2 文明・文化

場所と環境の思想に向けて


金森 修
(東京水産大学助教授)


1 場所の浮上
  ある日本の哲学者は、 いわゆる地球環境問題などよりも自分がこれから死ぬということがもつ意味を熟考することの方が哲学的にみて遥かに大切に思えるというような意味のことを書いているらしい。 またそれを 「哲学的に」 判定して、 実に優れているなどと褒め上げるほかの哲学者もいる。 私自身、 いわゆる 「哲学」 に若い頃若干は関わってきた人間として、 このような判断がうぬぼれがちな口調でなされているのを見ると、 何とも情けなく、 恥ずかしい思いにかられる。 そんな 「哲学」 など、 あってもなくても別にどうということはないということをここではっきり確認しておきたい。 これからの私たちに求められているのは、 いわゆる 「自分」 なるものがもつ問題構成をとにかく特権化して、 その周辺をぐるぐる回るなどという精神ではなく、 その自分なるものが、 実はなんら閉鎖的、 自律的なものではなく、 自分の判断の基準となる感覚や知覚自体がそもそも自律的にはループをつくらない構造になっているという自覚から始まり、 実は 「自分」 という名で仮称されているものは、 身体と周辺とのやりとりの調整自体だという認識へと至る、 本性的に開放化された精神のほうなのではあるまいか。 その場合、 「身体と周辺とのやりとり」 という表現で用いられる周辺という言葉に少し注意する必要がある。 この場合の周辺は、 まさにそれが周辺である限り、 自分の身体の周りのもの、 という程度の意味であるはずで、 自分の身体が移動や定住の準拠になっているはずなのだから、 結局はいわゆる自分へと収斂してしまうのではないかという反論も可能だ。 だがその際、 移動や定住は実は自分が任意に決めているのだろうか、 と自問してみる必要がある。
  自分の身体がある程度、 身体的に踏査し尽くすことができ、 ものとの直接的なふれあいをすることが可能なくらいの広がりをもつ小さな空間、 それがふれあいをもつことができるというまさにその理由によって、 それに対する知覚や知識がなんら抽象的でも疎遠なものでもないような小さな空間のことを、 いまかりに 「場所」 と呼んでおく。 それは明確な定義をすることができない。 どこからどこまでが任意の個人にとっての場所なのか、 と問われても、 その境界設定を客観的にすることはできない。 同一の個人にとってさえ、 ある経験のまとまりの時間と次の挿話の時間における場所の大きさは違っているのが普通だからだ。 だがこの場合、 議論のポイントは、 それが 「客観的規定ができない」 というそのことから、 それをただちに恣意的な意味設定そのものとしての主観性へと封じ込めることは避けるべきだという判断のなかにある。 普遍妥当的な客観性と、 まったくその人当人にとってしか意味を持たない自閉性の楼閣としての主観性という、 この古典的な二分法からは是非とも身を引き離す必要がある。 ある経験が定量可能で普遍妥当的なものではないからといって、 それがまったく恣意的で任意のもの、 自分の裁量にすべて関わるようなものでしかないということを意味するわけではない。 いわゆる客観的なものではなくても、 ある曖昧さを本性的に伴いつつも、 明らかに自分には回収され尽くせないものがある。 それを理論的に反省したことはなくても、 実は私たちはそれを普段から感じ取っている。 それを近代的な認識論のなかで平凡な主観・客観の二分法に当てはめて、 客観的規定ができないとすぐに主観的な夢想に自ら押し込めてしまっているだけである。 