10 エンターテインメント・スポーツ・レジャー

60年代消費社会のカリスマ・石津謙介に見る時代適応のかたち


佐山一郎
(ノンフィクション作家、編集者)


  不思議な人気に包まれている数え年88歳の元会社会長がいる。 会社は21年前に倒産しているのに、 当時の社員はみずからをOB&OGと名乗り、 昨秋、 立派な米寿の会を老人のために催した。
「ボクにはもう長生き欲はないんです。 無理することもないし、 不足など何もない。 死んだら死んだで、 みなさんありがとうという感謝の気持ちだけ。 夫婦で目はアイバンクに、 カラダも慶応病院に献体登録してあります。 米寿の感想は、 とくに嬉しくもなければ、 年とったから偉いというわけでもないということ。 それが祝っていただくときのいちばん大事な心構えだと思います」
  こうした安心立命の境地は、 人生密度の高さに比例するのかもしれない。“老青年”のスピーチに共感し拍手を送った元社員のかなりの数がいわゆる団塊世代だった。
  石津謙介という男性ファッション界の師父がもし登場しなかったら    と考えてみるのは面白い。 石津が興し、 60年代にIVYファッションで一世を風靡したヴァンヂャケットが存在しなければ、 団塊世代以下、 30代にかけてのドブネズミルック率が今以上に高まった可能性は高い。
   「衣」 の時代は、 敗戦直後の 「食」 の時代の次に訪れた。 1950年代には戦争前の生活水準の最高レベルにまで回復し、 大衆は日常的な娯楽を求めるようになる。 レジャーのフロントランナーは、 もはや勤労者ではなく、 新有閑層たる大学生にとって変わりつつあった。 60年代のVAN=IVYルック隆盛は、 アメリカ東部の名門8大学で構成される、 IVYリーグ校の学生の装いが当時の若者に熱烈に支持されたからである。
  60年代の風俗は、 昭和初期のモボ・モガ全盛に象徴される大正デモクラシーの時期とオーバーラップする。 それもその筈で、 明治44(1911)年生まれの石津謙介の青春は、 昭和6(1931)年の満州事変勃発直前まで続いた都市文化のスタイル=モダニズムと共にあった。 モダニズムとは過去のしがらみと決別する構えで、 食文化でいえば、 西欧料理が日本人の舌に合うように 「洋食」 としてアレンジされ市民権を得ていく時期でもある。 「住」 の領域においては、 文化住宅に代表される生活の西洋化も始まっている。 俸給生活者 (サラリーマン) の誕生は大正半ば頃のことだった。
「小学校は岡山市立清輝小学校。 着流しに草履、 学帽スタイルがほとんどのなか、 袴をはいて登校したのはボクを含めて3人だけだった。 ところが2年後には岡山師範付属小の制服にあこがれて転校するんですよ。 今度はわざわざ有名店で学生服を誂えて靴はエナメル。 雪が降れば、 グレーのスパッツというキザないでたちで通った。 からだは大きくなかったけれど、 スポーツが大好きで、 卒業まで級長を通しました。 ローラースケート、 自転車、 オートバイ、 それに叔父の経営する私鉄会社の車庫で電車遊びをして、 実際に運転して遊んだこともあった」
  着道楽は岡山一中に入って本格化する。
「制服改良もやりました。 ヒップポケットにスクエアフラップを付けて閉じたり、 ズボンにアジャストベルトをつけたり。 脚を長く見せるために上着の丈を短めにして、 ワイシャツも誂えで作った」
  野球部のマネージャー、 水泳選手、 県内に3人しかいなかったスキー選手としても石津は活躍する。
「旧制中学を卒業する昭和4(1929)年に、 自由に書いていいと修身の先生が言うから、 マルクス主義に過剰な反応を示すのはみっともないというようなことを書いて0点になった。 志望校でも担任ともめたので、 東京にいた兄の石津良介 (のちに写真家) を頼って上京したんです。 明治大学専門部商科 (3年制) に入ってからの最初の一年は、 夜の闇にまぎれて宣伝ビラを貼ったり、 地下活動のシンパと付き合ったこともあります。 兄貴はその頃、 慶応を中退して蒲田の松竹撮影所でシナリオを書くようになっていた。 彼と付き合っていたのが女優の岡田嘉子とソ連に逃げた杉本良吉だったんですよ。 その辺から兄貴はだいぶ感化されいったようです。 亡くなったときも共産党から花環が来ていたし、 ボクたちの中学当時はたしかにマルキストでなければ青年に非ずの気分だった」
