2 文明・文化

文明の終焉と非同一性問題
――「世代」「種」を超える倫理へ――


三浦俊彦
(和洋女子大学人文学部助教授・作家)


序: 「文明の終焉」 の相互関係
  「文明の終焉」 という場合、 少なくとも五つの異なる意味がある。 これまでに文明という呼称のもとに続いてきたものが、
(1)物理的にも現象的にも消滅もしくは衰微する (核戦争、 環境汚染、 資源枯渇など)。
(2)物理的に継続し、 現象的に転換する (価値観のパラダイム変換、 画期的技術革新など)。
(3)現象的に継続し、 物理的担い手が変わる (他種族、 コンピューターなどによる代行的継承)。
(4)物理的または現象的に継続しながらも、 文明と認知されなくなる (遙かに高度な異文明との邂逅など)。
(5)物理的または現象的に継続しながらも、 文明という概念が変質もしくは無効化する (哲学的なパラダイム変換)。
  (1)〜(3)は実質的終焉、 (4)(5)は名目的終焉と呼ぶことができよう。 本稿では、 比較的現実性のある(1)と(2)の論理関係を考察する。 (1)についての我々の態度 (危機管理思想から通俗的終末予言のたぐいに至るまで) が、 (2)を引き起こすことがあるかもしれない。 しかしより重要なのは、 (2)が(1)の意味に新たな洞察をもたらす (しかもその結果(5)が生じさえするかもしれない) 可能性であろう。
  (2)として近く起こりうる変化のうち、 最も根本的なものはたぶん、 生命観の変化だろう。 医療と生命操作技術の発達に伴って、 胎児や脳死者など 「人格以前」 「人格以後」 の生命の地位が問い直されるだろうが、 物言わぬ胎児や脳死者よりむしろ、 実際に我々と意思疎通をすることのできる高等動物が、 一種の人格的存在として倫理的考慮の主対象となるかもしれない。 人間と他の動物種との完全な平等を実現する 「人間中心主義文明の終焉」 が可能かどうかはともかく、 条件付きの 「動物の権利」 はすでにかなり公認されつつある。 一方では、 自然保護と種の保存にかかわる運動。 他方では、 動物個体に対する虐待、 とりわけ 「動物実験」 に反対する運動がある。 前者のマクロ的運動が、 人類の未来の福祉にかかわるエコロジー運動と理念的かつ実践的に連動していることは容易に見てとれよう。 後者のミクロ的運動は、 理念的には人種差別・性差別など人権運動の拡張として理解できるが、 実践的に(1)とどのように繋がっているのか明白ではない。 しかし、 理念的共通点をさらに明瞭化することが実践的関連可能性をも明らかにし、 双方の具体的実践の方向づけに結びつくこともあるだろう。 以下、 動物実験に対する現行の反対論 ((2)) を、 未来の世代に関する一つのパズル ((1)) と比較して、 両者の理念の基礎固めを試みることとする。

