10 エンターテインメント・スポーツ・レジャー

日本とアメリカ
――世代の意識と人生観


生井英考
(共立女子大学国際文化学部助教授)


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  20世紀もいよいよ終わろうとするいま、 「遊びと高齢化」 が社会の大きな課題になりつつある。
  なぜ、 いま、 これが課題なのか。 理由は簡単だ。 かつて20世紀の半ばごろに生まれ、 いわゆる 「若者文化」 をつくりだした巨大な人口世代が、 いま高齢化のステップを本格的に昇り始めたからだ。
  この世代は世界中で 「ベイビー・ブーム世代」 と呼ばれ、 1960年代にかつてない規模の青年層として社会に登場し、 その後も一貫して社会のあらゆる面に影響をおよぼしながら新しい時代の世相と感受性を築き上げてきた。 しかも面白いことに、 彼らは世界中でほぼ同時に同じような局面に立ち合ってきたのだ。
  たとえば60年代は 「若者革命」 と呼ばれる意識と行動の急速な転換がおこなわれた時代だが、 それが最高潮に達した1968年にはアメリカでヴェトナム反戦運動と 「ヒッピー革命」 が起こり、 フランスでも 「五月革命」 が勃発し、 日本でも学園闘争が全国的に広まっていった。 この動きは文字どおり世界的規模の同時多発性を特徴としており、 それ以後の世界史の流れを決定する明かな基盤のひとつとなった。 そしてこの渦のなかでまったく新しい意識にもとづく人生観を生み出した世代が、 いま、 それぞれの社会で同じように高齢化の途を確実に歩んでいるのである。
  ここではそのなかでも日本とアメリカの例を見てゆくことになるが、 アメリカはむろんベイビー・ブーム発祥の地にして最大の中心地、 そして日本にもこれに対応する 「団塊の世代」 がいる。 したがって、 まずはこのふたつの世代を比べることから始めてみよう。

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   「団塊の世代」 は、 1947年から49年までの3年間に生まれた人々のことを指す。 元号でいえば昭和22年から24年生まれまで。 「ジェネレーション」 というのはおよそ30年間で一巡するものとされているから、 わずか3年間だけのジェネレーションは奇妙と言えば言えなくもないのだが、 実際問題として彼らはそこだけ飛びぬけた巨大な人口ゾーンを形成し、 小中学校では平均10クラス以上、 一学年の合計は軽く500〜600名を超えるという一大集団をなして、 戦後の日本社会のあらゆる面に影響を与えてきた。 たとえばこの世代が経験したのは、 受験戦争、 学園闘争、 70年代不況、 バブル経済、 そしてリストラ時代のすべてに当事者として関わってきたのである。
  一方、 アメリカのベイビー・ブーマーズはというと、 日本の 「団塊」 とは比較にならないほど長期にわたっている。 具体的にいうと1946年生まれから64年生まれまで。 つまりアメリカではおよそ20年間近くにわたって新生児ブームがつづいていた、 ということになる。
  この違いはどういうことだろう。
  ごく一般的にいって、 大きな戦争が終わればどんな社会も人口が急増する。 戦争に出かけていた兵隊たちが社会に復帰し、 新たに家庭を築くことになるからである。 「団塊」 と 「ブーマーズ」 の場合も、 もちろん第二次世界大戦からの帰還兵が大量に復員したことで新生児ブームが起こったわけだが、 日本とアメリカでは少なからず事情が違っていた。 たとえば日米のブームの始まりがちょうど一年ずれていることに注目していただきたい。
これには理由がある。 というのも、 戦勝国のアメリカでは戦争が終わるとさっそく除隊した兵隊たちが社会に溢れ出たのだが、 敗戦国の日本では海外に出た兵隊たちがすぐには帰国することができず、 また国内も混乱のなかで生き延びるのがやっとという状態を余儀なくされたために、 帰還兵たちの家庭生活が軌道に乗るのもアメリカよりほぼ一年遅れることになったのである。
  しかしその理由だけでは、 片や3年、 片や20年という期間の差は大き過ぎるといわざるを得ないだろう。 いくら島国と大陸の違いがあるといっても、 ほぼ同一の環境条件が社会に与える質にそこまで大きな違いが出るはずはないからである。 そこで注目しなければならないのが、 ベイビー・ブーマーズの父親たちだ。
