10 エンターテインメント・スポーツ・レジャー

問題提起:レジャー/スポーツの順機能側面に込められる21正規的期待


佐山一郎
(ノンフィクション作家、編集者)



  この号の発想がそうであるように、 新たな千年紀という区切りでの展望・改革気運が芽生えるのは当然の成り行きである。 2000年到来の瞬間には世界中で大量のシャンパンが抜かれるという。 在庫確保と便乗値上げというもうひとつの 「2000年問題 (Y2K)」 も起きかねない情勢なのである。
  病んだ時間意識/感覚が、 祝福の開栓音とともに正常な状態にリセットされれば有難い。 だが、 現実の生活はそれほど単純なものではないようだ。 せわしい気分は次世紀においても加速度を増し続け、 経済先進国に暮らす人びとの不安、 焦燥をより一層かきたてていくに違いない。
  クラスマガジン、 文学全集、 クラシック音楽、 サロンなどのオーソドックスな教養を志向する舞台は、 元々安定した中産階級/市民意識によってしか支えることができない。 ところが、 すでに日本のハイカルチャー状況はジリ貧で、 ワイドショー視聴や“ノミニケーション”に代表されるヤケクソ型レジャーに多くの人たちが手招きされ続けている。 切迫感をともなう日常の気分を加齢につきものの現象と割り切るのではなく、 直面する 「時間的窮乏」 の問題を21世紀初頭の最重要課題として取り扱う必要に私たちは迫られている。 「ゆとり」 を再考し構築し直すことが、 とりも直さずスポーツ/レジャーを論じるための大前提なのである。
  日常生活の時間意識を基本的に支配するものを 「少数の寡占的な、 大規模な大企業の成長率・生産率」 (『超西欧的まで』 弓立社・'87年) と述べたのは、 思想家・吉本隆明だった。 だが、 本稿の前段ではそれをいま少し自助努力の問題としてとらえ直してみたい。
  具体的な解決提案は、 政府刊行物の 『白書』 にはあまり盛り込まれていない。 その問題に踏み込んだのは私の知る限りにおいて矢野眞和/連合総研編 『ゆとりの構造 生活時間の6か国比較』 (日本労働研究機構) が最初のように思われる。 休まないのか休めないのかについての考察は、 従来もそれなりに活発にされてきた。 バカンス法の制定を難しいものにしている年間有給休暇の未消化、 世界的にも稀な 「精勤手当」 の存在、 義務ではなく権利と考える宗教的な共通認識の違いから来る休日観の違い   というふうに理屈では分かっていても、 限られた資源としての時間の使い方=時間態度の問題は、 すっぽりと抜け落ちていたのである。
   『ゆとりの構造』 は、 労働時間が短縮されても時間のゆとりが一向に見えてこない逆説的状況を鋭く指摘し、 その真因を探る。 レジャー活動の時間は伸びていても、 自由時間の多くがテレビ視聴に消費され、 知人との交際、 家族との会話、 スポーツ・地域ボランティアなどの社会参加活動が相対的に少ないことなどに着目し、 平日の労働時間と自由時間の使い方の見直しを提唱している。
  各国比較をしたときに、 日本の男性の家事への参加時間がきわめて少ないことは幾度か指摘されてきたことである。 既婚女性はシャドーワークにより常に多忙で、 男女の役割分担の不均衡が出生率低下を招いていると語る論者も少なくない。
   『ゆとりの構造』 の非凡なところは、 日本のサラリーマンの生活リズムにやすらぎを与えるために、 平日の仕事時間をアメリカ、 ドイツ流の早出・早終い型に切り替えるべきと提言している点だ。 平日にしない家事や家族サービスを休日に密度高く取り戻そうとすることで、 休みならではのやすらぎを感じられない悪循環が生じていることが各国比較で明らかになった。 平日の仕事オンリーをなんとか良いバランスに持っていくために 「毎日1時間程度早く出勤し、 その分で週の水曜日を半ドンにする」 という労使間の妥協案までもが大胆に提出され、 目からウロコが落ちる。
  中心的生活関心が、 中高年齢層になればなるほど、 「家庭生活」 から 「仕事」 にシフトしていく世代ギャップは日本独特の特徴で、 驚異的な経済成長を“至高体験”したことによる後遺症と考えるべきなのだろう。 また、 いわゆる50代前半の団塊世代 (1945〜1949年生まれ、 現在54〜49歳) =全共闘世代に会社本位主義的な考え方が希薄なこともしばしば指摘される。 「社会性余暇の担い手は、 圧倒的に 『交流・ネットワーク重視型』 グループであることがわかった。 そのフロントランナーは、 やはり50代男性である」 (『レジャー白書'99 広がる 「社会性余暇」』) と、 過剰な期待やおだてもつい込められがちだ。 ところが企業戦士でもある団塊特有の団体的メンタリティーを嫌う人たちは世代の上・下に根強く存在する。 あまりに数が多く、 なおかつ新しいもの好きであるがために、 いつの時代においても流行の担い手であったと特徴づけて言うことも出来るが、 いずれも一面的評価でしかない。
   「個人を尊重する本当のゆとり、 生活大国の豊かさとは何か」 という前川レポート ('86年) 以来の問いかけは、 狭隘な世代論とは無縁の難題である。 勤務状態がダラダラ野球さながらに非能率的で、 労働時間に作業密度を掛け合わせた 「単位仕事量」 という点で、 自由時間の先進国に遅れをとっていることも否定できない。 スポーツ/レジャーの将来図をグランドデザインするにあたって、 私たちはまずその土台にあたる足元の現実から強く認識し直すべきなのである。 生活慣習と家族規範を変えることはそれ相応の覚悟のいる一大改革事業である。 「ゆとり」 の大前提たる 「時間創出」 を実践的課題としてすえた場合に襲いかかってくるのは、 「睡魔」 という拍子抜けするほど意外な現実なのかもしれない。