1. 二種類の動物実験
  動物実験に関して大多数の人々が抱いているイメージは、 おおよそ次のようなものだろう。 医薬品の開発や病理学上の研究のために行なわれる動物実験は、 動物の犠牲によって人類の福祉に貢献している。 倫理的には、 不当な苦痛を与える動物実験は廃止されるべきかもしれないが、 功利的には、 動物実験廃止は医学技術上の不便を人間が我慢せねばならぬことを意味するので望ましくない。
  この素朴な見解は、 動物実験が医学上有益な手段であるということを前提しているが、 この前提に対しては、 医療専門家から多くの反論が提出されている。 ニューヨークに本拠を置く医学研究改革委員会 (Medical Research Modernization Committee:MRMC) は次のような点を指摘する。 動物実験は人体培養細胞による代替法よりもコストが高くしかも精度が悪い。 のみならず、 種の違いを無視したデータを人間に当てはめるため薬害の発生を防止できないばかりかむしろ看過するための制度的根拠となっている。 にもかかわらず動物実験は歴史的背景が長いために助成金を供給する政府機関から優遇されており、 資金活用の悪循環の元となっている。 しかも動物の種や与条件を変えるなどすれば論文の量産が容易にできるので、 研究者が創造性や洞察力を備えている必要もなく、 業績至上主義の風土で研究者の道を誤らせ、 医学の進歩を妨げる傾向がある、 等々 (注1)。 これらのリポートを無視することはできない。 どの動物実験が医学の進歩を促すのか阻むのかは、 事実的検証の問題であり、 論理では解決できない。 論理的考察を目的とする本稿では、 動物実験全般が医学上有益であるということを前提する必要はない。 動物実験のうち、 人類の福祉増進に役立つものだけに視点を限定し (そのような実験が一つもないという可能性は、 当面留保しておく)、 では役立つ実験ならば許されるべきか、 という倫理的問題に焦点を絞ることにしよう。
  動物実験の是非に関して医学者の意見が分かれているのと同様に、 動物愛護団体の間でも見解が分かれている。 こちらは動物実験全般に関する見解の相違ではなく、 ある特別な動物実験に関する相違である。 最近の日本の具体的な例としては、 「動物の保護と管理に関する法律」 の改正にさいして 「動物の法律を考える連絡会」 (首都圏の11の動物愛護団体で97年10月結成) が提案した 「動物実験規制法」 すなわち 「許可制」 をめぐり、 連絡会内部に生じた意見の対立が挙げられる。
  許可制とは、 内閣総理大臣が実験動物者と実験施設の認定を行ない、 国および都道府県が不適切な飼育管理の改善を求め、 認定を取り消すことができる、 等の内容を盛り込んだ制度で、 動物実験が野放しになっている現状に歯止めをかけようというものである。 しかし、 すでに許可制を実施している欧米などでは、 従来通りの実験が 「許可」 によって追認されるだけという傾向にあり、 かえって動物実験を制度化して、 名目上の 「規制」 により反対運動の合法的無力化に成功しているとも言われる。 その現実をもとに、 愛護団体の中でも動物実験廃止派は規制法に反対し 「規制派」 愛護団体を批判しているのである。
  動物実験廃止派が許可制に反対するさらに倫理的に重要な理由は、 「命の差別化」 ということだ。 「動物実験の廃止を求める会 (JAVA)」 は次のように主張する。

  許可制を導入するからには、 何らかの基準、 例えば、 動物の種別による差別化や、 同じ種類の動物でも生まれた状況による差別化などが必要になってきます。 例をあげると、 「この実験は、 猿を使ってはいけないが、 犬ならば許される」 「家庭で飼われることを目的に繁殖された犬は使用できないが、 実験用に繁殖された犬なら使用して良い」 といった具合です。 (中略) 「実験動物保護に関する欧州指針 (86/609/指令)」 には、 「野生動物や飼い主に捨てられた動物を実験用に仕入れることはできない」 としながら、 「実験には飼育された動物を使用することが望ましい」 と述べられています。 (中略) ただ、 繁殖施設で生まれたというだけの理由で、 彼らはなぜ、 動物実験による苦痛を、 虐待を甘受しなければならないのでしょうか。 私たちが求めているのは、 このような 「命の差別化」 ではないはずです。 (注2)

