2 文明・文化

多様な文明・文化の相互理解にむけて


福田眞人
(名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)



  地球や宇宙の大きさにくらべれば、 人間一人ひとりはちっぽけな存在である。 孤独でもある。
  しかし、 それが何人か集まると群を成し、 村落を形成し、 利益を共有したり、 慣習を継承して、 一種の共同体を構成するようになった。 この習慣が蓄積され、 継承され、 固有のものとなっていった時に、 共同体の価値観が、 それが幻想であれ妄想であれ、 特別の価値を持つようになった。 そして、 それ自体が意味を持ち、 その共同体の規模が拡大していった。
  そこに、 宗教や家族意識、 同族意識、 民族意識、 国家形態の萌芽があったと言えよう。 この固有の、 長年培われた、 何人にも冒しがたい制度、 慣習こそが文化とも呼ぶべきものであろう。 たとえばそれは、 「キリスト教」 という宗教に、 「ユダヤ人」 というほとんど類別し難いほどの多種多様な人種が含まれた概念に結実した。 実際、 ユダヤ人はコーケジアン (白人) と考えている人が少なくないが、 その中には白色、 赤色、 黄色、 黒色人種すべてが含まれているのである。
  一方、 ずっと生活に密着した形で、 しかも生活をより利便に、 より快適にしようという試みこそ、 人類のさまざまな発展に貢献したのである。


  文明とは、 何か。 それは、 利便性、 効率性、 快適性の追求であると言って過言ではないだろう。
  一見奇妙に聞こえるが、 文明の端的な例は、 軍事関連開発にその例を見出すことができる。 たとえば、 泥濘の中を駆け抜ける戦車についているキャタピラーは、 ブルドーザーに応用され、 その乗り心地を良くするためにクッションが付けられ、 弾道照準を合わすために数学的解析が発達した。 軍事食料保存のために冷蔵庫が開発され、 大量の軍事物資貯蔵、 運搬、 配給のために、 人員配置、 機械操作、 建築物計画と、 その裾野は限りなく拡がっていった。 作戦策定のためにも、 過去のデータの蓄積、 相手の心理を読む心理学、 さらに敵地後方の心理揺動研究も進んだであろう。 視線の移動で、 ミサイルや機銃の照準を決定するプロセスには、 心理学、 医学、 工学が参加したし、 その医学にしても、 外科という点では、 まさに戦陣手術の経験の蓄積であった。 つまり、 そこには、 その規模の大小はあれ、 「快適」 と 「競争」 と 「未知への挑戦」 という原理が働いているのがわかるし、 人間が本来求めて止まない目標が、 技術の、 ひいては文明の発達そのものに深く関与してきたのである。 そこにこそ想像力と創造力が働いていた。
  他の学問の世界ではどうだろう。 たとえば、 文化人類学の基礎は、 大国の植民地の効率的経営に対する要請があったところに築かれたことは良く知られている。


  人間はずっと文明・文化を享受してきたという錯覚がある。 しかし、 実際にはそれらのドイツ語にあたる語 [Kultur und Zivilisation] は、 18世紀末にその起源がある発想、 造語と言ってもよく、 その歴史は意外に浅い。 それに付随して、 「芸術」 やら 「天才」 やらの言葉がごく当然のように使われるようになった。 それまでは、 「技芸」 と 「職人」 の世界であったのが新たな意味付けを得たのである。 それは、 歴史的に技芸[arts] が芸術 [art] に、 また職人 [artisan] が芸術家 [artist] に変化することを意味していた。 つまるところギリシャ人もルネサンス人も、 自分の営為を芸術や文化のためと自覚し規定していなかったのである。
  今日のわれわれは、 自分たちの文化的蓄積を認識し、 また産業技術の粋を尽くした文明を日々享受していることを信じて疑わない。 (陥穽かんせいはそこにもあるのだが。)
  ある意味で、 文明の予測は可能かも知れない。 たとえば、 ちょうど100年ほど前のまさに20世紀の冒頭に (1901年1月1日)、 慶応義塾で開催された 「19・20世紀送迎会」 での論議が、 その翌日の報知新聞に掲載されているが、 そこでは電話やファックス、 テレビ、 モータリゼーションの到来、 医学の発達などが予測されている。 しかし、 文化はそれ自体不可解な集合体である。


