3 ジェンダー・ジェネレーション

問題提起


藤崎宏子
(聖心女子大学文学部助教授)


[近代化と業績原理]
   「近代化」 ということばで語られる歴史的な変動過程は、 われわれの生活に多大な恩恵をもたらした。 日々の生活のなかで食べること、 生きることへの切実な不安はなくなり、 科学技術の高度な発達はさまざまな利便性と快適性を与えてくれるようになった。 さらに、 教育や医療分野に代表される専門化された社会制度が確立したことにより、 高度で多様なサービスを利用できるようにもなった。
  人びとの経験した変化はこのような日常生活の範囲にとどまらず、 人生の全般にまでおよび、 その選択の幅を大きく広げることになった。 かつての時代は、 人は 「生まれ」 によって人生の基本線が方向づけられていた。 大名の子は大名に、 農民の子は農民にというぐあいにである。 しかしこんにちでは、 人は 「生まれ」 にかかわりなく、 能力と努力、 そして好みにおうじた多様な人生コースをみずから選ぶことができる。 社会的な観点からみると、 個人を社会的に位置づけるうえで、 その人が 「なんであるか」 ではなく、 「なにをなしたか」 こそが重要な決定因になったのである。
  これら二種の社会的地位編成の原理は、 それぞれ 「帰属原理」 「業績原理」 と呼ばれる。 このうち前者は、 出身家族の社会階層や職業、 人種、 性別、 年齢などの生得的な、 あるいは個人の努力や意向によっては変更しがたい属性により社会的位置づけが決定されるような原理を、 そして後者は、 学業や職業上の成果におうじた報酬と社会的地位を獲得できるという原理を意味している。 前近代から近代への移行にともなう封建的身分制の廃止や産業資本主義の成立は、 このうち 「業績原理」 にもとづく社会的地位編成をうながした。 そして、 明治期における 「立身出世」 の理念がもたらした社会的帰結に象徴されるように、 「業績原理」 が支配的であるがゆえに急速な近代化・産業化がなしとげられたともいえ、 「近代化」 と 「業績原理」 の優位は相互規定的な関係にあったといえる。

[セクシズムとエイジズムの告発]
  しかし、 この 「業績原理」 は、 すべての個人の社会的位置づけに等しく作用するものとはいえなかった。 結論を先取りすれば、 「業績」 により公正に評価され、 これにみあった報償が与えられる対象は、 たてまえのうえでは 「市民」 や 「個人」 という普遍的・一般的な表現がとられながら、 実際には 「青壮年の男性」、 すなわち 「一人前の労働力」 とみなされる人びとに限られていたのである。
   「青壮年の男性」 モデルを前提にすれば、 「高齢者」 はすでに労働の場・生産の場から引退し、 社会的に評価されるような 「業績」 を生み出すことのできない人びとである。 加えてかれらは、 長寿化にともない深刻化してきた扶養や介護ニーズの主体であるがゆえに、 ときとして社会の 「お荷物」 ともみなされる。 また 「女性」 は、 産業化の進展と豊かな社会の到来とともに生産の場からの撤退を余儀なくされ、 しだいに家庭という私的世界のなかに囲い込まれていった。 そこで彼女たちに期待されたのは、 生産労働に従事する男性たちの疲れを癒し、 次の時代の生産・再生産の担い手である子どもたちを健全に育てることである。 さらに、 もはや社会的貢献を期待できない高齢者や重度障害者、 そして不治の病者を看護・介護し、 みとることも“女性向き"の仕事であるとみなされた。 これらの女性 「労働」 が、 資本の蓄積にたいしてはたした貢献ははかりしれないものがある。 しかし、 それらは報酬が与えられず、 「業績」 という尺度では評価されない“シャドーワーク"に過ぎなかったのである。
  1960年代の後半以降に多様で広範な拡がりをみせた 「異議申し立て」 運動の影響のもとで、 このような不合理は、 「エイジズム (年齢差別主義)」 と 「セクシズム (性差別主義)」 ということばにより定式化される。 アメリカで起こったウィメンズリブのうねりや、 グレイパンサーズに代表される高齢者の市民権拡張運動などに呼応する運動が、 日本をはじめとする先進諸国において活発化していく。 それは、 「自由」 と 「平等」 の理念を掲げて幕開けした近代という時代が正面から見据えようとしてこなかった、 あるいは新たにつくりだしてきた不平等にたいする告発を意味するものであった。 さらにそこには、 近代が否定してきたはずの 「帰属原理」 がなお装いをあらたにしながら存続していることに、 人びとの注意を喚起しようとするねらいもこめられていた。