  実際、 日本大学生物資源科学部のキャンパスに、 日大総合医学研究所の 「ニホンザル飼育・行動実験施設」 が文部省から建設費の半額補助をうけて建設中であることを報道した新聞記事にも、 「実験にはこれまで、 業者が捕獲した野生のニホンザルを使っていたが、 動物愛護団体からの反対や、 野生サルのウイルスによる感染症が問題となっていることから、 飼育から手がけることにした」 (注3) 「(総合医学研究所の話によると) 愛護団体の要望にこたえる形で、 実験用に野生でない今回の飼育ザルの計画を立てた」 (注4) などとある。 「野生動物や元ペットの虐待はいけないが、 実験専用の飼育動物ならば目くじら立てない」 という動物愛護の基本姿勢は、 欧米でも日本でも同じであるようだ。
  動物愛護多数派のこの常識に、 論理的な裏付けはあるだろうか。 一見したところ、 確かにある。 先に引用した動物実験廃止派の文章では、 一つの事実が見逃されている (というより、 無視されている)。 「生まれた状況による差別化」 という言葉が使われているが、 それは厳密には正しくない。 「差別化により生まれた状況」 というのが真実だろう。 すなわち、 実験用繁殖動物に与えられた状況がまずあって、 それが差別を受けたわけではない。 逆に、 はじめに実験用繁殖動物としての差別化が設けられていて、 もっぱらそのために彼らの状況が生じたのである。 つまるところ実験用繁殖動物の命は、 動物実験の制度があったからこそ初めて、 存在するようになったということである (注5)。
  捨てられたペットや野生動物が、 厚生省から払い下げられて実験施設で虐待されるような場合、 彼らが本来享受したであろう生の質と、 実験に服したことで蒙る生の質とを、 比較することができる。 実験で苦しんだすえ殺処分される 「ために」 生まれてきたのではないペットや野生動物を、 実験施設に委ねることは、 彼らを 「より不幸に」 することである。 一方、 繁殖動物の場合、 実験施設に委ねられたことで彼らが 「より不幸に」 なったとは言えない。 彼らの 「本来の生」 というものは存在せず、 実験室での境遇の他には 「生まれてこなかった状態」 があるのみである。 実験室での生が 「生まれてこなかったこと」 よりも悪い、 と判断することは難しい。 いかなる生も、 無とは比較できない (ましてや善悪の観点から比較はできない) からだ。 こうして、 捨てられたペットや野生動物を使う動物実験は倫理的に悪いが繁殖動物を使う実験は 「悪くない」 という、 一つの理由があるように思われるのである。 この 「理由」 を検討することを回避しては、 動物実験廃止派は説得力ある反対運動を続けることができないだろう。