  アメリカの場合、 ベイビー・ブームを生み出した父親たちには、 ごく大ざっぱに言って三種類の人々がいた。 第一は第二次大戦から帰国して妻の待つ家庭に戻り、 職を得て社会に復帰した人々である。 彼らは既婚者ではあったが、 大戦前から大戦中には緊張した世相のもとで子どもを持つことができず、 戦後になってようやく家庭らしい家庭を築くことができるようになった人々だった。 この人々を仮に 「既婚・非子者」 グループと名づけることにしよう。
  このグループは戦後になって 「GIビル」 と呼ばれた復員助成金を受け取ると、 多くの場合は家を購入して独立した家計を営むようになった一群である。 ちなみに 「GIビル」 というのはアメリカ政府が戦争で苦労した帰還兵に発給した巨額の助成金制度のことで、 年齢や軍隊でのキャリアなどによって発給額は異なっていたが、 使途については大幅な自由裁量が認められ、 家屋を購入するもよし、 職業学校に通って新しい技術を身につけるもよし、 また職探しのあいだの家計の維持に当てるもよしと、 端的に言ってなんでもありの公的ボーナスのようなものであった。 そして 「既婚・非子者」 グループは、 結婚したてのころは親や兄弟と同居していたこともあって、 戦後はGIビルを自宅の購入に当てるというケースが多かったのである。
  第二は、 大戦から帰国して妻子の待つ家庭に戻り、 職を得て社会に復帰した人々である。 彼らは既婚者で、 既に一人以上の子どもを持っており、 独立した自宅も所有して、 普通であれば新たに子どもを持つ機会の少ないはずの人々だった。 この人々を 「既婚・有子者」 グループと呼ぶことにしよう。 しかしGIビルは彼らにも平等に発給されたから、 この余剰所得を利用して新たな子育て資金にすることもできた。 しかも第二次大戦後のアメリカは、 世界最大の経済強国として未曾有の好景気の恩恵を享受していたから、 彼らは既に生まれていた子どもたちの育児資金に事欠くこともなく、 大勢の子どもたちに恵まれた家庭を営むことができたのである。
  ちなみに日本でも 「団塊の世代」 の親たちは、 しばしば子沢山の家庭を営んでいたことを思い出していただきたい。 それでも日本の場合、 五人以上の子どものいる家庭は労働力を必要とする農漁村部に偏りがちな傾向を示したが、 好景気とGIビルの恩恵に沸くアメリカでは都市部でも子沢山の家庭を築くことができたのだ。
  1946年から始まったベイビー・ブームの第一陣は、 これらふたつのグループの親たちによってもたらされたものだった。 特に 「既婚・有子者」 グループは、 相対的に年齢が上のほうであったこともあって、 46年から数年のうちに一人ないし二人の子どもを新たにつくった。 それに対して 「既婚・非子者」 グループは、 40年代後半から50年代前半までの10年間に二人から四人程度の子どもを初めて持つようになって、 ベイビー・ブームの中核を担ったのである。
  そして第三が、 戦争から帰国後に初めて結婚し、 家庭を持って親になった人々――つまり 「未婚者」 グループである。 この人々はもちろん若く、 職業技術も相対的に未熟で、 高校在学中ないし卒業と同時に兵役に就いて戦地におもむいたような年齢層の若者たちだった。 したがって彼らには当然子どもはなく、 GIビルをもらって学歴を完成させてから、 ようやく結婚して家庭を築くことになった。 そしてこの人々が50年代から60年代までのベイビー・ブーム第二陣の牽引役となって、 続々と出現する巨大な人口層を社会に送り出すことになったのである。
  さらに以上の三グループに加えて、 アメリカにはほかにも人口増をもたらす集団がいた。 それが大戦直前から戦後にかけてアメリカへ移民してきた人々である。 彼らはたとえばナチスの弾圧や戦争の惨禍を逃れてアメリカへ脱出した集団であったり、 また戦後になってからアメリカに憧れて渡ってきた新移民グループであったりした。 もちろん彼らは年齢も民族も多様な集団だったが、 それだけに型どおりの世代交代とは異なった社会的移動をおこないながら、 およそ20年間にわたる長期のベイビー・ブームのなかに参加していたのである。
  以上をとりまとめると、 次の二点が得られることになるだろう。 第一はアメリカのベイビー・ブームが多様な年齢層の親たちによってもたらされた、 ということ。 第二は新たな移民など年齢以外の多様化要因を持った人々がベイビー・ブームのなかに参入していた、 ということである。

