少子化と家族

─歴史的パースペクティヴ─

宮坂靖子
(奈良女子大学助教授)

1 はじめに
 わが国の少子化問題が、平成元(1989)年の「1.57ショック」という言葉で幕開けしたことから、少子化問題が現代に生まれたものとみるむきもあるが、現在の少子高齢社会の問題は、明治近代国家の成立以降の社会的・経済的要因とかかわりながら着実に蓄積されてきた構造的な問題に他ならない。
 小稿では、第二次世界大戦前、大戦後そして現在という歴史的な流れの中で、少子化のプロセスがいかに進行してきたのかを概観し、妊娠・出産というきわめて私的、家族的な問題であると同時に、国家・社会の成立基盤そのものにかかわる人口資源の維持というきわめて公的な問題が交錯する「少子化」の様相を描き出してみたい。

2 「合計特殊出生率」の意味するもの
図1 出生率と合計特殊出生率の年次推移

資料:厚生省大臣官房統計情報部「人口動態統計」、厚生省国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」
(注1)平成8年の出生数は推計値
(注2)「合計特殊出生率」とは、15歳から49歳までの女子の年齢別出生率を合計したもので、1人の女子が仮にその年次の年齢別出生率で一生の間に生むとしたときの平均子供数に相当する。

出典:総務庁編『高齢社会白書 平成9年版』P.31より引用
 少子化とは何であろうか。「子どもが減っている」といういうが子どもの数とは何を基準にした数なのであろうか(1)
 現在、少子化の指標として一般的に用いられているものが、周知の「合計特殊出生率」である。この数値で重要な点は、合計特殊出生率の意味するものは、一夫婦あたりの平均出生児数ではなく、未婚者や離別者を含む女子全体についての平均出生児数であるため、晩婚化の進行や生涯を独身で暮らす人々(非婚)の増加など結婚の動向によって変化を受けるという点である。人口学によればこの数値は、有配偶出生率(一夫婦あたりの出生率)と有配偶率(結婚率、もしくは未婚率)の影響を受けることが明らかにされている(2)
 ここ数年出生率の低下が問題になっているのにもかかわらず、「一夫婦あたりの子ども数」はほぼ横ばいで、問題なのは女性の晩婚化、もしくは未婚率の上昇であるという、一見ねじれたような実態の指摘は、「合計特殊出生率」という人工的に作られた指標の性質によるものである。
 冒頭にも記したが、わが国の少子化の過程は、何も「1.57ショック」という言葉が生まれた1989年以降の現象ではなく、既に戦前から進行した。図1にみるように、最も大きな変化は1950年半ばまでの多産多死から少産少子への出生力転換時に生じている(「第1の少子化」)。
 次に70年代半ばに「第2の少子化」があり(合計特殊出生率は、70年に2.13、75年に1.91、80年に1.75)、そしてその後再び1.60を切って低下を始めた1989年以降現在までが「第三の少子化」と呼ばれるように、戦後でも3つの少子化の段階が存在する。
 この間の10年ごとの変動の原因は、石川晃によって既に明らかにされている(3)。まず、50年から60年にかけて合計特殊出生率は3.65から2.00へと1.65ポイント低下した。これが「第1の少子化」であるが、この低下は「有配偶出生率の低下」によって八割方説明されるという。つまりこの時期の少子化は、一夫婦あたりの子ども数の減少によってもたらされたのである。特に高年齢での出生率の低下が大きく減少したということは、必要以上の子どもを人口妊娠中絶し、子ども数2人へと大きく近づけていったということを示している。
図2 合計特殊出生率低下の原因

(備考)石川 晃「近年における地域出生変動の原因──有配偶構造の影響」「人間問題研究所」第48号第3巻、1992年10月により作成

出典:『国民生活白書 平成6年版』P.13より引用
 60年代の合計特殊出生率は比較的安定し、有配偶出生率および有配偶率ともに大きな変動はみられなかった。その後70年から80年の間に合計特殊出生率は0.39ポイント低下するが、この変化は、「有配偶率」の減少によって6割、「有配偶出生率」の減少によって4割が説明される。ここでは既に、少子化問題が結婚した夫婦の妊娠・出産のあり方よりも、むしろ「結婚」に対する人々の意識や行動の変化に影響を受けている側面が表れてきている。80年から90年には合計特殊出生率は0.20ポイント減少するが、その要因は「有配偶出生率」が上昇したにもかかわらず、それを相殺してもなお余りあるほどの「有配偶率」の低下によって引き起こされていることが明らかにされている(図2参照)。
 このように「合計特殊出生率」という指数の持つ性質上、この指数の低下が、「有配偶率」と「有配偶出生率」のどちらの要因がどれだけ影響して引き起こされたものなのかをまず認識することが大切となる。合計特殊出生率1.39という数字から「最近の夫婦は、1.4人しか子どもを産まなくなっている」「最近は一人っ子が増えている」ということがよく言われるが、それは誤解に基づいている。
 一夫婦あたりの子ども数に着目するのであれば、図3に見るように、既に昭和初期(3〜12年)に生まれた女性たちが母親になった頃、つまり昭和50年の半ばくらいまでに、一家庭に平均子ども2人、というここ数年来主流の家族形態は既に達成されてしまっているのである。