  その文明が発達した現代では、 情報や技術が重要な文化現象として認識されている。 しかし、 滑稽なことにあまりにすべてが分化しすぎたために、 またそれを受容する人々の数が激しく増大したために、 いわゆる大衆化が進んだために、 その中心やまた全体像が捉え難くなっている。
  また、 その変化の規模、 時間の早さは想像以上のものがある。 文明が、 永遠の螺ら旋せん状の変化に突入した感さえある。
  人々が平等になるというのも、 人間としてのひとつの 「快適性」 であろう。 一方、 人とは違う、 自分が優位に立っていると感じるのもひとつの 「快適」 であるに違いない。 比較的平等な社会が築かれつつあるという反面、 別の新しい差異化が生じている。 貧富の他に、 情報量の多少という問題であろう。
  もちろん世界全体を見回せば一様でないことは一目瞭然だが、 貧富は、 土地所有、 生産手段の保有という段階から、 どれだけの物質を所有しているかという消費文明と情報量の多少で計るという形で現出し始めている。
  膨大な消費量は、 人間の欲望、 欲求をさらに肥大させている。 欲望、 欲求は向上心と好奇心の裏返しである。 向上心はまた、 冒険心と紙一重であろう。 未知の宇宙を探査しようという欲求は、 人間に新しい地平を開いた。 情報は、 インターネットで飛躍的に増大している。
  しかし、 豊かさとはなんだろうかという問いかけが今真剣に問われなければならない。 価値基準の模索、 つまり共通の価値観とモラルに対する希求が生じ、 よりよく生きることの意味がやっと問われ直され始めたのである。
  しかも、 それらすべての源に哲学がなければならない。
  日本が、 かつて第5世代コンピューターを模索し始めていた時、 記憶容量の大きさによってその突破口を作ろうとしていたのだが、 西洋ではまったく逆に、 初歩的にさえ見える言語の発生過程からたどり直す言語哲学を通して、 人口知能の可能性を探っていたことが興味深く思い出される。 コンピューターサイエンスと遺伝子工学の最先端は、 実は哲学であると言われていることと通底する問題がそこにある。


  確かに、 国際化、 情報化が叫ばれている。 あたかも世界を、 コンピューターを通したひとつの統合体のように見なしている人さえある。 しかし、 実際にはそうなのだろうか。
  人種、 民族、 国家の対立は、 あるいは宗教の先鋭化は、 さらに進んでいるかも知れない。 さらには、 主義さえも。 イスラム教 (とりわけ原理主義者) と北朝鮮を例に挙げると反対する人がいるだろうか。 いや、 2000年以上も国家を持たず、 漂流し続け、 被抑圧民族であり続けてきたユダヤ人はついにイスラエルという理想郷を築いたが、 その瞬間から、 彼ら自身が今度はパレスチナ人に対する抑圧民族となった。 (すでに述べたように、 ユダヤ人さえ一様には定義困難である。)
  日本、 日本人という構図さえ、 必ずしも明確ではない。 北にはアイヌ民族がいるし、 全国には韓国・朝鮮人がいて、 さらに外国人が流入し続けている。
  しかもこのような大きな民族、 宗教の対立という明確な図式から、 実は同質の社会と考えられていたものの中から、 たとえば男女対立、 老若対立、 貧富対立という問題が立ち現れてきたのである。 そこでは、 まさにそれらの領域に所属している当の本人が、 その係累の人々と対立する可能性さえ否定できないのである。
  文明が発達し、 文化がそれを享受する人々の間で声高に語られている間にも、 まだ人類が解決していない問題の多さに驚愕せざるを得ない。 たとえば人口問題、 環境破壊問題、 宗教対立、 民族対立等々。 52億を越えた人口は、 毎年9000万人ずつ増加しつつあるという。
  一方では、 溢れる物資に酔いしれる社会があれば、 他方にはその日の食料さえない社会がある。 余暇が溢れているのに、 出来合いの食料で子供の口を満たし、 残飯が溢れる社会もあれば、 飲み水にさえことかく社会がある。 局地的紛争、 民族・部族間対立、 貧困、 無知のために、 栄養不良と下痢で年々数百万人の子供が成す術もなく死んでいる。
  また、 科学が発達し、 その一部としての医学が、 遺伝子治療や臓器移植を誇っている時、 実は世界で年々300万人もの人が、 過去の病気と思われている結核で死んでいる。