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  さて、 この二点のうちの第一点に注目して、 さらに話を進めてみよう。 すなわち、 アメリカにベイビー・ブームをもたらした多様な年齢層の親たちは、 戦後の社会にどのような文化的影響をおよぼしたか、 である。
  ここで考えておかねばならないのは、 1940年代の前半が大戦によって通常の社会活動が大きく制約され、 特に娯楽産業の現場では戦争協力以外の事業がほとんどできなかった時代だったということである。 たとえば代表的な娯楽産業である映画界は、 この時期、 日本でもアメリカでも戦争一色に染まっていた。 もっとも産業自体が窮地に追い込まれていたわけではない。 むしろ日米政府はこの時期に映画の持つ人々への社会的影響力に注目し、 多大な資金援助や法的援護をおこなって多数のプロパガンダ映画などを制作させていた。 ただ、 ここにも日米の違いはあって、 たとえば日本では多数の映画会社が松竹、 東宝、 および新興・大都・日活の合併会社の三社に整理統合され、 各社の製作本数とフィルムの数の優先割り当て制度の下で映画づくりをつづけていたが、 アメリカではメジャーな映画会社が率先して戦争協力をおこなった以外に、 戦時情報局が企画するプロパガンダ目的の記録映画に多数の監督たちが参加していた。
  たとえば西部劇で有名なジョン・フォードは海軍中佐として、 また 『或る夜の出来事』 などのスクリューボール・コメディで人気を博したフランク・キャプラは陸軍中佐として、 この時期にさまざまなプロパガンダ映画を制作している。 さらに驚くのはこの時期にもハリウッドでは普通の娯楽映画がかなりの数で制作されていたことで、 たとえば 『ジークフェルト・フォリーズ』 (1944) などは戦争の気配さえ感じさせない総天然色のオムニバス・ミュージカルである。 もっともこれとてよく見るとセットなどが昔と比べるとかなりの程度に貧弱で、 やはり戦争の影響が出ているのがわかるのだが、 少なくとも同時期の日本映画と比べると、 その華やかさや気楽さの点でほとんど一驚に値するような内容になっている。 但し、 全体として見るとこうした映画もあくまでつかのまの息抜きを提供する以上のものではなく、 娯楽映画としての新機軸はまったくないと言ってよいのである。
  したがって、 戦後になると一気に状況が変化し、 娯楽としての映画に大きな革新が生まれた   と言いたいところだが、 実はそうではなかった。 というのも大戦で疲弊した人々は、 戦争が終わった実感を噛み締めることのできるような娯楽を求めるばかりで、 映画にそれ以上のものを期待することはなかったからである。
  こうしたことを念頭に1950年代半ばまでのハリウッド映画を見てみると、 面白いことがわかる。 一言でいえば戦前の30年代までにあったレヴューやコメディが、 多少の脚色を加えられた程度で、 もう一度リメイクされている例がかなり見られるのである。
  その代表がミュージカル映画だろう。 戦後のアメリカのミュージカル映画は、 『南太平洋』 や 『バンドワゴン』 など日本でも人気を博した作品が目白押しで、 ハリウッド黄金時代の典型と言われる。 しかしそれらの企画内容を見ると、 ほとんど大半が戦前のダンス映画やレヴュー映画、 またはブロードウェイの舞台作品をそのまま映画にしたかたちになっている。 あるいは、 これも日本で人気だったスペクタクル映画のたぐいを見てもいい。 たとえばチャールトン・ヘストン主演の 『ベン・ハー』 などの大作歴史劇は、 多くがサイレント映画時代の人気作品をほとんどそのままリメイクしたものである。 もちろん巨大な画面を誇るシネラマなど当時の最新テクノロジーは駆使されていたが、 内容的な新機軸はほとんど見られないと言っても過言ではないのである。
  こうした映画は、 主として、 先に見たような 「既婚・有子者」 世代が若かったころにつくられた映画の焼き直しであった、 ということにここで注意していただきたい。 彼らは30年代に最初の黄金期を迎えていたアメリカの娯楽映画の夢を途中で中断されたまま、 戦争に突入し、 戦後になってもう一度夢のつづきを見ようとした。 それがこうした映画づくりに表われているのだ。 映画スターにしても然りで、 この時期の代表的な男優たちはジョン・ウェイン、 ゲイリー・クーパー、 ヘンリー・フォンダ、 フレッド・アステア、 クラーク・ゲイブル……と、 すべて戦前からスターだった面々である。 女優たちのほうはなんといっても若さを売り物にさせられる立場だから、 戦後にスターになった面々も多いのだが、 男性優位のつづく時代には映画もまた戦前世代が主流を占める世界であったことは間違いないだろう。