  大学卒業までの軌跡は、 レジャー/スポーツのオンパレードである。 手織りのスコッチ・ツイードの三つ揃いスーツを仕立て、 モダン雑誌 『新青年』 を耽読。 お洒落の手本は大卒映画スター、 中野英治だった。 大学1年の終り頃には、 4人のバイク好きと1時間1円50銭の貸しオートバイを頼りにオートバイ部を設立。 750ccのインディアンスカウトにまたがり芸者を乗せて伊豆、 日光などに遠出をしたという。 オートバイ部は自動車部に発展し、 中古幌付きフォードで円タクのアルバイトをして20日間日本一周の旅に出たこともあった。 この上更に石津は赤坂フロリダなどの超高級ダンスホール通いに、 乗馬、 モーターボート、 グライダーにも挑戦する。 大学に日本初の航空部を創立し、 グライダー教官の資格を得ていたことで戦地に駆り出されずに済む幸運を呼び込んでもいる。
  さすがにそこまで遊べば、 実家の老舗和紙問屋が放っておかない。 石津は送金をストップされ、 岡山に帰り渋々家業を継ぐことになる。 交際をつづけていた同郷のモダンガール、 笠井昌子と結婚し、 第一幕 「カリスマの青春」 はひっそりと幕を閉じた。
  レジャー/スポーツと括れば収まりがいいが、 現在と違って、 遊びを貫徹するにはかなりの経済的基盤と覚悟がいったはずである。 「道楽者」 と蔑まれるのならまだしも、 そのすぐ先は 「極道」 である。 とりわけ 「着道楽」 に対しては、 身体をすべての拠点とする第2の皮膚でありながらも、 いまだ羨望と侮蔑の二律背反の感情がつきまといがちである。
  衣を心のどこかで低くとり扱いがちな傾向は、 デザイン界においても長く顕著に見られた態度で、 1960年に日本で開催された世界デザイン会議 (テーマ: 「今世紀の全体像は人類の未来社会に何を寄与し得るか」) では、 ファッションデザイナーはあからさまに排除された。 64年の東京オリンピックで石津は森英恵同様、 デザイナーとしての参加をうながされるが、 二人に与えられた仕事はいずれも 「作業員ユニフォーム」 のデザインだった。 しかし、 それをネガティブにとらえるのではなく、 石津はデザインの覇権を握る建築家の手法を男性服の世界にすすんで持ち込み、 服装を造型の一部門に押し上げた。
  第2幕は、 昭和14 (1939) 年の紙統制によって4代目の石津がやむなく家業をたたむところから始まる。 両親を岡山に残して、 石津一家は中国天津に渡り、 兄の友人、 大川正雄の経営する大川洋行に入社する。 繊維雑貨販売を営む大川洋行は天津租界で栄えに栄え、 昭和18年には年商360万円を突破、 売り上げ高の日本記録を作った。 ところが今度は、 30歳代前半の初めての大きな成功を味わう間もなく時局をかんがみての会社売却という事態に見舞われる。 会社のナンバー3だった石津はトップと相談してあっけらかんと鐘紡に売ることを実行してしまった。
「租界にいる日本人は滅茶苦茶な買い物をするんです。 ボクがデザインしたスコッチテリアのマークが入ったネクタイがプレゼントにいいということで、 1500本が飛ぶように売れました。 当時はいい家こそなかったものの、 カネの遣いっぷりやブランド志向にグルメブームといい、 実によく今の日本と重なっている。 ヨーロッパ人のデザイナーを雇ったり、 租界の外国人と付き合う中で、 日本はこの戦争に負けるというのがいよいよ現実感をもって迫ってきた。 実際、 ボクも最初からあの戦争に勝てるとは思っていなかった・・」
  異文化体験は、 かつては今ほど容易ではなかった。 各国租界のあるエキゾチックな街で遊びながら学んだことは、 かけがえのない蓄積をもたらしたはずである。 遊びの中から仕事が生まれ情報が集まるという経験則と、 親・欧米観がそこで培われた。