  先端と最後尾との距離、 現実と理想の、 つまり、 情報量の多少に似て、 豊饒と欠乏の極端な差異が、 次なる文明・文化の問題だろう。
  もちろん、 そこには技術としての文明、 文化としての伝統・芸術というあまりにナイーヴな構図が見え隠れしている。 科学技術への盲信、 帰依があったことは疑いがない。 その結果もたらされた環境破壊は、 人類が自分の存在場所そのものを危うくしたのである。 ちょうど核兵器が地球全体の破滅を可能にしたように。 しかし、 たとえば、 いわゆる 「環境ホルモン」 と言われる人工化合物への危機意識はまだ十分高いとは言えない。 (9万種類にのぼる人工化合物の内、 実際に人体・環境への影響が検証されているのはほんの10種類ほどである。)
  そこに求められているのは文明・技術の再検証、 富と情報の再分配、 人種・宗教の対立解消の可能性といったものを探る英知であろう。 それは真に人類に貢献する技術の確立、 相互信頼と依存、 文化の享受、 違和感の解消への努力へと結びつく。 民族、 国家、 宗教の根強い枠組み規定が存在する現在、 そうした理想への挑戦が求められている。
  たとえばEUの統合、 通貨の制定が、 ヨーロッパ民族文明・文化への新しい志向ではないとは誰にも断言できない。 さらには南北問題、 アジアの台頭、 世界の三極化あるいは四極化という問題も出てきている。
  しかも、 問題を複雑にしているのは、 文化的には中心と周縁の区別がつきにくくなっていることであろう。 映画も、 音楽も、 食べ物も単にその領域を超越しつつあるのみならず、 国境を越えているものが少なくないという点で、 ボーダーレスなのである。 電波がまず国境を越えた。 情報という点で、 インターネットは完全に情報の周縁というものをある意味でなくしたのだが、 その質と量はもう一度検討されねばならない。


  価値観の混乱、 転倒、 錯誤があちこちで生じている。 それは、 つまり旧弊の制度、 思考方法、 価値観が問われているということである。 歴史的に、 常に保守と革新があり、 また新たなものには常に試行錯誤があった。
  詰まるところ、 文化とは、 芸術や技術の集積だけではなく、 もっとその背後全体にわたるものであることが理解できる。 それは、 必然的に、 宇宙観、 自然観、 世界観、 美意識、 つまり哲学を伴ったものでなければならない。 哲学の復権、 哲学の再生などと言う生やさしい問題ではない。 そこでこそ人間の英知を示す必要がある。
  そのためには思考回路の転換、 視点の変更が必要かもしれない。 あるいは、 価値観の多様化という課題。 それはたとえば、 歴史認識の問題である。 西洋中心史観、 進歩史観からの脱却が求められている。
  必ず、 不平等は存在する。 しかし、 その解決に向けて進まねばならない。 その事実に立脚して、 別の歴史を提供する必要があるだろう。 それが、 偏見や独断に満ちていたとしても、 哲学のある新しい歴史が書かれ、 互いに読み合わせされなければならない。 そこにこそ、 次の世代への可能性が胚胎する。


■福田 眞人 (ふくだ・まひと)
  京都大学工学部卒業。 東京大学大学院総合文化研究科 (比較文学比較文化)、 オックスフォード大学医学史研究所客員研究員、 英国学術振興会研究員、 ハーバード大学科学史学科客員研究員を経て、 現在、 名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授。 専攻は、 比較文化史、 医学史。
  著書に 『結核の文化史』 (名古屋大学出版会)、 Public Health and the Modern State (Rodopi,Amsterdam) 他。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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