  しかし、 その一方、 「既婚・有子者」 よりも年齢の若い 「既婚・非子者」 グループの人々は、 彼らの世代なりの娯楽を求めるようになる。 スターで言えば 『慕情』 のウィリアム・ホールデンや 『ヴェラクルス』 のバート・ランカスター、 『スパルタカス』 のカーク・ダグラス、 さらに 『乱暴者』 と 『波止場』 で鮮烈な登場をしたマーロン・ブランドなどが、 彼らの世代のヒーローということになる。 こちらの特徴は前の世代のスターたちよりも個性的で強烈な暴力性を含んでいるということで、 最もやさ男ふうに見えるウィリアム・ホールデンなども、 正体不明の流れ者を演じた 『ピクニック』 などでは戦前派には見られない暴力的気配を漂わせているのがよくわかる。
  そして第三の 「未婚者」 グループになると、 この傾向はいっそう強まり、 スターにしてもポール・ニューマンのようにどことなく軽薄な風味を加えた街の兄ちゃんタイプが出てくることになる。 ニューマンはいまではロバート・レッドフォードの兄貴ぶんのようなイメージがあるが、 『暴力教室』 で登場したときは明らかに 『乱暴者』 のマーロン・ブランドを彷彿とさせるイメージで、 『ハスラー』 などでもぎらぎらした野心だけを瞳にみなぎらせた無名の青年といった風情を露わにしていた。 日本でこれに相当するのが 『狂った果実』 の石原裕次郎だったと言えば、 感じはおわかりになるはずだ。 戦後のいわゆる 「アプレゲール世代」 は、 まさにこの層の別名であった。
  以上をとりまとめると、 大体次のようなことになるだろう。 すなわちベイビー・ブームをもたらしたアメリカの親たちの世代は年齢的に大きな幅があり、 したがってその趣味嗜好も多様なものを含んでいたということ。 そしてこれが1940年代後半から60年代半ばまでの長期のベイビー・ブームの世相の変化にも同調していた、 ということである。

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  さてここで、 アメリカのベイビー・ブーム世代のなかにも世代変化があることに触れておかねばならない。 なんといっても約二〇年間という時間の差は、 ベイビー・ブーマーズたちを単なる同一集団として扱うには大き過ぎるのである。
  アメリカのブーマーズたちは、 端的に言って、 ふたつのグループに分けることができる。 1946年から50年代前半までに生まれた世代と、 それ以後の10年間に生まれた世代である。 したがって前者を仮に 「ファースト・ブーマーズ」、 後者を 「セカンド・ブーマーズ」 と呼ぶことにしよう。 前者は日本の 「団塊の世代」 にほぼ対応するが、 後者になると 「プレッピー世代」 や 「ヤッピー世代」 になる。
  第一のブーマーズは、 実際、 巨大な戦後世代のパイオニア的存在として、 つねに世相と風俗の革新の先頭に立ってきた。 彼らは歴史上初めてジーンズを労働着以外の日常衣料として好んだ世代だし、 50年代にはまだ青年層のなかにあった 「未婚者」 グループが熱狂したロカビリーやロックンロール以後の、 つまりビートルズとローリング・ストーンズの登場に自らを重ねた世代だった。 こうしたことが一因となって、 ファースト・ブーマーズたちにはつねに時代の尖兵となってきた意識が強く、 これはいまでもつづいていることだと言っていいだろう。
  それに対してセカンド・ブーマーズたちになると、 パイオニア意識は総じて薄く、 そのぶんだけ先行世代への微妙な対抗心や違った趣味嗜好を間接的に表現するようなところがある。 その最も端的な表われが、 70年代末から80年代後半までつづくいわゆる保守化の時代の動きだろう。
