1 科学・情報技術社会

情報テクノロジーの世紀


服部 桂
(朝日新聞社出版局『ぱそ』編集長)


  21世紀が近づくにつれ、 20世紀を振り返り総括しようとする試みが各所でなされている。 米バージニア州にあるフリーダム・フォーラム・ニュージアムというニュースの博物館を建設しようとしている団体が先日、 ジャーナリストや学者にアンケートを実施して20世紀を象徴する100の事件のランキングを発表して話題になった (その第1位が 「広島、 長崎に原爆が投下され第二次大戦が終結した」 というもので、 2位がアポロ宇宙船による月面着陸、 3位が真珠湾攻撃と続いている)。 このランキングにはテクノロジー関係の話題が3分の1ほど入っている。 上位にはライト兄弟の動力飛行、 ペニシリンの発明、 DNA構造の解明、 T型フォードの生産、 スプートニク衛星の成功など、 生命科学や航空宇宙関係の話題が多いが、 28位にはテレビ、 31位にはパソコン、 32位にはインターネットでネットサーフィンを可能にしたWWWの発明という項目が登場している。
  さすがアメリカ人の作ったベスト100という点も多々あり興味深いが、 97位には何とビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフト社を興したことがあげられている。 ヘンリー・フォードの方が順位は上だとはいえ、 ついにパソコンやソフトが20世紀を代表するものとして車と一緒のランキングに並ぶことになったわけだ。
  10年ぐらい前までは、 世紀の大事件と称されるものにテクノロジーに関係した話題はほとんどなかったが、 その比率を高めているのが最近目覚ましく発達を遂げているコンピュータやネットワークだ。 20世紀は 「テクノロジーの世紀」 とも言われるものの、 いままでは基本的には巨大科学や戦争に関連したテクノロジーばかりが話題になってきた。 20世紀の後半、 もしくは戦後ということを考えるときに欠かせない原子力の利用や、 50年代にその姿が明らかになり現在の生命観の基礎ともなったDNAなどは、 20世紀の世界観に多大な影響を与えてきたが、 それらに共通するのは物質や生命の元になる要素を捉えることだった。 つまりこれらは、 現象的には最もマクロなスコープで影響を与えたテクノロジーという特徴を持っているが、 実はその本質は逆に最もミクロな基本単位となる世界を発見することにあった。
  21世紀に最もその進展が期待されている情報テクノロジーを扱うコンピュータやネットワークは、 原子力や生命科学のように物質ではなく情報という抽象的な世界を扱うものだが、 その成り立ちを見てみると、 やはり20世紀的な要素も多分に持っている。

新しい言語としてのコンピュータ
  上記のランキングの48位には、 ニューメキシコにおける最初の原爆実験の成功があげられている。 よく知られているように現在のコンピュータの発明は、 戦争に関係する暗号解析や弾道計算、 また核兵器の設計と不可分に結びついていた。 最初の大型電子式コンピュータENIACは、 弾道計算ばかりか原爆や水爆の設計をするための計算にも使われた。 当時もすでに機械式の計算機はあったが、 これだけ複雑な計算を実用的な時間内で行うためにはコンピュータのような機械が必須のものとなった。 機械式計算機はパスカルの計算器以降、 19世紀にバベッジが解析エンジンという名前でかなり大がかりなものを作ろうとしたが、 物理的な制約などからきちんと動くことはなかった。 電子式の計算機は、 そうした制約を電子の流れによる電子回路の機能で打破したものだ。
  カナダのメディア学者のロバート・ローガンは 『第5の言語』 という最近の著書の中で、 これまで人類の歴史を塗り替えてきた言語や数字などの発明は、 ある必然性からやむなく生じたものだと論じている。 たとえばアラビア数字は当時の交易が活発化するに従って、 あまりに多くの取引を整理・記録する必要性から、 それまでの煩雑な数の記述法を簡略化するために作られたという。 つまりこうしたメディアは人間が増えていろいろな活動が活発化するに従って、 より複雑化した状況を単純化するためにそれらが必然的に発明されることになったというのだ。
  コンピュータも、 それを可能にしたのは電子技術の発達という前提があったが、 なぜそれが作られたかを考えてみれば、 戦争の時期に急激に増加して複雑になった情報を整理するため、 というインセンティブが働いていたことは明らかだ。 それにそこでは1年かかる計算を1日のうちにこなさなくてはならないような切実な状況もあった。 情報の扱いを制する者が戦争による国家の運命を制することは、 古代から変わらないが、 まさに第二次大戦の時期にはそれが計算量の臨界点に達していたと考えることができる。
  また計算ばかりか、 文書情報も大幅に増加していた。 原爆を開発するためのマンハッタン計画に関連して、 MITのバネバー・ブッシュは膨大な資料整理を統括管理する任についた。 彼は極めて膨大な論文や文献を混乱なく管理・運用しかつ活用するには、 もはや紙をベースにした情報の管理は限界に達していることを痛感した。 ブッシュが発想したのは、 こうした文書類をマイクロフィルムに記録し、 そのライブラリーを閲覧探索しながら自由に引用されたものや関連する文献にとべるようにするシステムだった。 45年に 『アトランティック・マンスリー』 誌に 「思うがままに」 という論文を発表したブッシュはその中で、 (最近ビル・ゲイツが 『思考のスピードの経営』 という本を出してその中でも述べているように)、 人間の思考を中断せずに考えを相互につなぎ自由に拡張していく方法について述べた。 まさに現在のハイパーテキストやそのネットワークにおける拡張型であるWWWなどの発想は、 この時点で真剣に考慮するに値する状況になっていたわけだ。 その後、 ブッシュの文献に触発されたダグラス・エンゲルバートやテッド・ネルソンらによって、 この考えはコンピュータを使ったアイデアを自由自在にリンクする道具へと形を変え、 さらにはハイパーカードやWWWという具体的なソフトウエアとして生かされ現在に至っていることは周知の事実だ。