2. 「未来の世代」 への責任?
  繁殖動物による動物実験の倫理的問題は、 デレク・パーフィットの言う 「非同一性問題」 (Non-Identity Probrem) の一種である。 パーフィットが考察したのは、 現在地球上に生きる我々が未来の世代に対して持つ倫理的責任である (注6)。 我々が、 石油・ウラン・漁獲資源など、 重要な資源をどれほど使うかについて選択に直面しているとしよう。 選択肢Aは、 火力・原子力など大規模集中発電中心のエネルギー政策を続けて資源を可能な限り大量かつ速やかに消費しつつ、 廃棄物の処理はコストを最小限に抑えて当面環境に露出しない程度にとどめておくというもの。 選択肢Bは、 太陽光発電・コジェネレーションなど小規模分散型発電や省エネルギー生活へと政策を可能な限り変えて資源消費を抑えつつ、 廃棄物の処理にコストをかけて環境維持に配慮するというものである。 選択肢Aでは、 現在の生活水準は高いレベルに確保される一方、 温暖化や汚染物質・廃棄物の影響、 種の絶滅などによって、 未来の環境悪化、 資源枯渇 (「文明の終焉」 の主原因!) を招くと考えられる。 選択肢Bでは、 豊かな未来を確保できそうである反面、 現在の人々は方針転換に伴う経済的負担と福利低下を甘受しなければならない。 現在の世代の利益と引き換えに未来の世代に多大な負担をかけるか、 現在の世代のある程度の犠牲の上に、 未来の世代の幸福を図るか。 多くの人は、 Bの方が正しいと考えるのではなかろうか。 通産省資源エネルギー庁の新聞広告の標題 「豊かさは自分に、 廃棄物は他人に それでよいのでしょうか?」 といったわかりやすいスローガンなどが、 Bの倫理を典型的に表現している (注7)。
  しかし、 通常見過ごされている事実がある。 確かにAの場合はBの場合よりも、 未来の人々は不利益を蒙る。 しかし 「未来の人々」 という語は、 Aの場合とBの場合とで、 同一の人々を指し示してはいない。 なぜなら、 政策Aと政策Bとは互いに社会全般に大規模な相違をもたらすため、 人々の生活に変化を生じさせ、 互いに異なる歴史を形成し、 結果として、 別々の人間を誕生させるということが大いにありそうだからである。 因果関係の本性と、 人間の同一性の基準に関する通常の理論 (注8) を前提すれば、 三〜四世代後には、 Aの世界とBの世界の両方に存在する同一人物というものが一人もいないというほどに、 二つの場合 (可能世界) は分岐してしまうことになりそうなのである。
 こうして 「非同一性問題」 が生ずる。 政策Aは、 確かに地球環境を悪化させるが、 未来の世代の誰に対しても 「不利なこと」 をしてはいない。 Aの世界で生まれる未来の人々は、 他ならぬ政策Aが原因となって生まれてきた人々ばかりだからである。 よって、 特定の人々の生活水準や幸福度が、 Aの場合にBの場合よりも低下する、 ということはない。 未来のいかなる人の生活権も侵害されてはいない。 Aの場合に生まれた未来の世代は、 「先祖が政策Bをとってくれていたら私たちはもっと快適な生活が送れたのに」 と合理的に苦情を申し立てることはできないのだ。
  非同一性問題は、 人権への訴えが無力になる地点を示している。 実在する特定の誰の人権も侵されていないのであるから。 この事情はまさに、 繁殖動物による動物実験の場合と同じであろう。 あの場合も、 いかなる実在の動物の 「生きる権利」 も侵犯されていないのである。 政策Aを非難し、 繁殖動物による動物実験を非難するためには、 素朴な人権主義やアニマル・ライトのような 「人格的」 「個体尊重的」 原理に頼るのではなく、 古典的な功利主義を持ち出さなければならないことになるだろう。 功利主義は、 利害を蒙るのが 「誰であるか」 ということを無視する。 誰であれ存在する者たちの幸福マイナス不幸の総計が最大となるような状況を最善とする。 したがって、 より幸福な者が生まれえたのにあえて不幸な者たちを生まれさせるような政策は、 (合理的に苦情を言える者が誰もいないとしても) 悪とされるのである。
  ただし、 功利主義的に解釈された場合、 資源枯渇政策の例と動物実験の例とでは、 二つの重要な相違があることに注意しよう。 まず第一に、 前者の場合、 二つの未来の人口がどのように異なるかについて、 特定の前提はない。 A世界の方が将来の人口が多いかもしれないし、 B世界の方が多いかもしれない。 よって、 人口は仮に等しいと想定するのが穏当である。 人口が等しい場合、 かりにA世界の人々が総じて不幸よりも幸福の方が多い生を送ることになるとしても、 B世界に比べれば幸福度の総計が少ないだろう。 こうして功利主義的な観点からは、 無条件でBの方がよいという結論が導かれる。 一方、 繁殖動物を用いる動物実験の場合は、 実験を廃止した場合よりも続行する場合の方が、 生命の数が多くなる。 よって、 総じて実験動物の生涯の幸福よりも不幸が上回るという条件付きでのみ、 実験廃止が功利主義的に正しいことになるのである。
  この相違を考慮から外すためには、 次のような思考実験を試みればよい。 全世界の実験動物繁殖施設を、 用途を変えずそのまま運営し続けるか、 それとも全てもしくは多くの実験施設を盲導犬・聴導犬・警察犬・軍用犬・ペット等の繁殖施設へ変更するか、 選択が迫られているという想定である (殺処分を待つ犬を引き取って盲導犬・聴導犬として訓練することは一部で実際に行なわれている)。 どちらの政策を採るかによって、 動物種の需要や飼育・運営の方法が違ってくるため、 全く異なる個体が誕生することになるだろうが、 生まれる動物の数に必然的な増減はないかもしれない。 このようなさほど非現実的でない想定のもとでは、 功利主義的な観点からの相違は消滅するのである。
  第二の相違はこうである。 資源枯渇政策の場合、 未来の人々に対する影響は現在の政策者の目的の一部でないのに対して、 動物実験の場合には、 実験動物に対する影響が政策者の目的の一部だということ。 Aの政策者の目的はあくまで現在の福祉効果にあり、 未来の人々の苦しみは単なる随伴効果であって、 政策者の関知するところではない。 むしろ逆に政策者は、 未来の世代も可能な限り幸福になればよいと願っていたかもしれない (注9)。 一方、 動物実験の場合は、 実験動物の苦しみと死は、 政策者および実験者が大いに関知しコントロールさえする事柄であり、 目的の一部となっている。 この相違は、 未必の故意と傷害・殺人罪との違いに似ている。 このことは先に見た第一の相違とは逆に、 「資源枯渇政策よりも動物実験の方が無条件に悪い」 という結論を導くであろう。
  明瞭と思われるこの第二の違いは、 詳しく吟味してみるならば一見したより遙かに微妙な違いであり、 本当の相違であるのかどうかは実は疑わしい (注10)。 ここでは、 これが倫理的に重要な違いであるかどうかについては論じない。 しかし直観的な違いがあることは事実であり、 それが客観的・構造的な相違を表わしているということはありそうである。 とするならば、 倫理的に動物実験を容認する社会は、 政策Aをさらに容易に実行しそうだ、 という暫定的な推測も成り立つだろう。