だから、 その二分法を放棄して、 完全に客観的ではなくても、 自分を何らかのかたちで触発し、 いざない、 ある種の行動を促してくれるものを、 自分の意志や感情以外のところに探してみよう。 そうすれば別に詳しく探す必要さえなく、 すぐに普段自分がそのように自分の周囲の生動的なものによって駆動されていることがわかるはずだ。 それをいま場所と呼ぶのである。 例えばそれは清冽な小川と涼しげな木陰を与えてくれる散策の一区画かもしれないし、 あるいはまた煙草の煙と人いきれにむせかえる小さなコンサートホールかもしれない。 その種の場所に身を置いたとき、 私たちは自分が自分の 「内部」 に流れているものすべてを統括できるわけではないということを、 いやおうなく感じさせられる。 場所は、 ニュートン的な空間がもつ均質性、 匿名性、 抽象性をもたない。 それは不均質で、 それに特有な名を帯びており、 あくまでも匂いや色、 気配や喧騒を伴う小さな特殊空間だ。 そして私たちは、 極めて知的に構成されたニュートン的空間に従って物理学の方程式を解き、 場所に従って生活しているのである。
  もっともだからといって、 場所が私を駆動して、 私のすべてを規定するなどという、 逆向きの極端なことをいうつもりはない。 それならまるで、 民俗学風に味つけされた構造主義の二番煎じのようなものではないか。 例えば先の例によって、 もう一度言い換えるなら、 私がなにか自分でも良くはわからないものによって動かされるようにして、 コンサートホールや小川のそばに行くということがあるとしても、 もちろんあるひとつの一貫した身体行動を調整するのは、 まさにその身体そのものなのだ。 だから、 移動や定住を決めるのはあくまでも自分だという古典的発想を壊そうとするあまり、 その逆向きの極端、 つまり移動や定住を決めるのは実は場所そのものだとまで主張するのは、 古典的発想と同様に単純である。 より実態に即してみるなら、 私たちは場所にいざなわれ、 ある種の場所を求め、 規定し直し、 互いにお互いを試すかのようにして場所と向き合っているということがわかるだろう。 美しい小川が流れているところにきても、 受験のことが気になる人なら水面の輝きや小魚の群れを味わい尽くすことなどとてもできまい。 そこにはやはり、 古典的直感がそう思わせているような 「内面」 の継続性らしいものがある。 だがそうはいっても、 かりに受験で頭が一杯になっているにしても、 その人が小川の傍らにいるときと、 コンサートホールにいるときでは、 まったく同じ心持でいるということはできまい。 小川のせせらぎとジャズの響きとでは、 どれほど 「内面」 の自律性を信じている人でも、 それらに同様の対応が可能だなどと強弁することはできないだろう。 やはり場所には、 私たちの 「なか」 にまで入り込んでくるなにかがある。 それは私たちを挑発し、 愚弄する。 ある意味で、 人生がどれほど豊かかを決めるものは、 その人が通過した多様な空間の切れ端を、 単なるニュートン的視座のなかでの関わりでしか取り扱うことができないか、 それとも次々にある固有の意味を帯びた (それがたとえ否定的な意味であれ) 場所の群れとして感じることができるか、 その程度にかかっているとさえいうことができる。 幸せな人、 それは多くの場所を知り、 味わい、 試してみた人のことだ。 「自分への沈潜」 をすぐれて 「哲学的」 な営為だと感じることが、 どれほど貧困なものかが私のいくぶん性急な説明によって、 少しでも理解していただけただろうか。 私たちはその種の古典的で閉塞的な感性から身を引き離さなくてはならない。