  この時期は長期にわたるヴェトナム戦争が終わった反動から、 前衛の風潮が後退し、 レトロなものへの興味が前面に抬頭し、 風俗もまた保守化への傾向をたどった。 たとえばこの時期に起こってくる 「プレッピー・ブーム」 は、 もともとアメリカの伝統的な名門家庭の息子たちが通うプレパラートリー・スクール (予備学校。 日本では戦前の大学予科に当たる) の雰囲気を模倣することから起こったもので、 このきっかけとなった 『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』 などは実は明らかにパロディ本なのだが、 実際に流行する場面になると 「お坊ちゃま・お嬢さま」 を本気で模倣する風俗として定着することになった。 さらにこれにつづいたのが 「ヤッピー・ブーム」 で、 こちらは伝統などとは無縁の家庭に生まれた子どもたちが高学歴と高収入を武器に、 新興のお坊ちゃま族として名乗りを上げたものだと言うことができる。 文化史の観点から見ると、 これら 「プレッピー」 と 「ヤッピー」 の関係は文化に対する批評意識の発露としてなかなか面白い問題を示唆しているのだが、 少なくとも流行と風俗の次元では保守回帰と軌を一にした動きであったと言わねばならない。
  さらにもうひとつ、 この二種類のブーマーズの交代と微妙な関係にあったものとして、 エコロジーに対する関心の定着を上げることができるだろう。 エコロジーはいまや21世紀に向けての最も重要な文明の機軸のひとつとなるはずのものだが、 もとをただせばこれも80年代における保守回帰の波のなかで、 単なる前衛化でも保守化でもない第三の途を模索する試行錯誤とともに本格的に広まっていったものである。
  しかしこのエコロジーの存在をべつにすると、 ファースト・ブーマーズとセカンド・ブーマーズのあいだには、 やはり大きな違いがある。 たとえばファースト・ブーマーズは世代的な絆の意識が総じて強く、 そのぶんだけ個性化への欲求と並行して集団主義的な発想や傾向も残す局面も増えることになるのだが、 セカンド・ブーマーズはより個人主義的で集団への帰属心が弱く、 さりとて前衛や革新への欲求も強いわけではない、 という傾向を示すようだ。 ちなみにマーケティングの世界ではこのセカンド・ブーマーズにつづく1965年から74年生まれまでの世代を 「ジェネレーションX」 と呼んで世代や集団への帰属心がきわめて弱いことを指摘しているが、 このX世代の傾向は、 既にセカンド・ブーマーズのなかにも顕著に見られるものである。
  たとえばマーケティング関係の資料によると、 ベイビー・ブーマーズが総計で7,800万人という巨大な塊であるのに対して、 ジェネレーションXはそのほぼ半数。 しかもそのなかの50%が両親の離婚や別居を経験し、 またヴェトナム戦争やウォーターゲート事件などに影響されたブーマーズのような共通体験を持たない、 という。 しかし既に触れたようなブーマーズ世代のなかの第一から第二への変化を見ると、 セカンド・ブーマーズにおいてはむしろファーストとの共通点よりもX世代との類縁性が強い点も多々あることがわかる。 ファースト・ブーマーズはヴェトナム戦争世代であり、 スポック博士の育児書で育てられた 「ドクター・スポック・ジェネレーション」 だが、 セカンド・ブーマーズはヴェトナム戦争が終わった時点でようやく高校を卒業したばかりの世代であって、 反戦運動に参加した経験もなければウッドストックのコンサートも伝聞として知るだけでしかなく、 どちらかと言えばファースト・ブーマーズが巨大なブルドーザーのように世相の開拓をおこなってきた後を、 半ば醒めたおもいで歩んできた、 という面が強いのである。 ファースト・ブーマーズのヒーローがローリング・ストーンズのミック・ジャガーであるとすれば、 セカンド・ブーマーズのそれはトーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンである、 と言ってもいいだろうか。 あるいは 『ブルース・ブラザーズ』 のジョン・ベルーシがファースト・ブーマーズのひとりだとするなら、 セカンド・ブーマーズはベルーシを陰で支えたダン・アイクロイドのほうである、 ということになるだろう。 総計7,800万人のベイビー・ブーマーズのうち、 ファースト組が全体の六割を占めるのに対してセカンド組は残り四割という比率の優劣にも、 そのへんの感じを見ることができるようにおもわれる。

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  さて、 以上、 アメリカのベイビー・ブーマーズのなかの微妙な世代差を見てきたが、 ここで彼らの人生観や今後の見通しについて結論をまとめておくことにしよう。
