2 文明・文化

文明と文化の地平の拡大


藤田みどり
(東北大学言語文化部・大学院国際文化研究科助教授)


1. はじめに
  20世紀もまもなく終わろうとしている現在、 「人食い人種」 がこの世の中にいると信じている人はほとんどいないだろう。 だが、 わずか半世紀前までは、 日本でも 「未開の土地」 には 「食人種」 はいると、 あるいはいても不思議ではないと考えられていた。
  冗談のような話だが、 戦後初のフランス留学に旅立とうとしていた若き遠藤周作氏は、 見送りに来ていた友人の柴田錬三郎氏から、 突然、 「お前、 神戸に着くまでに、 あいつらに食われてしまうぞ」 という強烈な餞別の言葉を浴びせかけられる。 時は1950(昭和25)年、 場所は横浜。 めったにないチャンスとばかり、 フランス客船内を、 一足先にくまなく見て回った柴田が、 遠藤と同じ四等船室でアフリカ黒人兵の一団と遭遇したのだった。
  当時を振り返って、 遠藤周作氏は、 恐ろしくてなかなかキャビンには降りて行けなかった、 と心情を吐露する。 黒人といえばターザン映画に出てくるような、 人を人とも思わない獰猛なアフリカ人の姿しか頭になかったのだという。 遠藤氏が観たターザン映画とは、 MGMが1936年に製作したワイズミュラーの主演による 「ターザンの逆襲」 だったろう。 1924, 28年オリンピック水泳の金メダリスト、 ジョニー・ワイズミュラーである。 この映画は、 アメリカで公開された同じ年に日本でも上映されたが、 11年後の1947 (昭和22) 年、 ちょうど遠藤がフランス留学に出発する3年前に、 日本ではニュープリントで再上映されるや大ヒットとなり、 日本全国に知れ渡っていた。
  原作 『猿人ターザン』 (Tarzan of the Apes) という小説がアメリカで最初に雑誌に掲載されたのは、 1912年のことである。 作者はエドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs)という当時無名の男性で、 自分の幼い娘のために、 子供のころ愛読したスタンレーのアフリカ探検記を基に、 別の物語に仕立てたのが、 この 『猿人ターザン』 だった。 原作のターザンと映画の、 特にワイズミュラーがターザンを演じるようになってからのターザンとは、 かなり趣が異なる。 ここで詳しく触れる余裕はないが、 ただ一言、 原作のターザンは知性あふれる森の貴公子であったことだけは、 述べておきたい。
  最初に映画化されたのは1918年、 まだ、 無声映画の時代だったが、 トーキーへの移行と同時に、 ターザン像もアフリカ人像も大きく様変わりしていった。 以後、 現代までターザン映画は作り続けられているが、 この時に類型的なイメージが出来上がったと言っても過言ではない。 身体的能力はずば抜けて優れているが、 「ミー、 ターザン。 ユー、 ジェーン」 というたどたどしい英語しか話せないターザンと、 ヤリを持ち奇声を発しては白人を襲う食人鬼の黒人のイメージである。 当時のインテリの若者を代表する遠藤周作氏ですら、 恐怖感を抱く黒人の姿がそこに映し出されていたのである。

2. 「暗黒大陸」 という神話
  エドガー・ライス・バローズがターザンを執筆した1912年ごろ、 アフリカはまさに 「暗黒大陸」 と呼ばれていた。 呼ばれる側は別として、 呼ぶほうも、 またそう呼ばれることを目にし、 耳にする側も、 なんら疑問をさしはさむことはなかった。 自明の理とまでは言わないまでも、 誰もがそれを容認する時代の雰囲気が20世紀初頭にはあったといえよう。 1884年のベルリン会議でアフリカはヨーロッパ列強によって分割され、 ありきたりの言い方をすれば、 帝国主義の餌食となっていたのが、 その頃のアフリカ大陸ということになる。 1914年、 アフリカで独立を堅持し得たのは、 エチオピアとリベリアのわずか2ヶ国に過ぎないという惨状だった。
