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Jリーグ百年構想と「地域スポーツ」


伊東武彦
(週刊『サッカー・マガジン』編集長)


  日本サッカーを初めてワールドカップに導いた岡田武史 (現コンサドーレ札幌=J2リーグ=監督) が顔に似合わない 「信念」 の持ち主であることはあまり知られていない。 サッカー界きってのエコロジストは、 ワールドカップ予選という丁々発止のたたかいの最中にも夢を語り続けた。
<西ドイツでは、 休日に何をして過ごすか。 家族で街のクラブに出掛けて、 子どもはサッカーをして、 親はほかのスポーツをするし、 お祖父さんはそれを見守っている。 そして、 帰りにはクラブのバーでビールを一杯飲んで家路につくわけです。 そこには消費の思想がない。 それが長い目で見れば環境保護につながっていく。 いまの日本はどうか。 遊園地にしても、 デパートにしても、 家族で休日にどこに出掛けるにしろ、 余暇の過ごし方が消費型なんです。 そうした社会を変えるための一助になれば、 というのが監督としてのぼくの支えになっている>
  これは決して冗談ではない。 1955年に大阪で生まれた優等生 (天王寺高から早大政治経済学部) が、 日本代表まで経験した選手を引退の後、 西ドイツに 「コーチ留学」 した経験をふまえて語った大真面目な信念なのだ。
  岡田が戦中派の加茂周の後を襲ってワールドカップ予選をたたかい、 日本代表チームをフランスに導いたことは記憶に新しい。 本大会で1勝が期待されながら、 3試合で3敗に終わったことも、 人々の脳裏に鮮明だろう。
  岡田の<信念>に従えば、 彼がチームをフランスへと導いた時点で、 一度はサッカーを国民の間に再認識させる意義は果たされた。 世界大会ではやや臆病な一面をのぞかせた岡田のチームのフランスでのたたかいは、 本人のいう通りに付け足しだった。
  岡田の頭にあった図式<日本代表ワールドカップ出場→Jリーグの隆盛→新しい地域スポーツの誕生→脱消費型社会への光明→地球環境保護の結実>は、 最後の2つを除き、 Jリーグの理想論に符号する。 「大の大人がそこまでいうか」 的な理想主義の甘さから免れないものの、 1993年に発足した正式名称日本プロサッカーリーグが当初持っていた空気を、 岡田の言葉は共有している。
  さらに岡田のたたかいが夢途上にて敗れたそのプロセスにも、 一世紀という壮大な<構想>を打ち立てたJリーグと地域社会の落差が隠されていた。

  Jリーグの<百年構想>が打ち立てられたのはリーグ発足3年後の1996年の2月である。 <スポーツで、 もっと、 幸せな国へ>というヘッドコピーは、 岡田の口ぐせに広告代理店的な味付けを加えた 「傑作」 である。 当初のキャンペーンは、 <あなたの町にも、 Jリーグはある>という文句による、 ホームタウン制の再宣言の趣を持っていた。
<なぜJリーグは、 サッカーの頭文字をとったSリーグではないのでしょうか。 その理由は、 私たちがJリーグ設立時に立てた理念 「ホームタウンづくり」 にあります。 クラブチームは、 地元の誰もが自由にスポーツを楽しめる場を提供しなくてはならない。 地域に住む子どもた若者が参加できるチームを持たなくてはならない。 (中略) プロ・サッカー・リーグ。 それだけがJリーグではありません。 様々なスポーツを通して地域が活気にあふれ、 豊かな人間性が形勢されるチャンスになること。 そんな社会をあなたの町に、 そして 「日本」 というフィールドいっぱいに作り上げていくこと。 それがJリーグ。>
  これも、 冗談ではない。 もっとも、 こうした大風呂敷がジョークにしか聞こえない冷めた時代には、 せっかくの構想も一笑にふされかねない。 大阪を東部から日本の 「どこにでもある架空都市」 としてとらえた写真をモチーフにしたポスターも、 楽天的なうさんくささに落ち込む寸前のぎりぎりの線である。