集中から分散へ
  このように電子回路を使ったコンピュータは、 やがて60年代には戦後の高度成長を支えるエンジンとして、 また核兵器が作り出した東西の冷戦のミサイルシステムやアポロ計画のような巨大宇宙計画の司令塔として使われるようになった。 そしてまた軍事から民間の利用へと領域を拡大し、 企業での会計処理などにも応用されるようになった。 当初はIBMが全世界で50台程度しか売れないと考えていたコンピュータは、 その予想を裏切り急速に普及していった。
  大型コンピュータが興隆し始めている一方では、 メインフレームの融通の利かなさの間隙をぬって、 より小型でより安価なミニコンピュータ (ミニコン) も作られ、 おかげで部門別に問題を解決するツールとして使われるようになっていった。 そこで会社の情報処理部門とは別に、 各部門で決裁して現場に近い営業計画などにもコンピュータを応用できるようになった。 大型機に集中する仕事の一部を請け負うミニコンの出現は、 分散処理という考えをネットワークを通して現実のものにしていった。 現在は社会の不可欠なインフラへと成長したインターネットは、 69年にその最初の形が作られている。
  インターネットはもともとコンピュータ本体というより、 核戦争の攻撃にも耐えられるネットワークを作ろうとする発想だった。 57年のスプートニク衛星の打ち上げで一気にエスカレートした東西の緊張に対処するため、 つまり米国の科学技術の優位性を確保するために設立された国防総省の研究機関 (ARPA)の予算で作られたARPAネットは、 電話の交換局のまわりに星状に端末としての電話がある集中型ネットワークではなく、 いくつもの小さな交換局のようなミニコンを相互に網の目のようにつないで作られたネットワークだった。 つまり一つの交換局というコントロールの中心の下にすべての端末があるのではなく、 そのコントロールは複数のコンピュータに分けられている構成になっており、 一つの中心の機能が分散され役割分担をされているわけだ。 この分散処理という考え方は、 もともとは危険分散や危機管理のために作られたものだ。 しかしこうした発想で作られたネットワークは、 結果的には中央のコントロールを周辺に委譲することで情報のコントロール、 つまり権力の分散をも招くことになった。