  アフリカにはヨーロッパ人がその未知なる大陸の存在を知った時から、 <暗黒>という形容詞がつきまとった。 それは、 あまりにも未知であるがゆえに、 つまり、 あまりにその土地の地理なり情報に暗かったことから、 ヨーロッパ人はアフリカを暗黒の大陸と呼んだのである。 ヨーロッパ人が西アフリカ沿岸部に到達し、 アフリカ人を実見するようになると、 アフリカにおける慣習や伝統、 文化の相違から、 ヨーロッパ人の暗黒のイメージに別の側面が加わるようになっていった。 17世紀に西アフリカのギニア地方を訪れた英国人は、 黒人たちが裸でいる様を見て驚愕し、 その民度の低さを口汚く罵った。 17世紀を生きた英国人にとって衣服を纏わないことは、 単なる習慣の相違ではなく、 端的に道徳と教養の欠如、 もっと極端に言えば、 人間性の欠如を意味した。 こうして、 アフリカを訪れたヨーロッパ人の報告によって、 地理に関して無知であるという<暗黒>に加え、 野蛮なイメージが加わっていったのである。 もちろん、 そればかりではなく、 政治的、 経済的な背景も絡んだ。 アフリカの黒人を新大陸に強制移送する奴隷貿易を正当化するためにも、 アフリカ人は野蛮である必要があったのである。
  しかし、 なんといっても、 アフリカの暗黒のイメージを定着させたのは、 19世紀になってから盛んになった、 アフリカ内陸部へのキリスト教の布教と、 地理的探索の名のもとに行われた踏査であったろう。 それらの記録は、 宣教師の活動報告であろうと、 調査結果であろうと、 紀行文であろうと、 一様に 「探検記」 として、 熱狂的に欧米諸国で迎え入れられた。 1857年に英国で出版された宣教師デービッド・リビングストン (David Livingstone) が著した 『宣教師による南アフリカ旅行調査記録』 (MissionaryTravels and Researches in South Africa) は、 発行部数が数ヶ月で7万部を突破するなど、 飛ぶように売れた。 だが、 もっとも大衆の人気を博したのは、 探検家ヘンリー・モートン・スタンレー (Henry Morton Stanley) による、 一連の 「探検物」 だった。
  スタンレーはそもそもその登場から劇的であった。 一介の米国大衆紙の新聞記者に過ぎなかった彼は、 東アフリカにあるタンガニーカ湖畔の小さな村で、 消息を絶って久しいリビングストンを見つけ出し、 その翌年に 『余は如何にしてリビングストンを発見せし也』 (How I found Livingstone, 1872) という、 いかにも興味をそそるようなタイトルで手記を発表、 世間の注目を集めた。 新聞社が後ろ盾となり、 マスコミを味方につけての、 一大パフォーマンスだった。 スタンレー自身の出自や自己韜晦の強いパーソナリティも、 一層人気を煽る結果となった。
  スコットランドで私生児として生まれた彼は、 幼くして母親に捨てられ、 孤児院で育つが、 そこでの厳しい生活に耐えられず、 脱走を試み、 アメリカに渡る。 ヘンリー・ホープ・スタンレー(Henry Hope Stanley) という名の男性に引き取られ、 アメリカ国籍を取得する。 リビングストンに会ったときも、 彼はアメリカ人新聞記者を名乗った。 そして、 彼の人気を、 後年にわたってまで不動のものにしたのが、 邂逅の瞬間に彼が放った 「リビングストン博士でいらっしゃいましょうね?」 という、 最もその場にふさわしくない台詞だった。 この陳腐な挨拶はジョークとしてたちまち流行語となり、 100年以上経った今でも廃れていないことは、 周知の通りである。