  実際、 リーグが抱える諸問題が表面化すればするほど、 百年という長大な月日が、 格好の隠れ蓑になるところに、 この言葉のやっかいさがありそうだ。 98年10月に起きた 「横浜合併事件」 でさえもが、 「100年間の小さなエピソード」 としてマクロの視野から片づけられかねない。 実際 「100年」 という言葉は、 <シジフォスの神話>的日常の意義を壮大な月日の持つ神話的な響きが包括してしまう。 そうした魔力を持つ。
  瑣末な事々の積み重ねから100年が来るという当然の事実を思い起こし、 Jリーグのいまを見るときに、 私たちは<百年構想>の4文字が、 一日の積み重ねを大仕掛けで引っ繰り返す道具であることを、 まず認識しておかなくてはならない。 「100年」 の言葉が引っ繰り返しかねないのは、 本来的なスポーツの持つ娯楽と耐久の二面性である。
  少しでもスポーツを経験したことのある人なら理解できる通りに、 それは自己実現へのアプローチである一方で、 自己と他者を癒すメソッドである。 そこには、 常に自己と向き合う真摯な姿勢と、 自己あるいは他者との関わりに向き合い、 辛抱強く調整する耐久性と無関係ではいられない。
  プロスポーツもまたしかりで、 彼らに求められるのは常に勝利に向き合い、 不断の努力を必然とするストイックな姿勢である。 そこには<百年>という長大な発想は必要ないはずなのだ。
  岡田の日本代表チームがフランスで屈するまでの敗戦へのプロセスにもくっきりと見えた日常的な耐久性のなさ、 いまやすっかりスポーツ用語と化した<モチベーション>主義への無邪気な信頼こそが、 100年よりもっと身近な単位での具体的な目標設定を妨げているのではないか。 宣言者がすでに鬼籍に入っている100年後への責任――で悪ければ良心――はどこで清算されるのか。 それは漠然としたイメージへのかすんだ道のりを示すだけである。
  Jリーグが100年後に向けて理念の発信をした裏には、 脱企業スポーツの色をさらに強力に打ち出さなくてならない事情がある。 発足年には社会現象になったJリーグも、 2年目をピークに観客減となり、 遅れてきたバブルを享受する季節も終わりつつあった。 そうしたなかで、 「ホームタウン制度」 を改めて強調することが、 リーグのアイデンティティーを確認するために必要となった。
  Jリーグはそもそもから地域社会への貢献をうたっていたわけではない。 母体の日本リーグの 「プロ化」 を図ることで日本サッカーの競技力をアップすることが、 当初の主眼だった。 リーグ発足が検討された当初から開幕までの数年間は、 プロ野球に食傷気味だった企業→広告代理店→大衆のベクトルが新しいスポーツに向けられるプロセスである。
  92年当時には 「ホームタウン」 という言葉は存在せず、 企業の営業権を意味する 「フランチャイズ」 が堂々とガイドブックに使われていた。 現在のジェフ市原=JR東日本古河が東北全体を 「準フランチャイズ地域」 として抱え込むなど、 いまとなっては笑える逸話も残されている。
  91年当時にプロリーグ検討委員長だった川淵三郎チェアマンは、 90年の 「サッカー・マガジン」 のインタビューに答えて、 プロリーグ設立の狙いを 「日本サッカーのレベルアップです。 それしかない」 ときっぱりと答えている。 スポーツの発展は、 強化と普及の2本柱で語られるが、 Jリーグ発足の狙いは 「強化」 にしぼられており、 当初は地域社会への要素は二の次だった。 幹部が 「地域社会との結びつき」 を強調しても、 それは各地域のスタジアムを利用するための、 「気遣い」 に過ぎず、 Jリーグはいわば、 地域のゲスト的な感覚で各地に散ったわけである。
  そうした感覚とともに 「フランチャイズ」 を捨てるとともに 「ホームタウン」 を設定して、 地域スポーツのリーダーとしての自己に目覚めた上での宣言が、 <百年構想>だったといえる。 その大きな柱となるのが、 総合スポーツクラブへの発展的成長だった。 100年後のビジョンには、 サッカーをコアにし、 各種競技を 「地域の人々がグループや家族で楽しめる」 スポーツクラブが描かれてきた。 これは岡田のイメージにそのまま重なる。