パソコンを生み出した新世代
  ミニコンは当初、 大型機のスケールダウンという発想で作られたが、 本当の意味で革新的な役割を担ったのはパーソナル・コンピュータ、 つまりパソコンだろう。
  パソコンは一部にはミニコンの機能を取り入れる発想で作られているが、 ミニコンのスケールダウンというよりむしろ新たにマイクロプロセッサという情報処理の基本単位のユニットを作ったと考えるべきだ。 集積回路も大型コンピュータやミニコンにも応用されていったが、 所詮は周辺の回路の置き換えだった。 パソコンの心臓部にあたる集積回路としてのマイクロプロセッサ、 つまりCPU (中央演算装置) はそれらとは発想が異なり、 コンピュータの中心部分をまず作り、 その機能をその周辺に広げていった。 一つのチップが計算の基本部分を網羅し、 そのまわりに入出力装置や記憶のためのメモリー装置となるチップが配置されていった。 そして最小単位を基本にしたユニットが、 徐々に機能を強化していく方向でコンピュータとしての体裁を整えていった。
  マイクロプロセッサは70年代の初頭に作られたが、 それが単体としての一つのコンピュータとして形を成したのは77年のアップルだといわれる。 当時はコンピュータを直接扱える人の数はまだ少なく、 高価で会社や組織に1台しかないコンピュータは会社の最高意思決定機関としての使われかたをし、 まさに組織全体を統括する社長のような存在だった。 東部のエスタブリッシュメントそのもののようなIBMに象徴されるメインフレームはまた、 権力そのものともみなされるようにもなった。 ベトナム戦争に反発していた若者たちは、 コンピュータを研究する大学の機関などを国家権力の協力者として敵対視することもあったが、 同時に自らの手にコンピュータの持つパワーを取り戻したいとも考えた。
  そもそもコンピュータを作ってきた人の発想には、 ただの計算機械を作るというより人間の知的能力を機械で再現しようという思いがあり、 人工知能などの分野ではコンピュータ自体の能力を強化する動きもあった。 その一方で、 コンピュータをむしろ人間が本来持っている能力を拡張するための道具として捉える若い世代もいた。 こうしたコンピュータの可能性について早くから気づいた人々は、 コンピュータを使うことに異常なまでの高い関心と能力を発揮した、 いうなれば第一世代のハッカーというべきかもしれない。
  そうした人々にとって、 マイクロプロセッサは、 まさにうってつけの発明だった。 半導体産業で大きく飛躍したシリコンバレーのある西海岸では、 こうした若者たちが手作りで組み立てたコンピュータを持ち寄って情報交換をするホームブルー・コンピュータクラブなどの集まりから、 現在のパソコンの元になる発想が育っていった。 彼らのモットーは 「パワー・トゥー・ザ・ピープル」。 つまり人間は大きなコンピュータに管理されて戦争に送られる部品ではなく、 もっと個人の能力を開発することで本来持っている能力を引き出していけるというものだった。