  一躍世界の寵児となったスタンレーは、 その後も探検を続け、 手記を出版し続けた。 それらの探検記に、 『暗黒大陸を横断して』 (Through the Dark Continent,1878)、 『最暗黒アフリカにて』 (In Darkest Africa, 1890) というタイトルが冠された。 誇張された、 センセーショナルな内容とともに、 暗黒大陸=アフリカというイメージが流布され、 いつのまにか定着していった。
  もちろん、 ここでも、 時代のイデオロギーが大きく関与していることは、 言うまでもない。 布教と探検の後に続いた列強による帝国主義的進出、 領地の略奪に、 アフリカイコール暗黒というイメージは願ってもないものだった。 彼らアフリカ人を野蛮な状態から救い出し、 文明の光にあてるというのが、 欧米人の言説、 大義名分となった。
  繰り返すが、 欧米人によるアフリカ内陸部への踏査が本格的に開始されたのは、 19世紀に入ってからのことになる。 気候や風土病といった障害もあったが、 主として仲介者を介在させる奴隷売買の形態から、 海岸部や主要河川の下流流域に関する情報は豊富だったものの、 内陸となると、 彼らの地理知識は、 ほとんど白紙の状態に近かった。 けれども、 それは、 当のアフリカの人々や、 歴史的にもアフリカと密接な関係を持ったアラブ人を除く人々にとってそうであったに過ぎなかった。 ザンベジ川の下流にある大瀑布は轟く水煙を意味するモシオ・アチュンヤ、 大陸のほぼ中央にある海のような巨大な湖はウケレウェ湖として、 昔からその地方の住民には親しまれていた。 いまさら断わるまでもなく、 それらは、 それぞれリビングストンとジョン・ハニング・スピーク (John Hanning Speke)が 「発見」 して命名した、 ヴィクトリア瀑布とヴィクトリア湖のことである。

3. もうひとつの 「暗黒大陸」
  今から約100年前の1896年、 東アフリカインド洋上に浮かぶ小島、 ザンジバル島の一青年が、 二人のドイツ人研究者に同行してヨーロッパ経由でロシアを訪れ、 その旅の印象をスワヒリ語で書き残した。
  サリム・ビン・アバカリ(Salim bin Abakari)の記録、 『ロシアとシベリアへの私の旅行』 (Sa-fari Yangu ya Bara Urusi na ya Siberia) には彼らの旅行の目的などは一切詳らかにされていない。 彼の主人であるヴィスマン (HermannWissmann) とビュミラー (Lambert Bu・・miller)の名前さえイニシャルで記されているにとどまるが、 彼らがそれ以前に二度ばかりアフリカの踏査旅行に出かけていることから、 何らかの調査の旅であったものと思われる。 ちなみに、 ヴィスマンは独領東アフリカの総督を務めた人物である。
  さて、 彼らはベルリンからケーニヒスベルク (カリニングラード) に入り、 ペテルブルグからモスクワへ向かい、 それからシベリアを目指した。 サマラ、 オムスク、 ビスコウ、 さらにそこから南下してアルタイ山脈に入り、 中ソ国境をつたって西南に向かい、 タシケント、 サマルカンドを経てカスピ海に出、 さらに海を渡ってバクーからコーカサス地方を抜けてモスクワに戻り、 再びドイツへと向かった。 その頃盛んに行われていたヨーロッパ人によるアフリカ大陸探検ならぬ、 アフリカ人によるユーラシア大陸探検ということになろうか。 そして、 彼の記録がなんといっても面白いのである。
  イスラム教徒のアバカリは、 ロシアにもイスラム教徒がいることを知って驚く。 そして、 ペテルブルグで豚肉を食べ酒を飲むイスラム教徒に出会ってさらに驚く。 またロシア人は立ち振る舞いが粗野で、 他のヨーロッパ人よりも大分遅れた生活をしているとの感想を持つ。 というのも、 他のヨーロッパ諸国に比べてロシアの識字率が低かったからである。 その識字率の低さをアバカリはロシア人の怠惰な性格に帰し、 ロシア人のことを、 「まるで未開人のようだ」 と嘆息する。 超法規的な絶対君主制のもとにあったことや、 フランスと比べて汽車が汚いこと、 賄賂や盗難の横行も、 彼にロシアの後進性を印象付けた。 モスクワでは馭者に法外な料金を取られ、 心証は一層悪いものになっていく。