  レジャーの定義は難しい。 「余暇 (余った暇)」 という訳語を疑問視する声もしばしば聞かれる。 余暇論の古典といわれるヨゼフ・ピーパー 『余暇と祝祭』 (講談社学術文庫) によれば、 労働の合間の自由時間や暇でもなければ、 単なる無為や怠惰とも違う、 純粋な悦びにみちた活動のことを意味するようだ。 これに対してかつての日本では、 無為を楽しむ 「物臭太郎」 的過ごし方を全肯定する有識者の発言が目についた。 疲労回復や休息的側面の過大評価はアジア的諦感に裏打ちされているのだろうが、 そんなマイペース・マイウェイ型では専業主婦はたまらないし、 「父 (=自然の理と人倫の基本を掟として認識させる役割) の不在」 がもたらす子どもへの悪影響も予想される。
  レジャーの逆機能がもたらす危険性を指摘する声は昨今さすがに減リ、 むしろ4番目の権力としてのマスメディアに批判集中する傾向が強い。 他方、 順機能面を起爆剤に、 社会変革に連動する普遍的価値を生む方向は、 スポーツ、 それもJリーグの百年構想に顕著である。 事挙げされた構想は、 およそ以下のようなことである。 「Jリーグは、“地域に根差したスポーツクラブ”ができることによって、 人々が共にスポーツに親しみ、 世代を超えた交流を広げ、 豊かな人生を過ごしていけるものと考えている。 「Jリーグ百年構想」 はスポーツを核とした地域交流の場づくりであり、 またこの理念をより多くの人と実現していこうという活動そのものでもある。 Jリーグはこれからもこの理念を多くの人と共有しながら、 全国各地に誰もが気軽に行けるスポーツクラブをつくっていく」

  学校/企業からのスポーツの独立という欧州モデルに対するキャッチアップ作戦の現時点での理想形は、 鹿嶋市の鹿島アントラーズである。 一市3町自治体の出資と同時に住友金属グループ、 三菱系企業など45団体が株主に名を連ね壮観である。 他競技との合流も検討されているが、 現実に女子バレーの日立が同じ会社の運営による柏レイソルと一緒に同じユニフォームを着て同じサポーターで応援するような状況にまでは至っていない。
  だが21世紀中に、 日本のスポーツ界の地図が、 大同団結により一変してしまう可能性も高い。 予想される変化に対応すべく、 教育、 科学、 文化、 スポーツの4ジャンルをカバーする文部省は明治の強兵策に端を発する 「体育局」 の名を早目に 「スポーツ局」 に改名する必要がありそうだ。 世界スポーツ大臣会議に本来なら防衛庁内の職にふさわしい体育局長が出席するのは日本だけで、 お隣りの韓国でさえ、 大韓体育協会を95年から韓国スポーツ評議会に改名している。
  海外滞在型余暇や、 津端修一によって紹介されたアグリツーリズム (農村休暇) の模索も80年代から90年代にかけて試みられた。 第一子、 第二子他出 (=結婚して家を出て行く) のライフステージにさしかかる団塊世代のレジャー行動への意欲が内外のレジャー環境の変化のなかでどんな反応を見せるかにも興味が募るが、 定年退職後の大正二ケタや昭和一ケタ生まれに特徴的だった 「毎日が日曜日」 的虚脱感に襲われることはないだろう。
  ただ、 急激な高齢化社会を初めて体験する21世紀の日々は、 団塊世代内の人間のタイプをくっきりと色分けてしまうはずだ。 完全引退し、 純消費者として生きることの出来る人もいれば、 一切自助努力などせずに矢鱈と不満の多い身勝手な人、 或いはまた競争になじめないまま寡黙に社会保障制度にぶら下がりながら暮らす人、 若い世代の年金負担を重くしないためにできるだけ長く働こうとする人、 「ゆとり」 は現金収入とはイコールではないとボランティアや自給自助などの無償経済の分野を切り拓く人と多様まだら化の予感がしてならない。 いずれにせよ、 レジャー/スポーツに、 高齢化社会の残酷な鏡面の役割を負わせるのではなく、 不安を希望に変える青写真として機能させること。 それがすべての基本なのだと思う。


■佐山 一郎 (さやま・いちろう)
  1953年東京生まれ。 成蹊大学文学部文化学科卒業。 ノンフィクション作家。 ウエッブサイト 『東京ファション倶楽部』 編集人。 著書に 『「私立」 の仕事』 (筑摩書房, 1991年), 『闘技場の人』 (河出書房新社, 1992年), 『Jリーグよ!』 (主婦の友社, 1994年), 日本スポーツ社会学会 [編] 『変容する現代社会とスポーツ』 (共著書, 世界思想社, 1998年)ほか。 近刊予定に 『サッカー細見 1998−1999』 (晶文社)。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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