21世紀型の情報社会に向けて
  こうして発明されたパソコンは、 情報テクノロジーの原子やDNAに等しいインパクトを持っているものだったといえる。 マイクロプロセッサによって最も小さな情報単位を処理する機械を作ることで、 これがさまざまな端末に組み込まれて核融合を起こしたように爆発的な広がりを見せ、 世界レベルで大きな変化をもたらしたのだ。
  戦前のパラダイムを引きずるような巨大なトップダウンシステムに対して、 パソコンという武器を持って個人の情報の自由を主張して立ち上がったのはまさに戦後の団塊の世代だった。 もともと対抗文化的色彩の強かったパソコンは、 当初は特殊な人たちのみが興味を持つマイナーな存在で、 個人的にホビーなどのために使われることが多かったが、 80年代の末にはすでに大型コンピュータを数でも金額でもはるかにしのぐことになった。 そしてパソコンの台数が普及したところで、 インターネットを簡単に使えるWWWなどのソフトができたことで、 それらが相互につながって90年代初頭に大きく飛躍した。
  いまではかつて最初に反乱を起こした若者たちは第一線を去り、 ビル・ゲイツや孫正義のような40代前半の人々が大企業の経営者になっている。 昔は大型メーカーに対抗して大きくなったマイクロソフトのような会社も肥大化し、 いまでは米国で司法省に反トラスト法違反の訴訟を起こされる立場にまでなった。 シリコンバレーでは、 大型世代をマラソン走者に、 パソコン世代を短距離走者に例える人もいる。 今ではさらに速いスピードで急成長するYAHOO!やアマゾンコムのようなローラースケートを履いたようなインターネット企業が 「ドット・コム」 企業としてこれまでは考えられなかったほどの勢いで成長を遂げている。 マイクロソフトやコンパックなどのパソコン大手は、 いまやゲーム専用機や情報家電に親しむ 「ニンテンドウ世代」 から攻められる立場となり、 かつてのIBMのような状況に立たされている。
  インテルのCPUとウィンドウズの組み合わせで独占的な立場に立ったマイクロソフト/インテル連合 (ウィンテル) の優位は揺るがないかに見えたが、 最近はリナックスというタダでインターネット上でソースコードを公開し、 ユーザーが共同していいものを作ろうとするOSが注目され、 破竹の勢いで伸びている。 インテルがそのリナックス陣営に出資をしたり、 マイクロソフトがモバイルや小型端末用に作ったウィンドウズCEでは、 日立の非インテル系CPUを使うなど、 ウィンテルの一枚岩にはヒビが入りつつある。
  また最近ソニーが発表した次期プレイステーション用に開発したCPUは、 画像表現能力などでインテルの最新のチップをはるかに凌ぐものになった。 いずれこうしたCPUはデジタル家電の基本ユニットにもなっていくはずで、 今後の市場の構造が変化する可能性も出てきた。 ビジネスを中心に普及したパソコンがさらに一般に普及するには、 表計算やワープロなどのいままでの使い方を超え、 デジタルテレビやインターネットと融合したコンテンツを楽しんだり作ったりするプラットホームとして脱皮していかなくてはならないと考えられる。 次のコンピュータを巡る戦いはすでに始まっているのだ。
  今後のコンピュータはまた、 さらに小さくなる情報単位としてより密接に多数のユニットがネットワークで結ばれていくだろう。 いわゆるモバイル端末の次はコンピュータを服に縫いつけて24時間使えるようにしようとするウエアラブル・コンピュータも発想されており、 より個人を中心にすえた情報流通が行われるようになると考えられている。 こうした時代には、 知識や論理に偏重したコンピュータの使い方は意味を成さなくなり、 衣食住という視点から、 また生活や感性のレベルから情報環境を新しくデザインし直すことが求められるだろう。 人間同士のコミュニケーションが、 国や地域を超えて60億対60億に近い複雑なモードになるばかりか、 いずれは工業製品のPOSコードをコンピュータチップ化することで、 自然のそれを凌駕する人工物のネットワークが出現することになるかもしれない。 こうして世界中のすべての人やモノが密接に結びつき影響を与える情報社会は、 いわゆる複雑系と呼ばれるような社会になるだろう。
  米国のデジタルカルチャー評論家ケヴィン・ケリーは、 『「複雑系」 を超えて (Out of Control)』 の中で、 高度に情報ネットワーク化された社会や組織は限りなく生態系に近いものになっていくと予言している。 その中では予想がつかない状況が常に起こり、 誰かが誰かを一方的に支配するという構図は長続きしない。
  現在の経済破綻などのパニックは多くの場合、 戦後に作られたトップダウンの制度が疲弊し、 いままでの方法で社会をコントロールできないという複雑な現象として生じている。 もしトップだけが情報を持ち、 それ以下の何も分からない人たちをコントロールできるなら、 そういう混乱はなかったかもしれない。 しかし大型システムがパソコンに代表される個人を中心にしたシステムに置き換わり、 インターネットなどが普及するにつれ、 いままでの常識が非常識化する現象があらゆる局面で出てくるだろう。 こうした情報化は個人に力を与え、 いままでの組織や権力構造を逆転させるのと同時に変えてしまうのだ。
  そうした変化を生み出した戦後世代のパワーはある意味でこうした複雑で逆転した世界のパンドラの箱を開けた世代だ。 ケリーは 「こうした時代に何かをコントロールしなくてはならないという使命に固執することは無駄だ」 と説く。 これからの情報社会は、 誰かが誰かをコントロールするのではなく、 生態系のように情報を育てる環境を整備すべきなのだ。 21世紀に向けて本格的な情報社会が到来しようとしている現在、 この世代こそが新しいデザインを作っていくことを求められているのだ。


■服部 桂 (はっとり・かつら)
 1951年生まれ。
 1978年 早稲田大学理工学部電子工学課程修了
       朝日新聞社に入社、 新聞製作やニューメディアを手がける
 1987年 MITメディアラボ研究員---89年
       米国のメディア産業の調査を行う
 1989年 科学部記者としてコンピュータや情報通信を担当
 1991年  『ASAHIパソコン』 副編集長---93年
 1994年 科学部へ
       出版局で新しいデジタル時代の雑誌 『DOORS』 出版を計画
 1995年 デジタル出版部編集委員として 『DOORS』 を手がける
 1997年  『DOORS』 休刊後、 出版局編集委員
 1998年  『ぱそ』 編集長

 ・主な著書 『人工現実感の世界』 (工業調査会 1991年、 日本工業新聞社 「技術・科学図書文化賞」 優秀賞受賞)
   『人工生命の世界』 (オーム社 1994年)
  その他 『メディア・レヴォリューション』 (ジャストシステム 1996年) など、 いくつか共著あり
 ・訳書 『ハッカーは笑う』 (NTT出版 1995年)
   『人工生命』 (朝日新聞社 1996年)
   『デジタルテレビの興亡』 (アスキー 1999年予定)


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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