  既に見たようにセカンド・ブーマーズはファースト・ブーマーズよりも集団主義的な傾向が弱いが、 これは彼らの生き方にも反映している。 端的なところではインターネットに代表されるコンピュータ文化への対応で、 既に50代に入ってきたファースト・ブーマーズが近年のコンピュータへの対応が遅れ気味なのに対して、 セカンド・ブーマーズでは躊躇も遅滞もほとんど見られない。 実際問題としてセカンド組は現在40代半ばから30代半ばまでであって、 これからいよいよ組織の意思決定の中核を担う存在になってゆくのである。 そのとき個人でコンピュータを仕事にも遊びにも使いこなすことができなければ、 必然的に社会活動の全般から遅れをとることになる。 セカンド・ブーマーズはそれを意識するまでもなく、 当然のことと受け止めて対応しているのだと言えるだろう。 マイクロソフトのビル・ゲイツに代表される情報産業のリーダーの多くがセカンド・ブーマーズであることを見ればこれは明白だ。
  さらにこうした情報化の態度は、 これまでのような集団主義とは違った社会の絆を生み出す契機となる。 コンピュータは基本的に個人単位の情報機器で、 モニターに向かっている限り、 夫婦であれ親子であれ、 個人の能力と責任が重要なものになる。 しかしインターネットの普及はこれまで単純に個別化や社会の細分化のみで捉えられがちだった未来像を大きく変化させ、 ネットワーク内における新たな人間関係や集団の生成をもたらすものとなるだろう。 コンピュータは地域格差や年齢差、 性差を解消させる方向に働く傾向を示す一方、 価値観や小さな趣味嗜好による小集団を多数発生させる起因となる。
  たとえば私事で恐縮だが、 大学で学生たちを教える場合も、 ほんの数年前までは教室で顔を合わせるのがなにより重要な仕事の一部だったのだが、 学生の半数以上がコンピュータを私有する (家族での保有も含めてだが) ようになると、 教室に集まる以外にもゼミのメンバーだけでメーリングリストを組み、 質問やレポートなどの指示、 さらにコンパやその他の遊びへの誘いもリストにEメールを投げ込むことでおこなわれるようになってきた。 そこでは教師もかつてのように学生たちの上に指導者として君臨する存在ではなくなり、 メーリングリストを通して行なわれる学生同士のやりとりや教師への働きかけを全体として調整しながら、 絶えず活発なアドヴァイザー役をつとめることを求められるようになる。 また学生たちも面と向かっているときの対人関係とはべつの顔をネット上で見せるようになる。 要するに対面型と非対面型のふたつのコミュニケーションが互いを刺激し、 二本の紐で一本のロープをなうようなかたちになりつつあるのだと言えるだろう。
  さらにこうした場で求められるのは、 メールを受け取ったら即座に返事を出すといった迅速な対応姿勢で、 この呼吸を怠ると築き上げつつあった関係が脆くも崩れ去るといったことも起こることになる。 手紙によるゆっくりしたコミュニケーションや 「師の技を黙って見て学ぶ」 といった従来型のやり方にも利点はあるとはいえ、 それだけではもはや成り立たない社会行動の時代がもう既に始まっているのはどうやら間違いなさそうだ。
  そしてこうなったとき、 実はベイビー・ブーマーズやジェネレーションXや団塊ジュニアや……といった世代論的な社会集団の把握は無効になってゆく可能性もあると言えるだろう。 実際問題としてこの面で見ると、 セカンド・ブーマーズとジェネレーションXのあいだなどもこれまで以上に地続きにつながっていることがわかるのである。
  そうした新しい関係のありようは、 確実に人生観にも影響をおよぼす。 そしてそれは趣味嗜好をともなう遊びの文化のあり方にも遠からず大きな反映を見せることになるに違いない。


■生井英考 (いくい・えいこう)
  1954年生まれ。 共立女子大学助教授。 映像史・アメリカ研究。 慶應義塾大学卒。 米国ICP、 ジョージ・イーストマン・ハウス、 ラトガーズ大学研究員などを歴任。 著書に 『ジャングル・クルーズにうってつけの日   ヴェトナム戦争の文化とイメージ』 (筑摩書房) ほか。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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