技術研究することを期待したい。 適正規模論、 中間技術論など、 様々な産業界のあり方の基本方向が打ち出されてきた。 自然環境とつきあうには、 適正なスケールと適正なスピードでの改変であることが基本であろう。
  低成長を是とし、 適正規模のエコ・シティや田園共生地域でエコ・ライフ・スタイルにより暮らすこと、 企業はクリア・プロダクツで適度な生産活動を持続すること。 このように市民も行政も企業も、 適切な 「環境倫理」 を堅持しながら、 何事も判断し行動すること。 それが新世紀の生き方、 やり方になるのではないだろうか。


■進士 五十八 (しんじ・いそや)
  1944年京都市生まれ。 東京農業大学農学部造園学科卒業。 1969年同大学助手、 講師、 助教授を経て、 1987年教授 (1998年より地域環境科学部教授、 現在に至る)。 専門は造園学、 環境計画、 景観政策。 農学博士。 1993年同大学総合研究所長、 1995年農学部長、 1998年地域環境科学部長、 地域環境研究所長。 第5回田村賞、 昭和63年度日本造園学会賞受賞。 主著に 『アメニティ・デザインーほんとうの環境づくり』 (学芸出版社)、 『緑のまちづくり学』 (同)、 『ルーラル・ランドスケープ・デザインの手法』 (同)、 『風景デザイン−感性とボランティアのまちづくり』 (同) など。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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