1 科学・情報技術社会

科学は終わってしまうのか


三浦賢一
(科学ジャーナリスト)


  たまたま手元に、 1958年に発行された子供向けの科学技術紹介の本がある。
  石油化学が進展してプラスチックができたが、 さらにいろいろな製品が開発され、 生活は一変するだろう。 核融合反応による発電も1990〜2000年ごろには実用化しているだろう ―― 当時、 小学生だった私は、 胸を躍らせて、 こうした科学・技術の入門書を読んだものだ。 級友たちにも 「科学者になりたい」 という者は多かった。
  私は1949年生まれ、 団塊の世代である。 小学生のころに鉱石ラジオを作り、 中学生時代に真空管ラジオを作り、 アマチュア無線の世界に首を突っ込むようになった。 いわゆるラジオ少年である。 ラジオ雑誌には、 回路図だけでなく、 真空管のソケットやコンデンサ、 抵抗といった回路部品を絵で描き、 つなぎ方がよく分かるようにした実体配線図というものがあった。 実体配線図を見ながらリード線をハンダづけして、 回路を組み上げていく。
  ヤニ入りハンダにハンダごてを当てると、 ジュッと音がして煙が立ちのぼり、 独特の臭いが鼻をつく。 出来上がってから、 電源スイッチを入れると、 真空管がほのかな橙色に点灯する。 スピーカーから音が出たときの安堵と喜び。
  真空管はどのような原理で動作しているか、 子供にはなかなか骨のおれる工作を通じて、 手触りの中で理解していった。 当時は、 科学、 技術に対して、 誰もが体験できることの延長として最先端をイメージできたように思う。
  それがいつのころからか、 変わった。 科学・技術は子供の体験とはおよそ無縁のもの、 原理は見えないものになってしまった。 ラジオ少年もいなくなった。
  それは、 トランジスタの登場から気配が出てきて、 IC (集積回路) が普及して完結したように思われる。
  今はパソコンのCPUとしておなじみのLSI (大規模集積回路) になっているが、 集積回路はだいたい四角い形をして、 配線をするための足が十数本とか数十本とかついている。 たいていは黒色をしている。 数センチの黒い四角の中に、 簡単なICなら真空管数十本分、 LSIだと真空管数千万本分以上に相当する回路が収められてしまう。 ICの足から配線して回路を構成すれば、 目的の動作はするが、 黒い四角の中では何がどのように起こっているのかはすぐには見えない。 ブラックボックス化である。
  
社会は巨大科学を支えない
  いま子供に 「将来何になりたいか」 と聞いたとき 「科学者!」 と答える子がどれほどいるだろうか。 あるいは 「科学者」 という言葉すら希薄なイメージしか持てなくなっているのではないだろうか。
  1950年代には、 あたかも何でも夢をかなえてくれる魔法の物質、 といった趣だったプラスチックがいまや 「やっかいもののゴミ」 という側面が大きく浮かび上がっている。 工業礼賛の時代には地球環境の有限性は見えていなかった。 ゴミの焼却によってダイオキシンが発生することも予見されていなかったし、 ごみの焼却が、 発癌や先天異常をもたらす有害物質を発生させ、 誰にとっても身近な脅威をもたらすことになろうとは、 想像すらされていなかった。
  1950年代、 60年代はバラ色イメージで語られたが、 いまや灰色イメージが濃くなってしまったものとしては原子力利用もある。 東京大学工学部の原子力工学科は1993年にシステム量子工学科と名前を変えている。
  また、 科学技術に 「めざましさ」 が乏しくなったことも大きな変化だ。 60年代の科学技術の 「めざましい」 発展を象徴したイベントが69年、 米国のアポロ11号による人類初の月着陸だ。 人々は月面から中継されるテレビ映像に釘付けになった。 スペースシャトルからは鮮明なカラーの映像が送られてくるが、 日常のひとコマにすぎなくなっている。
  アメリカの科学ジャーナリスト、 ジェームズ・ホーガンは1996年に“The End of Science" (邦訳 『科学の終焉』 竹内薫訳、 徳間書店) という一般向けの本を出した。 一言でいえば、 基礎科学においては大筋は既に解き明かされてしまったので、 もはやこれまでに経験したような大革命は起こりえない、 というのだ。 「純粋科学の将来的な進歩の前に立ちはだかる、 ずば抜けて大きな障害は、 過去の栄光だ」。 科学はそれ自身の成功によって終焉を迎えてしまう、 というのだ。
  ホーガンの主張に対して 「前世紀末にも物理学は終わったといわれたが、 20世紀になってアインシュタインの相対性理論や量子力学が登場し、 まったく新しい局面が開かれた。 今回も同じことだろう」 といった反論がある。 しかしホーガンは、 現段階は、 過去に 「終わった」 といわれた局面とは本質的に違う、 とみている。 私も同感するところが多い。
  科学は収穫逓減の時代に入ってしまったとホーガンはいう。 つまり、 一定の効果を上げるためにかかるコストが次第に大きくなっているというわけだ。 それは素粒子物理学の分野ではっきりと現れている。 アメリカは全周長87キロに及ぶSSC (超電導超大型加速器) を、 約100億ドルの費用をかけ、 テキサス州に建設する計画を進めていた。 東京23区が中に入るほどの巨大加速器である。 だが、 93年、 議会の反対で、 トンネルを途中まで掘ったところで中止となった。 この一件が、 めざましい進展を遂げてきた素粒子物理学の曲がり角を象徴している。
  素粒子実験物理学には加速器とは別の手段による挑戦もある。 43ページからの記事で述べられている、 岐阜県神岡町のスーパーカミオカンデはその代表で、 世界最先端の実験装置である。 こうした試みから新しい世界が開ける可能性が、 素粒子物理学の一つの希望である。
  生物学の分野は、 いまのところ最も華々しく成果を上げているように見える。 1953年、 ワトソンとクリックによるDNAの二重らせんモデルの提出から、 分子レベルでの生物の理解が一気に進んだ。 遺伝情報はDNAに保存され、 その情報によってたんぱく質が合成され、 生物の種々の機能が実現されている。 現在では遺伝子を操作して、 新しい品種づくりや癌など難病の治療にも応用しようというところまできている。
  生物学分野は、 個々の研究は素粒子物理学に比べられるような巨大な費用を要するものではないし、 まだ収穫逓減は目立っていない。 しかし、 クリックもその一人だが 「分子生物学は終わった」 と、 著名な研究者がかなり脳の研究に転身したが、 いまのところ 「意識」 「心」 の仕組みの解明は見えていない。 生物学分野もいずれ収穫逓減に直面せざるを得ないのかもしれない。
  