  それまでに訪れたペテルブルグやモスクワなど、 外国人が珍しくない大都市とは違って、 シベリアでは何処へ行っても彼の出現は騒動の的となった。 老若男女、 彼の黒い皮膚に仰天し、 悪魔が人間に取りついたとばかり逃げ出した。 オムスクから少し離れたオビ川沿いの町では、 貧困から住民は執拗に金をせびり、 教会にまで押しかけた。 また、 アバカリは生まれて初めてホテルで大量の南京虫に悩まされ、 眠れぬ夜を経験した。 初めて入ったサウナではその暑さに辟易し、 狭い暖房の効きすぎた家で家族が動物と一緒に寝ることに唖然とする。 中国との国境付近では彼はモンゴル系の遊牧民の暮らしを、 マサイ族のそれになぞらえる。 だが、 一生水を使わず、 虱だらけの彼らの悪臭にほとほと閉口する。
  今でいう異文化体験に満ち満ちた手記を、 アバカリは次のように結んでいる:全旅行を通じて、 喜びも苦難も、 私が経験したものは多種多様であった。 しかし、 私はそういったものには耐えてきた。 終わりにはそういったものの意味がわかったからである。 私は世の中について多くを学び、 自分の国では見たこともない物を沢山見たのだった。
  二人のドイツ人がなぜロシア旅行にわざわざアバカリを帯同させたのかは不明である。 だが、 ヨーロッパでアフリカが 「暗黒大陸」 の謗りを受けていた頃、 どういう経緯にせよ、 一人の東アフリカ人がヨーロッパ経由でロシアに入り、 人々の暮らし振りを観察した記録を残した。 彼は、 ロシアは遅れている、 未開人のようだと、 ヨーロッパ人がアフリカについて語ったことと全く同じ感想を持つ。 もちろんロシアの遅れは主として、 ヨーロッパ、 すなわちドイツ、 フランスとの比較においてであるが、 識字率に関しても、 アバカリが驚いているところを見ると、 ザンジバルのほうが高かったのかも知れない。 アバカリは彼の母語であるスワヒリ語に加え、 アラビア語、 ドイツ語まで解した。 スエズ運河の開通により、 ザンジバルからヨーロッパへは4週間で行ける距離となったこともあって、 港は活況を呈していた。 というより19世紀東アフリカ海岸一円で、 ザンジバルは最も栄えた商業都市であった。 さらに、 この島はスタンレーに、 「自然が作り上げた最も美しい宝石の一つ」 で、 「これまで私が見た島の中で、 人間の心を慰めるのに最適な場所」 と言わしめるほど、 風光明媚な所だった。 街は石造りで整然とした佇まいをみせ、 一般市民も姑息な手段で金を騙し取られる様な生活とはほど遠かったに違いない。 人々のマナーの悪さといい、 アバカリにとっては、 ロシアこそ<暗黒>であったわけである。

4. 結びにかえて─地平の拡大
  ロシアでアバカリは 「食人鬼」 扱いはされなかったものの、 黒い肌ゆえ 「サンタが天から下ってきた」 と思われ、 「老人たちも子供たちも私を見るとみな逃げてしまった」 と書いた。 実に興味深いことだが、 リビングストンもアフリカで同じような体験に遭い、 同様の記録を書き残している。 つまり、 彼の場合は白い肌ゆえ、 人々が恐怖のあまり逃げ回ったのである。 リビングストンは言う:アフリカでは何処でもそうだが、 この地域でも、 白人は食人鬼か悪魔のようにみなされている。 どの村でも、 女たちは戸口の隙間から私の様子を窺い、 私が近づくと小屋の中に隠れてしまう。 私に出会うと子供たちは身を硬くし、 神経の発作を起こすのではないかと心配になるほど恐怖の叫び声を上げる。 人々が私を恐れるのは、 まだわかる。 しかし、 私を見て、 犬までが尻尾を後脚の間に隠し、 猛獣に出会った時のように逃げ出すのはどういうことだろう?