  欧州ではバイエルン・ミュンヘン、 ACミランといった一流のサッカー・クラブが、 サッカーだけでなく、 バスケットボール、 ハンドボールなど他競技のチームを保有する。 南米のクラブには 「クルブ・レガッタ・フラメンゴ」 のように、 元々はボートクラブだった強豪クラブが存在する。 私たちがCS放送の画面を通して見るサッカーチームの姿は、 クラブの一部分であることが多い。
  サッカーが社会的関心のコアになりえない日本では、 総合スポーツクラブという響きは耳障りがいい。 すなわち――波平は元ハンドボールの選手で、 舟はクラブのバールの元店員、 サザエは女子サッカーチームのコーチでマスオはアマチュアのサッカーチームの元選手、 カツオはプロを目指すユースチームの選手、 そしてワカメは女子サッカーのジュニアチームの選手――といった磯野家が、 休日にはリーグ戦におそろいのマフラーを首に巻いてトップチームのサポーター席に向かうというイメージにおけるプロサッカーチームは、 クラブの一部であるとともに、 重要なシンボルである。
  磯野家の波平→サザエ→タラと続く3つの世代がクラブの地元クラブのサポート意識を共有し、 さらに近隣の住民や都市内の連帯感が、 サッカーのトップチームによって強化されていく。 そこでの総合スポーツクラブは地域のサロンの位置づけである。 100年というのはそうした世代間交流のベースを築くための目標値なのだ、 と関係者ならばいうはずだ。
  理想像をにらんだ具体的な動きもある。 <百年構想>を打ち出した96年以降、 各クラブは 「地域スポーツ振興への支援活動」 を始めた。 行政の後援と協力を得てフットサル、 バレーボール、 バスケットボールなどの他競技の大会、 講習を支援するものである。 なかでも本格的なのが、 Jリーグ王者の鹿島アントラーズが行なうミニバスケットボールのクリニックだ。
  97年10月から半年間に渡って地域の指導者育成を含めた普及を狙ってクリニックコースを開設した。 各地域のファン層の掘り起こしは観客動員冬の時代におかれる各クラブにとっては死活問題でもあるが、 サッカーの弟分ともいうべきフットサルでお茶をにごすクラブも多いなかで、 半年間という継続的なスタンスで取り組んだ鹿島の例は、 際立つ。
  一方で各クラブのトップが将来に向けて持つビジョンは漠然としている。 96年に 「サッカー・マガジン」 が各クラブの経営者を対象に行なったアンケートでは、 将来の総合スポーツクラブ構想について聞いた。
  彼らは 「親会社の経営方針との調整、 行政の支援、 協力が不可欠」 (横浜マリノス=当時) といった条件つきでの構想を明かす一方で、 「日本の総合スポーツクラブのあり方、 必要性については、 いま一度しっかりと検討する必要がある」 とする浦和レッズのような冷静な意見も散見された。 しかし共通しているのは、 経営母体からの送り出しで法人の長を務める彼らの本音が、 経営安定への焦燥感のなかで、 リーグ全体の理念にある種の圧迫感を感じつつあることである。
  岡田の下でワールドカップ出場を果たし、 20歳以下の選手で組んだユース代表が世界選手権で準優勝するなど、 日本サッカーの競技力向上は目ざましい。 2002年に日本と韓国で開くアジア初のワールドカップでは、 ベスト8進出さえ夢ではないと言われている。 Jリーグ発足前に川淵が語った 「日本サッカーのレベルアップ」 については順調であるように見えるが、 本当の目標はまだまだ先にあると、 <百年構想>はうたい上げる。
  もっともスポーツマスコミが喧伝するワールドカップベスト8に関しては、 あまり信じられそうにない。 技術の向上と経験の蓄積はスポーツ発展の重要なファクターだが、 それらがそのままチーム力に反映されるとは限らない。 スポーツが本当の意味で繁栄し、 それがコンスタントな国際競技力にリンクするために必要なのは、 まことに皮肉ながら、 耐久性のある意思と100年をかけた時間の積み重ねだろう。