[子どもたちの反逆]
   「エイジズム」 の観点から考えると、 「子ども」 という存在はあたかも 「高齢者」 の対極に位置しているかのようにもみなされる。 フランスの社会史家Ph.アリエスがいうように、 子どもはまさに近代という時代のなかで“誕生"したのである。 すなわち、 「子ども期」 というライフステージには、 かつてのように“小さく"“不完全な"おとなという見方ではとらえることのできない独自の価値があり、 家庭や社会により保護され愛護され教育されなければならない存在とみなされるようになった。
  しかし近年では、 「恵まれた」 「愛情溢れる」 環境のもとにあるはずの子どもたちのあいだで、 暴力、 非行、 いじめ、 不登校、 自殺など、 ときとしておとなの理解をこえるようなさまざまな 「問題行動」 が多発している。 純粋無垢であるはずの子どもたちがなぜ恐ろしいモンスターと化してしまったのか。 そこで責任を問われるのはまず家庭であり、 なかでも母親の罪は重いとみなされる。 「母性喪失」 「母原病」 といったことばの登場は、 このような論調を端的に物語っているといえるだろう。
  子どもたちがこんにちおかれている状況は、 高齢者にたいするエイジズムの裏返しではなかろうか。 すなわち、 「業績原理」 にもとづき高齢者一般が 「価値のないもの」 とみなされる一方で、 子どもたちは 「未来の労働力」 として高く価値づけられる。 しかし、 現代における 「業績原理」 の影響は、 子どもたちの“未来に向けての可能性"という次元にとどまるものではなく、 その“現在"をもこれにもとづく一本のものさしで評価し、 序列づけようとする。 そのものさしとは、 日常的な 「学業成績」 であり、 「受験の合否」 であり、 さらには在学している 「学校の格」 であったりする。 このようにして 「業績原理」 は、 しだいに子どもたちの生活世界を徹底的に浸食し、 その心をもスポイルするようになっていったのである。

[近代からポスト近代へ、 そして対立から共生へ]
   「自由」 と 「平等」 を旨とする近代社会のなかで、 あらたな 「属性原理」 がつくりだされ、 さまざまな差別や不利益の根源になっている。 これにたいする当事者からの異議申し立ては、 当初はおおむね 「女性VS.男性」 「高齢者VS.青壮年」 「子どもVS.おとな」 という対立図式を前提にして展開された。 したがってそこでは、 女性が男性なみになること、 そして高齢者の社会的有用性を強調することなどが重視され、 性別・世代などの属性にかかわりなく、 近代特有の人間の評価次元にみなを平等にのせることがめざされていた。 しかし近年では、 メンズリブの運動にも象徴されるように、 「抑圧者」 「差別者」 とみなされてきた男性、 青壮年、 おとなたち自身もまた、 異なる種類の生きにくさを感じていることが主張されるようになった。 それゆえこんにちでは、 近代における人間の評価尺度と、 これにもとづき構築された社会システムのあり方それ自体を真正面から論じる必要性が認識されるようになってきたといえる。
  近代社会における人間観は、 「自立した個人」 を前提としてきた。 しかし、 このような人間観をつきつめていけば、 個々人の社会的孤立と管理社会への巻き込まれという意図せざる結果を生みだすことになる。 とりわけ、 国際化や情報化のすすむこんにちでは、 人びとの価値観やライフスタイルの多様化が著しい。 さらに人びとは、 他者との同一化ではなく、 「自分らしさ」 の獲得という差異化に動機づけられて行動するようになる。 このような時代状況のもとで、 社会を社会としてなりたたせるための人びとの共同意識をいかにして確保するかが問われているのである。
  すでに80年代あたりから 「近代」 のゆらぎは頂点に達し、 時代は 「ポスト近代」 の局面を迎えている。 そこではなにより、 人びとの連帯意識を担保するための公共的な意味空間の創出が求められている。 互いの異質性を認めつつ共に生きるという 「共生」 の可能性の探求は、 「近代」 という時代がかかげてきた物質的な豊かさへの希求のように、 人びとを同一目標に向けて駆り立てることはしない。 そもそも 「異質性・個別性の尊重」 と 「意味空間の公共性の確保」 とは別方向に作用するベクトルであり、 無条件の予定調和は望めないだろう。 ジェンダーとジェネレーションが提起してきた課題も、 不当に人びとの生き方の自由を奪うことは許されないが、 かといってやみくもに評価尺度の一元化を求めることによっても解決しない。 それはいま、 個別性の尊重と共生の可能性という危ういバランスのうちに再構築が求められているといえるだろう。

―― 参考文献 ――
天野正子, 1999, 『老いの近代』, 岩波書店.
藤崎宏子, 1998, 『高齢者・家族・社会的ネットワーク』, 培風館.
厚東洋輔・今田高俊. 1992, 『近代性の社会学』, 放送大学教育振興会.
副田あけみ, 1983, 「高齢者の社会運動」, 副田義也 (編) 『日本文化と老年世代』, 中央法規出版, 405-446.
友枝敏雄, 1998, 『モダンの終焉と秩序形成』, 有斐閣.
上野千鶴子, 1991, 「女性史と近代」, 吉田民人 (編) 『社会学の理論でとく現代のしくみ』, 299ー313.


■藤崎 宏子 (ふじさき・ひろこ)
  聖心女子大学文学部助教授 社会学博士
1952年 広島県出身
1981年 東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程退学
東京都立大学助手/東京都立医療技術短期大学専任講師を経て、1991年より現職。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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