  リビングストンは、 黒人にとって白人の外見は、 恐ろしく思われるに違いないと忖度する。 洋服を着た彼は、 アフリカ人の子供らには 「袋のようなもの」 を身にまとっているように映り、 彼らの恐怖心を掻きたてる。 一目散に逃げ出す子供たちの声を聞きつけて、 今度は母親が外に出てくるものの、 その母親たちも白人を見ると、 慌てて家に姿を隠してしまう。 犬は後脚の間に尻尾を挟んで逃げ出し、 鶏は雛を見捨てて鶏小屋の屋根に登って鳴き騒ぎ、 静かだった村がたちまち大混乱に陥る。 その騒ぎは、 リビングストンの連れていたザンベジ川流域出身の黒人の人夫が、 笑いながら白人は黒人を食べないと保証してはじめて終息するのだった。
  情景が目に浮かぶような、 微にいり細にいるリビングストンの描写から、 はじめて見る白人がいかに黒人に恐怖を与えたかが十二分に伝わってくる。 人間だけではなく、 家畜までにも驚きは伝染するものらしい。 なにやらユーモラスでさえあるリビングストンの文章であるが、 子供が着衣の白人に初めて出会った時の衝撃の大きさを、 リビングストンは、 イギリスの子供が、 ロンドンの街で、 博物館から抜け出してきたミイラに出くわした時にたとえる。
  19世紀、 黒人がロシアで悪魔に、 白人がアフリカで食人鬼に間違われたが、 ほぼ同じ頃、 日本人もまたアフリカで人食い人種と恐れられたことがある。
  ワシントンで通商航海条約の批准書を交換するため米国に向かった万延元年の遣米使節一行は、 条約締結後、 ヨーロッパを視察し、 帰路アフリカのアンゴラに燃料補給のため立ち寄った。 アンゴラの港に上陸した使節らは、 住民の肌の色の黒さに驚き、 唇の紅さに驚いた。 また、 住民たちが日本人を見るや逃げ出し、 泣き出す者までいることに憮然とする。 米国の水兵が、 「日本人はアフリカ人を食べる」 と吹聴した結果だった。 使節らの記録を読むと、 日本人のアフリカに対する印象の悪さが際立つ。 数年前まで鎖国により海外情報が遮断されていた当時の日本人に、 文化の相違を優劣ではなく、 単なる相違として受け止めることを期待するのは酷というものだろう。 悪印象の最大の原因は、 使節らが訪れた1860年、 アンゴラでは、 依然として奴隷貿易が行われており、 彼らも奴隷の使役や、 首枷を施されたまま行進する奴隷の姿を目撃したことによろう。 また、 袴をたくし上げて用を足す侍の様子に驚いて、 脱兎のごとく走り去る黒人の行為を、 使節らは愚かだと決め付けた。 所かまわず袴をたくし上げ、 用を足そうとする方が無作法だとは、 当時の日本人には思いもよらなかった。
  これらのエピソードが我々に伝えることは、 恐怖することは恐怖されることでもあるという、 相互的な関係性だろう。 エドワード・サイードは 「われわれ」 と 「彼ら」 を区別するものの間には常になんらかの外国人恐怖が介在すると述べるが、 情報量の極端に乏しかった時代における異人種間の邂逅には、 かつて、 ヨーロッパ人がアフリカ人を、 アフリカ人がヨーロッパ人や日本人をその異質さゆえに<食人種>と恐れたように、 極度の恐怖心から、 その異質な人々を<食人種>とみなすことで接触を避けて身を守るというメカニズムが働くものだとも言える。
  異質なものを異質なものとして受容することは、 ボーダレスが叫ばれて久しい現代にあっても難しい。 それにしても思い出されるのは、 19世紀末にロシアを旅行したザンジバル青年サリム・ビン・アバカリの記録である。 汽車と馬車を乗り継いでロシアをほぼ一周した彼は、 一国の中に人種、 宗教、 風俗・生活習慣の違いがあることを知る。 驚きに満ち、 苦痛の多い訪問であったにもかかわらず、 彼は様々な苦難に耐えた結果、 多種多様であることの意味がわかったという。 このような瞠目すべき手記が、 今までほとんど取り上げられなかったことの方が不思議な気がするが、 こういった市井の人々の貴重な記録を時代が埋もれさせていたとも言えなくはない。
  過去の記録を読み解いていくことで、 それまで不可視(インヴィジブル)なものが可視(ヴィジブル)になることがある。 16世紀、 白人は西アフリカの人を見て笑ったが、 実は彼らもまた白人を見て笑っていたという事実を今一度我々は噛み締める必要があるだろう。 これまであまり顧みられることのなかった記録を渉猟する作業を続けていくと、 思いのほか私たちの視界の先にも新たな地平が立ち現れてくるのかも知れない。


■藤田 みどり (ふじた・みどり)
  東京生まれ。 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、 学術博士。 専門は比較文学・比較文化、 アフリカ研究。 著書に 『内なる壁』 (TBSブリタニカ)、 『東西の思想闘争』 (中央公論社) (以上共著)、 訳書にJ.リリーベルド著 『おまえの影を消せ』 (朝日新聞社、 共訳)、 J.ティモア著 『ライオンキング』 (日之出出版) などがある。 「日本史における 『黒坊』 の登場   アフリカ往来事始め」、 「江戸時代における日本人のアフリカ観」 など、 日本アフリカ交渉史、 ならびに日本人のアフリカ認識をめぐる論文多数。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

今号のトップ メインメニュー