  地下鉄の車内で、 車床に座り込んでしまうような、 耐久の概念とは対極にある日本の若い世代の脆弱さを見抜いたフランス人のフィリップ・トルシエは、 たくましさをテーマにして日本ユースをかつてない高みに導いた。 スパルタ教師であるかのようなメディアの合唱によってネガティブなイメージがつきまとうトルシエだが、 情報と経験に裏打ちされた揺るぎのない意思作用とメソッドへの揺るぎない確信についていえば、 かつて日本代表初のプロ監督として<マルコポーロ>になったオランダ人のハンス・オフトに通じるものがある。
  思えば私が<百年構想>に思いをはせたのは、 岡田率いるフランス・ワールドカップ代表が3敗という結果に至るプロセスである。 指揮官の多少の混乱はあったにせよ、 初のワールドカップを前にしたチーム内には、 確執や不理解や不満が充満した。 なによりも驚かされたのはチーム戦略に従う集団的耐久力の欠如である。 <個>の強さをたばねた不屈の集団を期待されるのは、 プロスポーツの宿命であるはずが、 徹底的に選りすぐられた日本代表でさえもが、 モチベーション不足に敗因を頼んでしまう――。 そうした日本人が、 たやすく鋼のような耐久性を身につけることができるとは思えない。
  そも<動機>の必要のないはずのプロスポーツには、 100年という長大な視野よりむしろ、 北国の人々が背負う雪掻きであり、 間断のない落葉をかき集めては拾うような作業に他ならない。 そこで物をいうのは、 理念ではなく日常の蓄積であるという意味においてプロスポーツの強化と地域スポーツの環境作りは同じ地平にある。
  すなわち地域社会でのスポーツ環境の確立に求められるのも、 「100年」 を語る高邁な言葉ではなく、 理念から離れた農作の感覚である。 フィールド・オブ・ドリームスではないが、 田畑をフィールドに見立てた地域のドリームスが数多くあっていい。 Jリーグが掲げる総合スポーツクラブの日本的な実態。 それはサロン的な感覚を持たない日本人にとっては、 そうした草○○的な単体の集合なのではないか。
  そして、 そこに必要なのはやはり地域企業の 「芝生」 の提供だ。 あるいは各クラブ員がそれぞれの庭で育てた苗を持ち寄って植えるための土地の供与といった発想である。 スポーツ文化の<文化>が農耕を意味するという事実以上に、 いま必要なのは文化というよりも、 環境作りだ。 それは、 地域における生活環境の充実をそのまま意味する。
  それにしても、 国道沿いにパチンコ店が林立する地方の光景を前にしたとき、 それらが総合スポーツクラブと併存する時代がくるとは思えない。 コンビニの前の地面に座り込んで週末の夜を過ごす若者たちが、 投機性の高い娯楽で耐久の感覚をそがれていく時代にスポーツに課せられたものは大きい。 だからこそモチベーションを語る前に、 日々の仕事や生活を楽しんだりする余裕を実地で説く 「町のおじさん」 的スポーツリーダーが必要なのかもしれない。
  でなければ、 カツオも、 ワカメも、 国道沿いのパチンコ店に通うようになる。 それを救うのはJリーグの<百年構想>ではなく、 端的にいえば個人個人の5年程度の生活構想だろう。 総合スポーツクラブというよりは、 企業が日常のレベルで支援する単体の<ドリームス>なのだろう。 Jリーグチームへのスポンサードではなく企業の物心両面への日常的な支援があるなら、 100年をかけなくても<ドリームス>はできるはずだ。
  モチベーションに頼らないスポーツ・スピリットを育てる良質の環境。 地に足がついた思想の下、 耐久の感覚を捨てずにそれを目指すならば、 理念を語り100年を待つ必要はないと思うのだ。


■伊東 武彦 (いとう・たけひこ)
  1961年4月29日、 東京都生まれ。 85年3月、 早稲田大学第二文学部卒。 フリーライター、 出版社勤務などを経て90年ベースボール・マガジン社入社。 1998年9月より現職 (週刊 『サッカー・マガジン』 編集長)


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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