「髪を丸めて海軍の軍属に転じてからスコットランド人家族の財産を管理する敵産管理委員を命じられたことがありました。 戦争がいよいよ末期というときに、 スライさんという老テーラーを管理する嫌な仕事をさせられたんです。 夫婦と親しくなって彼らがいよいよ収容所に送られるというときに、 一晩寝ずに語り明かした。 そのとき80歳を過ぎているスライさんは、 1900年からブレザーに付けていたというエンブレムを外して、 『マイ・メモリー』 と言ってボクに手渡してくれたんです。 収容所は特別冷えるところだから、 憲兵に逆らって、 夜、 毛布を入れたリュツックサックを背負って命懸けで彼らのところに忍び込んだ。 ボクには日本に仏教的な慈悲の精神があるとはとても思えない。 いまだに村八分みたいなことを平気でするし、 とにかく知らない人には非常に冷淡で普遍的な人間愛というものがないとしみじみ感じていた。 きっとそのことに対する無意識の抵抗だったんでしょうね」
  8月15日を石津は天津の海軍軍需工場第一工場で迎えた。
「工場にあった真珠を接収に来た中国人に牢屋に入れられてしまった。 牢屋といっても海軍武官府の文書庫で、 そこだけ鉄格子が入っていたんです。 昨日までの中国人従業員が今や牢獄の番人。 さすがに彼も申し訳なく思ったのか、 誰もいないときに天津甘栗を買って来てくれて、 それを股火鉢にして寒さをしのぎました。 人気歌手の渡辺はま子中心の日本租界のパーティがあったときは、 特別に夜12時までの仮出獄を許された。 まあ、 囚人暮らしも悪くはなかったんだけどね」
  たった60名で進駐してきた米軍が戒厳令を敷き、 同年10月、 石津は軟禁状態を解かれる。 英語と中国語が出来るということで、 今度は一転、 トラブル処理のため米軍憲兵隊に重用された。 最初の仕事は武装解除されたばかりの数千人の日本兵とアメリカ人との親睦活動。 持ち前のスポーツ・マインドが役立ち、 椅子とりゲームやアメリカンフットボールをしているうちに名門IVYリーグ出身の青年将校との出会いももたらされた。 そしてそこでの交友が、 13年後の昭和34(1959)年、 47歳時点でのIVY路線の本格開始に結実する。
  ここまでがカリスマ神話の第2幕で、 石津は不可抗力ながらも2度目の一文なし状態に追い込まれる。 引き揚げ後も暫くは売り食いの生活が続いた。

   「再生の章」 とでも言うべき第3幕の幕明きは、 昭和34(1959)年に始まる高度経済成長と機を一にする。
  大阪西心斎橋の路地奥で昭和26 (1951)年7月、 石津は有限会社ヴァンヂャケットを設立し、 芦屋族などのエリートを相手にニューモードの男性服を作り始める。 VANの3ツ文字は同名の風刺雑誌を主宰していた兄・良介の友人、 伊藤逸平から譲り受けたもので、 前衛/先駆/護送車などを意味した。
  この年の冬、 天津の米軍兵営で友人になった信欣三と石津は偶然再会する。 信は俳優座の座員となっていて、 以来、 東野英治郎、 小沢栄太郎らをはじめとする人気男優への衣装提供が始まる。 出世払いの噂はすぐに広まり、 俳優、 ジャズメン、 美術学生、 裕福な私立大生という順序でVANの評判が立ち始めた。
  昭和29(1954) 年、 『男の服飾読本』 (のちの 『メンズクラブ』) の創刊とともに石津は同誌での評論活動を開始する。 念願の東京進出は翌昭和30(1955) 年のことだった。
  IVYブームの爆発については既に多くのことが語られている。 しかし石津のファッシヨン哲学を決定づけたのは、 昭和31(1956)年夏の或る出会いからと思われる。
「自分で意気込んで 『新しいファッションを』 と考えたことはないんです。 企画だけやってデザイナーに渡すわけですから、 プロデューサーの仕事をしてきたことになります。 今でもいちばん面白いのは建築家の仕事だと思います。 考え方が参考になるんですよ。 とにかく建築家というのは用途、 スケール、 位置、 予算、 施主と色々条件が多い。 ものの分からない人たちが、 有名デザイナーが勝手にやったデザインに頼ってしまうブランドの商売とは違うんです。 建築家というのは誰に何をという目的が非常にはっきりしています。 それを参考にしてシャツ一枚作るときにも徹底的にやりました。 階層、 経済力、 年齢、 居住地まですべてを設定して結論を出すわけです。 だから古くはコンクリート打ち放しのいまの自宅を設計した東大の池邊陽さん、 VANの頃はまだ東大の学生だった宮脇檀というふうに建築家との付き合いを大事にしてきました。 とにかく池邊さんとの出会いが大きかった」