2 場所の感覚
  ここで話をもう少しだけ具体的なものにしてみよう。 文化人類学者のフェルトとバッソが編者になっている 『場所の感覚』*E1という興味深い本がある。 それはいくつもの面白い論考を含む論文集なのだが、 ここでは平板な鳥瞰になることを避けて、 そのなかからただひとつ、 バッソ自身の論文、 「知恵は場所に宿る」*E2という文章のことを簡単に紹介してみたい。 そこでバッソはアパッチインディアンのことを取り扱っている。
  話の中心はアパッチの年老いた馬飼い人パターソンを中心に進められる。 アパッチたちは自分たちが知悉している地域のそれぞれに、 その土地を特徴付ける地形や生物、 またはそこに縁のある話を元にした名前をつける。 バッソが文化人類学者としての調査の過程であるとき、 ふと注意を喚起されたことがあった。 それはアパッチ数人の会話をきいていたときのことなのだが、 彼らは次のような話をしていた。 ああ、 お前さんたちは 「二つの丘の間を野道が通る」 からやってきたんだね、 だとすると、 丘を登ったり降りたりで大変だったろう。 それに焼けた尿の匂いをたんとかいできたんだろう…。 この会話は当然ながら、 バッソの理解を超えるものだった。 その数日後、 会話に加わっていたパターソンからバッソは次のような話を聞く。 「二つの丘の間を野道が通る」という名で呼ばれる場所には、 古来から次のような話が伝わっている。 そこに昔、 梟おじさんがやってきたとき、 二つの丘のそれぞれには若くて美しい娘がいて、 二人がともに老人をからかうのだった。 一人の娘がおじさん、 私を抱いてと呼びかけて、 おじさんが途中まで登ると、 こんどは反対側の丘にいる娘が同じことをいう。 するとおじさんは丘を降りて、 反対側の丘を登ろうとする。 そしてその途中までいくと、 また最初の娘が同じことをいい、 おじさんはまた最初の丘に向かう。 かくしておじさんは二人の娘の間を行ったり来たりする…。 それにもうひとつ、 こういう話がある。 あるときハコヤナギの木の上に若い娘がいた。 梟おじさんがその木の下を通りかかると、 娘はスカートをたくし上げて脚を見せる。 するとひどい近眼のおじさんは、 なにが起きたかは正確にはわからないながらも、 なにかを感じて興奮して、 この木はまるで女みたいだと思い、 その一部を燃やして家に持ち帰ろうと考える。 そこでおじさんは火をつけるのだが、 火がある程度大きくなるたびに上の娘は尿でその火を消してしまう。 なにか変だぞと不審に思いながらも、 とにかくおじさんは着火を繰り返すのだった…。 こうパターソンは話して、 笑うのだった。
  「二つの丘の間を野道が通る」という場所には、 アパッチなら誰でも知っているこのような小話があった。 その話自体はたわいもないものだとはいえ、 アパッチはその種の話、 それぞれの地域にまつわる大量の小話を知っており、 それを前提にした上で先のような会話をしていたわけである。 一見、 文脈が完全に分断された散漫な会話に聞こえた彼らの話は、 実は彼らの文化的コンテクストのなかでは、 非常に繊細で技巧的なものだったということがわかる。 このような背景があるとき、 いろいろな場所に行ったことがあり、 その土地に由来する多くの話を知っている人は、 非常に豊かな人生を送る人、 数多くの知恵のある人だと見なされる。 パターソンは、 上記の話以外にも、 いろいろな話をしてくれる。 そしてぽつりというのだった。 知恵は場所に宿る。 それは決して枯れることのない水のようなものであり、 私たちは水のように場所から知恵を飲む必要がある、 と。
  文化人類学的な文献のある種の定型にはまるものとはいえ、 特殊性に対する繊細な関心と目配りは私たちにも重要な示唆を与えてくれるものだといって良い。 尽きることのない水のように場所から知恵を汲み取ること。 知恵という言葉があまりに人生談議風な響きをもつものに思えるのなら、 それを知識一般という風に少し広げて捉えなおしてもいい。 私たちの目前を次々に通りすぎていく場所の群れから私たちは大切なものを吸い取り、 同時に私たちは自分の破片を残していくとも言える。 私たちの 「内部」 と場所という外部との境界線はかすみのようにぼやけているが、 それはむしろ私たちが外に染み出しているという生動の印なのだ。 ニュートン的空間をできる限り分断して、 場所として生き抜こう。 そして別にアパッチをそのままなぞる必要はないので、 それぞれの場所にまつわる話を探してみる義務はないとはいえ、 自分なりの逸話をある特定の場所と結びつけながら、 経験を織りなおしてみるのも一興だろう。 小川には小川の話を、 そしてコンサートホールにはコンサートホールの話を。 パターソンの 「知恵」 は、 西洋人が感じる異国情緒といった定型を離れた、 ある斬新さをもって、 私たち自身に語りかけてくれているように思える。