証明ができない領域に入る
  素粒子物理学で近年話題になっているのが 「超ひも理論」 である。 超ひも理論は物質を形成する粒子、 時空間のすべてを説明してしまうという。 しかし 「超ひもが存在すると考えられる世界を検証するために、 物理学者は円周1000光年の素粒子加速器を建造しなくてはならないだろう」 (『科学の終焉』) ということで、 実験的な検証は、 現時点では見通しがない。
  超ひも理論には多くのバージョンがあって、 実験的な証明なしにその善し悪しを問うのは、 さながら神学論争の様相を帯びてはいないだろうか。
  宇宙論は素粒子物理学と密接に結びついている。 宇宙は百数十億年前のビッグバンで誕生して、 膨張して現在の姿になり、 今も膨張を続けているというのが現在の支配的な説である。 ビッグバンの直後には、 現在自然界にある4つの力も未分化で、 その後分かれてきたのだという。 素粒子物理学は宇宙の起源をさかのぼって解明することでもあるわけだ。
  物理学にしても生物学にしても、 大筋は見えてしまい、 完全には解決しがたい問題が残るという状況ではないだろうか。 科学は成功したが故に終焉を迎えるという皮肉だ。
  人類の世界観を提供してきたのは古来、 宗教であり哲学であった。 科学が人類の世界観にまで影響を与えるようになったのは19世紀からで、 20世紀になって非常に大きな力を持った。 しかし、 21世紀は逆のベクトルが働く可能性がある。
  カール・セーガンに“Pale Blue Dot" (邦訳 『惑星へ』 森暁雄他訳、 朝日新聞社) という著書がある。 “Pale Blue Dot" (暗い青い点) というのは、 セーガンのアイディアで、 探査機ボイジャーが太陽系を離れる際に、 撮影した地球の姿である。 われわれが棲む地球は宇宙の中の、 ほんのちっぽけな暗い青い点にすぎない。 これが科学が明らかにした事実である。
  自分は世界の中心にあってほしい、 というのは人間の素直な願望かもしれない。 科学が突きつける現実から逃避したいと思う人も多いだろう。 若い人たちのオカルト指向にその兆候がある。 だからこそ、 科学の成果、 方法論の成功をしっかりと見すえていくことが、 今こそ重要だと思われる。
 21世紀に、 科学の 「手触り」 を取り戻す道はないのだろうか。
  


■三浦 賢一 (みうら・けんいち)
  1949年、 福島県生まれ。 東北大学大学院理学研究科生物学専攻修士課程修了。
  1974年、 朝日新聞入社。 水戸、 千葉支局員、 科学朝日編集部員、 ASAHIパソコン副編集長 (創刊)、 科学朝日副編集長、 ASAHIパソコン編集長などを経て、 1999年1月よりAERA編集長代理。 著書に 『悪のゲーム・コンピュータ犯罪』 『ノーベル賞の発想』、 訳書に 『ヒトの進化―新しい考え』 『はるかな記憶』 (共訳) など。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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