  計画性を重視する貴重な施主体験はのちの既成服づくりに活かされ、 石津の名付けた1型 (アメリカのアイビー・モデルを基本としたクラシック型)、 2型 (改良型)、 3型 (新発想型) という言葉は今もアパレル業界の一般名詞として流通している。 都会派万能着として石津が推奨し続けたブレザーも広く世に普及した。 「流行よりも普遍的ルールと身だしなみまで考慮したお洒落=TPO(時、 場所、 場合) をキーワードに実践せよ」 という自説も定着している。
  銀座みゆき通りにVANのロゴタイプの入った紙袋を持って立つ若者たちが、 マスメディアに 「みゆき族」 と命名され、 商店街の店主を悩ませたのは、 昭和39 (1964) 年の夏からである。 しかし予想外だったのは、 石津に服装教育をされた男たちがサラリーマンになった途端に 「VAN学校」 から卒業してしまうことだった。 IVYファッションは大学生から高校、 中学世代へと低年齢化の一途をたどった。 そして家業から大企業へと肥大しながらヴァンヂャケットは70年代に突入する。
  昭和54(1979)年に出版された 『VANグラフィティ』 (馬場啓一編著・くろすとしゆき協力/立風書房刊) のなかで、 元取締役大川照雄はこう語っている。
「昭和47年頃かな、 300億売って、 37億の利益を出したことがあります。 これは 『プレジデント』 誌で取り上げられました。 広告最大手の電通より上だった」
  その実態は丸紅、 三菱、 伊藤忠などの総合商社による金融・与信を基礎にして得られた数字で、 会社は以後も異常な膨張をし続ける。
「つぶれる7年前の71年頃からボクや会社への悪口が出始めて、 その段階でもう駄目だと思って社長を辞めました。 ジャーナリズムは今みたいに4千以上もの雑誌があるような時代じゃなかったからこそ、 重要だったんです。 ボクにとって本当に楽しかったのは、 創業からの10年間。 社員よりショップの人間、 店の人間よりお客さんのほうが熱心に工場からの商品到着を待っていてくれた時代です。 だから買ってもらったという意識が希薄でねえ。 こちらが売るほう、 向こうが買うほうという意識がなかったですねえ。 それで<衣>だけのビジネスをやっていてもこれからは駄目だということで、 雑貨、 インテリア、 ガーデニングと、 衣食住すべてにかかわる生活産業を才能のある連中にやらせるために分社しました。 今は<ファッション>という言葉は、 もう死語に近いんじゃないかな。 むしろ<ライフスタイル>というお洒落な所帯臭さがジャンルとして定着しつつある」
  倒産の日、 石津は号泣する商社出向の社長とは対照的にシレッとした態度で記者会見を終える。 落城寸前の成城の豪邸に自殺防止のために付けられた警察官を誘い、 「監視しているよりも、 このほうがいいだろう」 と共に酒を飲んだエピソードが残っている。 ヴァンヂャケットは旧総評系社員の一部が新社を設立しブランドを継続した。

   「復活の章」 =第4幕は意外なほど早く始まった。 78年10月に自己破産宣告が下されてから1年半もたたない昭和54(1979)年12月、 石津は中国体育運動委員会からモスクワ・オリンピックに出場する中国選手団 (300名) の衣装デザインを依頼される。 のちに中国が参加を見送ったために型紙を作るだけに終ったが、 68歳になった石津謙介が健在であることの程よいアピールにつながった。 制服は、 60年代後半の文化反乱でいったん蛇蝎視されたが、 デザインする側からすれば、 これほど社会的力量を問われるテーマもない。 「篤志を匿名的に発揮するチャンスがユニフォームのデザインで、 そこからもらうものは感謝状程度でよい」 と石津はしばしば語っている。 新幹線乗務員、 各種大博覧会、 フェリーボート、 航空会社、 警察、 NTT、 営団地下鉄に少年鑑別所と、 陸海空地下に至るまでのユニフォームを担当している。