3 生動的な環境へ
  そしていま、 いわゆる地球環境問題を、 いままで私が述べてきたような意味での場所論との連携のなかで捉えなおしてみることができないだろうか。 ある生態学者も述べていたことだが*E3、 私たちは本来的に視覚的な動物であり、 また人間の知覚システムは個別の出来事、 つまりライオンの襲撃や枝がぽきっと折れる音などにとりわけ反応するような形での進化を遂げてきた。 だから経験は通常、 瞬時に動くものなどを図とし、 その背景の環境一般を地とするようなものとして把握されることが多い。 そして図としての経験のまとまりをより簡便に捉えることができるように、 地としての環境は基本的にはまったく変わらないものとして認識される。 地球環境問題のように、 まさにその地としての枠組み全体がなんらかの変質をしているというような問題状況が、 いわば進化的限定に視野を狭められている人間たちにとってどれほど理解しにくいものなのかということが、 このことからもよくわかる。 地球温暖化やオゾンホールなどというような問題をいわれても、 頭では理解できているつもりでも、 普通の日常生活ではほとんど変わりがないように見えるために、 いまひとつ実感に欠けるという場合が多い。 そんなとき、 環境なるものは、 ちょうどニュートン空間が疎遠な抽象性を帯びていたのと同じような具合の疎遠性を伴ってしか、 通常世界に関与してこない。 少なくとも、 基本的にはそのように思われている。
  だからこそここで、 若干視点を変えることができないだろうか。 そしてニュートン的疎遠さの一種の極限ともいえる巨大空間としての環境世界を、 一種の場所的集合の極限として捉えなおしてみるのだ。 そのとき、 地球環境は、 とても一人の人間には踏査不可能な規模を持つ三次元の膨大な均質空間としてではなく、 日常的場所との関わりのなかでの遠くはあるが、 決して到達できないということはない一種の場所の群れとして姿をあらわしてくることになる。 これを単なる 「表現の言い換え」 と捉え、 実質的にはなにも変わらないと考える人があるとすれば、 その人は概念というものがもつ設計的な力、 人間行動を一定程度制御する力を見落としているのだ。 環境を空間よりは場所に近いものの極限として捉えるということは、 単なる空理空論なのではなく、 環境一般がはらむ数多くの問題群に対する私たちの態度決定に微妙な変更をもたらす概念変換である。
  その最大のポイントは、 先に場所概念を浮上させる際に簡単に規定しておいたように、 環境問題をあまりに規模の巨大な問題だとして捉えて、 諦念をもって放置するのではなく、 ちょうど場所が作動可能空間として定義されていたのと相即するように、 個人がなんらかの形でその改善に参加できるようなものとして捉えなおすことを可能にするという点にある。 それは従来、 エコロジー運動の文脈で何度か取り沙汰されていた 「総体的に考え、 局所的に行動せよ」 というモットーに若干の変更を促す。 そして強いていうなら、 「局所的に考え、 局所的に行動せよ」というモットーに変える。 生態学がもつシステム論的視点が持つ独自性と重要性をなにも否定するつもりはないとはいえ、 その種のシステム論的視座は専門家にゆだねても構わないから、 普通の個人はあくまでもシステムではなく、 個別の局所空間の成達自体を問題にし、 それへの直接的参加を考えていくのである。
  これは、 エコロジーのいわゆるアクティヴィズムを単に理論的に補強しているだけだと感じる人も多いかもしれない。 確かにその側面はある。 つまりこの種の問題においては、 最初から最後まで概念的分析や概念上の設計だけに終始するというのは、 やはり限定の大きいことだという認識をもつことはやはり重要であり、 その意味ではデモや示威行動などのアクティヴィズムがもちうる固有で代替不可能な意義を認めることは大切である。 だが、 それはなにも、 エコロジー的問題に関わろうとするとき、 結局はある種のアクティヴィズムに参加することだけが有意義なことなのだという判断と合体するものではない。 地球環境問題ほどの巨大な問題構制を前にする場合、 問題を個人的に、 また一気に解決することなどはできるわけはない。 多様な知識を持った人間たちが、 それぞれの立場から、 それぞれの限界内でできる限りのことを行うというのが結局は最良のことなのであり、 その際、 概念的関与によっておもに行動するという人がいても、 別に問題はないのである。 その人はデモに参加することによってではなく、 環境問題への意識覚醒をもたらす多量の論文や講演などという活動によって、 この問題に参加するのだ。 それもまた、 一種のアクティヴィズムなのである。 そして私がここで論じようとしている、 空間的な環境論から場所的な環境論への重点移動という問題設定は、 結局のところはその種の言説的活動のなかで最も力を発揮するものだということができるだろう。 この小論自体が、 この問題に関する私なりのアクティヴィズムなのである。
  周知のように、 わが国は驀進する産業界の要請を最大限優先するという政策を続けているために、 また本来の地理的限定性からはかけ離れた生活スタイルを次々に模倣するという追跡的な生活欲求に、 あまり制限的な反省をしていないために、 地球全体のなかでも最も環境破壊的な活動をしている国の一つである。 しかも、 そのことに対する反省や自覚は極めて低いままであり、 依然として、 西洋人は自然を敵対的なものと見なしてそれとの闘争に励むことを文化と考えているが、 日本人は自然との融和性の高い生活を営んでいる云々という、 既に完全に実態から乖離した自己認識を許容せしめるような甘やかされた文化空間のなかにいる。 そのような欺瞞的な自己認識はできる限り早く捨て去るべきだ。 そして、 自分の小さな力でも、 まるで無意味なものとは見なさずに、 自分に疎遠な抽象空間の話なのではなく、 自分が知悉する場所の美しさを結局は守ることにもなる一種の極限自体への直接行動として、 環境運動全体を捉え、 各人それぞれの仕方でそれにコミットしていくという風土を早く醸成するべきだ。 そして私がここで素描しようと試みた場所概念はそのための概念的地均しとしては、 極めて有意義なものだといって良い。

―― 参考文献 ――
*E1 Steven Feld & Keith Basso eds., Sensesof Place, School of American ResearchPress, 1996.
*E2 Keith Basso, “Wisdom Sits in Places: Notes on a Western Apache Landscape",S.Feld & K.Basso, op.cit., pp.53-90.
*E3 Paul & Anne Ehrlich, The Population Explosion, Simon & Shuster, 1990, chap.10.


■金森  修 (かなもり・おさむ)
  1954年生まれ。 1978年東京大学教養学部卒業。 1986年東京大学人文系大学院比較文学比較文化専門課程博士課程満期退学。 1987年筑波大学現代語・現代文化学系講師。 1991年同助教授。 1997年東京水産大学共通講座助教授、 現在に至る。 専攻は科学史・科学論、 科学思想史、 フランス科学認識論。 文学修士。 哲学博士。 第12回渋沢・クローデル賞受賞。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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