結語:相互照射による文明モデル
  第二の相違を解消するような、 さほど不自然でない考え方がある。 A世界の利己的な人類は、 未来の世代に対して 「実験」 を施していると想定することである。 地球は壮大な実験場であり、 各世代の人類は自己利益を追求して後の世代にその代償を回してゆく、 という歴史観だ。 ちょうど毒物や細菌への抵抗力を試される犬のように、 A世界の後の世代は、 諸々の課題を創意工夫でどれだけ解決できるか、 実証することを求められる。 世代ごとに自己防衛の能力を試されるのである。 実験動物としての人類の自己証明の繰り返しが歴史の本質なり、 という文明モデルだ (注11)。
  このモデルを採用すると、 未来世代への我々の倫理的責任はそれだけ重いものと解釈される。 これは冒頭に分類したに相当するパラダイム変換をうけた文明観かもしれない。 この文明モデルがどれほど妥当であるか、 つまり 「いまだ存在しない他者」 を人類がどれほど利己的に手段化できるかということは、 「種としての他者」 つまり実験動物に対する態度と正比例的に連動しているに違いない。 「種的他者の悲惨」 が我々の倫理を試している眼前の現実であるならば、 「未来の他者の悲惨」 は我々の倫理に試されている脳裏の虚構である。 むろんその虚構は、 現在の選択次第でいずれ現実となりうる虚構だ。 非同一性問題を媒介に 「現実」 と 「虚構」 とを照射させあうことにより、 文明モデルの輪郭を粗描し直す予備的提言が、 本稿だったのである。

  注
 1 『JAVA資料集3, 4』
 2 『ジャバニュース』 NO.58,1999,p.4
 3 『産経新聞』 1998年11月4日
 4 『北海道新聞』 1998年12月15日
 5 食肉用養殖動物の場合も事情は同じである。 人間がみなベジタリアンになったら、 肉食文化のもとでは生まれてきたであろう多くの飼育動物が、 生まれてこないことになる。
 6 デレク・パーフィット 『理由と人格』 (勁草書房、 1998年) 第16章
 7 『読売新聞』 1999年3月27日朝刊
 8 例えば、 ソール・クリプキ 『名指しと必然性』 (産業図書、 1985年)
 9 倫理学では、 ダブル・エフェクトの問題と呼ばれる。 ギルバート・ハーマン 『哲学的倫理学序説』 (産業図書、 1988年) 第5章等を参照せよ。
 10 三浦俊彦 「再生倫理学」 (『たましいのうまれかた』 岩波書店、 1998年所収) を参照せよ。 真の相違を定式化するには、 可能世界の枠組みを用いることが必要である。
 11 子孫に試練を課すというモデルは、 もっと小規模には、 通常の子育てにもあてはまるかもしれない。 出生前診断の結果にかかわらず中絶せずに障害児を産み、 あえて不幸な生を作り出すことの是非を、 非同一性問題としてパーフィットは論じている (『理由と人格』 125節) が、 事例の作り方にやや無理があり、 彼の価値判断 (「無相違説」) に多くの人が賛成するかどうかも疑問である。


■三浦 俊彦 (みうら・としひこ)
 1959年長野県生まれ。 1983年東京大学文学部美学芸術学科卒業。 1989年東京大学大学院比較文学比較文化専門課程修了。 現在、 和洋女子大学人文学部国際社会学科助教授。著書は『虚構世界の存在論』(勁草書房)、『可能世界の哲学』(NHK出版)、他。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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