  80年代の始まりに際して、 雑誌メディアにはレトロスペクティブな空気が漂っていた。 ウエストコースト風俗のブームや、 トラッド衣料礼賛の起点をVANに求める声が高まり、 失墜を惜しむ企画も出始めた。 当の石津は戦前の日本を捨てて天津に渡ったときや、 戦後の引き揚げ体験に次ぐ3度目の無一文を 「人生四毛作目の始まり」 と表現して、 過去にとらわれることがなかった。 コラム執筆、 対談、 講演、 コンサルティングの仕事などを淡々とこなし、 フリーランスとしての復帰ゆえに表立った批判も出なかった。
  昭和55 (1980) 年秋の段階で、 すでに 「ボクはいま、 着ることに興味がない」 と言い放っていることが注目される。 これからは 「衣食住・遊」 の時代である、 と昭和47 (1972) 年に社内プロジェクトを作って 『<遊び>の研究』 (三一書房) のような本を出させたこともあった。 無駄な予算投下と誹られるのを気にもとめず若いスタッフに任せて制作した理由は、 本物志向を忘れ肥大化し始めた組織への抵抗だった。
「当時ボクは衣食住の次に遊が入ってきたのかと思ったんだけど、 実際には衣食住のそれぞれに遊が入ってきた。 経済成長とともに衣食住で遊ぶ、 楽しむという共通の分母が出て来たんです。 遊の精神さえあれば、 何もなくなっても平気なんですよ。 それを持って行く人はいないんだから」
  昭和61(1986)年秋刊行の 『食べて極楽、 作って悦楽』 (文化出版局) 以来、 食や大人のお洒落に関する著書も次々に上梓され、 石津のどこか漠然とした従来イメージが具体化されていく。 バブル崩壊後には、 早々と<TRAD新宣言>を打ち出し、 「清貧」 ならぬ 「悠貧」 思想を説いて世の男たちの動揺を鎮めることに努めた。 <新宣言>で石津はこう表明している。
「英国では今でも着古して擦り切れた肘に、 革のパッチが施してあるツイードのジャケットを、 親から子へ、 子から孫へと受け継いでいく思想が脈々と息づいているという。 そしてそれは、 彼らのプライドの表われであり、 カッコいいのだ。 伝統とは、 まさにそういった物なのかもしれぬ。 彼らは知っている。 品質の良い、 ベーシックなものは、 流行などというものを、 いや、 時には時代さえも超越してしまうということを。 そして、 最初に少々の投資をしても、 ながい間大切に使えば、 結局は倹約になるということを…。 (中略) さあ 『今日からケチになろう』」
  地に足ついた生活を最重要視しない日本人には、 こうした父親シンボル=新しい神としての物言いが依然、 新鮮に響く。 しかし本来、 家族規範は父が子に伝えるべき事柄である。 文化刷新のカリスマ=石津の役割は、 戦後社会の父性喪失の混乱と見事にリンクしてしまう。 それは団塊世代の多くが、 父親から生活実践的な物の見方、 考え方を教示されることがなかったからである。

  ――以上、 石津謙介の4つのライフステージ (生き方における 「死と再生」) を概観してきた。 昨今、 マスメディアは、 職業上の行き詰まりによって簡単に死を選ぶ団塊世代男性の 「自死」 を 「憤死」 と持ち上げがちである。 だが、 果たしてそれでよいのだろうか。 遊びや生活スタイルそのものを芸術と同一視する思想は、 人間ならではの貴重な抵抗手段のはずである。 生きることの真の喜びを知らずに、 安定した収入と地位を自分そのものと思い込む悪癖は、 本来十分に治癒可能なのである。 しかし、 レジャー/スポーツの順機能を示すポジティブな先行事例は、 優れた先達の豊かな人生の中からしか見えてこない。


■佐山 一郎 (さやま・いちろう)
  1953年東京生まれ。 成蹊大学文学部文化学科卒業。 ノンフィクション作家。 ウエッブサイト 『東京ファション倶楽部』 編集人。 著書に 『「私立」 の仕事』 (筑摩書房, 1991年), 『闘技場の人』 (河出書房新社, 1992年), 『Jリーグよ!』 (主婦の友社, 1994年), 日本スポーツ社会学会 [編] 『変容する現代社会とスポーツ』 (共著書, 世界思想社, 1998年) ほか。 近刊予定に 『サッカー細見 1998-1999』 (晶文社)。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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