図3 有配偶女性の完結出生率の推移
(備考)
1.数字は各年生まれの有配偶女子が15〜49歳のときまでに出産している子供の数である。
2.古い順に6時点は総務庁「国勢調査」、最近4時点は厚生省「出生動向基本調査(第7次〜第10回)」により作成。
3.母親の生年により子供は3つの世代に分類できる。すなわち、(1)明治30年代以前生まれの母親から生まれた子供(昭和以前生まれ)は、出生率も死亡率も高かったので多産多死型、(2)明治後半から昭和初期生まれの母親から生まれた子供(昭和一桁から20年代半ば生まれ)は、出生率が高く死亡率は低かったので多産少死型、(3)昭和一桁以降生まれの母親から生まれた子供(昭和20年代半ば以降生まれ)は、出生率も死亡率も低かったので少産少死型である。

出典:経済企画庁編『国民生活白書 平成6年版』P.12より引用

3 戦前期の出生と家族
 江戸時代は300年間にわたって人口がほぼ一定だった。「貧乏人の子沢山」という諺から、江戸時代の農民は多産であったと誤解されがちであるが、地域差もあったものの決して子沢山ではなく、意図的にせよ非意図的にせよ何らかの出生コントロールを行っていたことは歴史人口学において徐々に明らかにされてきている(4)
 いわゆる多産になったのは近世ではなくその後近代には入ってからであった。明治初年に約3,500万人であった人口は、早くも60年後の昭和15(1940)年には7,000万人と倍増した。この急激な人口増加は、医療・公衆衛生の発達により乳幼児死亡率が低下によってもたらされた。
 第1回の国勢調査が行われた大正9(1920)年以降、昭和15(1940)年までに、合計特殊出生率は5.1から4.1まで1.0ポイントも低下しているが(70年から90年の20年間には0.59ポイント低下)、この戦前・戦間期における出生率低下は、主として晩婚化(「有配偶率」の低下)によるものであることがわかっている(5)
 昭和15(1940)年に行われた厚生省「第1回出産力調査」によれば、戦前に子どもを産み終えた夫婦の平均的な出生行動は、結婚2.5年で第1子を生んだ後、第2子以降をほぼ3年間隔で生んでいき最終的に5人の子どもを生んだという。一夫婦あたりの子ども数の散らばりが大きかったのも特徴で、無子の夫婦が10%を越え、4子以下が40%をしめる一方で、6子以上が50%を占めている(6)
 最新の厚生省の調査(「第11回出生動向基本調査」1997年)によれば、現在結婚後15〜19年経過した夫婦は、平均して結婚1.60で第1子を出産し、その後2.85年で第2子を出産、つまり結婚後約4年半で2.21人の子どもを生んでいる(7)。この数値を比較すると、戦前期に子どもを産み終えている夫婦のほうが現在よりもむしろ第1子出産のタイミングは遅かったことがわかる。出生間隔は約3年とかなりほぼ同じである。最終的に5人生んだのか、2人強生んだのかという完結出生児数については人工妊娠中絶の実行度の違いが関係していることはいうまでもない。

4 戦後の出生と家族政策
 戦後のベビーブームの後、昭和25(1950)年から出生数は激減、合計特殊出生率は昭和22(1947)年の4.5から昭和30年代前半には2.0の水準まで低下し、多産から少産への出生力転換を成し遂げた。これが冒頭に挙げた「第1の少子化」である。この時の主たる要因が「婚姻内出生率」の低下、つまり一夫婦あたりの子ども数の減少によるものであることは既に述べたとおりである。
 戦時中までの人口増加策とは対照的に、既に終戦後5ヶ月後の昭和21(1946)年1月に厚生省人口問題懇談会が開催され、人口増大の危惧から産児調節の普及の必要性が指摘された。しかしその動きが政策として本格化したのは昭和24(1949)年になってからである。その年の4月には薬事法による避妊薬の認可が開始され、5月に衆議院は人口過剰問題につて受胎調節普及の促進を含む決議を行い、6月に優生保護法(1948年成立)が改正され人工妊娠中絶条件がゆるめられた。昭和26(1951)年10月には一層の受胎調節を図ることが閣議で了承され、翌昭和27(1952)年5月には優性保護法の再度の改正が図られ、実質的に人工妊娠中絶の自由化をもたらすなど、本格的な受胎調整政策が展開された(8)
 他方で「幸せな家族」に対するイメージ戦略も繰り広げられた。田間泰子によれば昭和24(1949)年頃から、中絶や産児制限、産児調節とともに、「受胎調節」「妊娠調節」という言葉が多く使われ始め、昭和25(1950)年には新聞紙上からは中絶という言葉がほとんど見られなくなったという。「受胎調節」の理念は、人口問題でも母体保護でもなく、「健康で文化的な」「楽しく豊かで」「幸福な家庭生活」という理想と結びついて普及していった(9)。避妊も人工妊娠中絶も幸福な家庭を築く手段として、そのために「少ない子どもをよりよく育てる」ために多くの人々に受容されていったのである。
 ちなみに、中絶件数が公的統計において最多となったのは昭和30(1955)年で、ヤミ中絶を加えると出産可能期とされる15〜49歳の女性に2人に1人が中絶し、10人子どもが産まれる一方で8人が中絶された(10)。このようにして我々になじみ深い「二人っ子」家族が普及していったのであった。

5 人口学世代と家族
 このような戦前までの人口増強策から戦後の急激な産児調節政策への転換が、よく言われるように人口構造を転換させ、そして現在の少子高齢という構造的問題を作り出したのであった。
 次に、人口構造の変化が家族にどのような影響をひきおこしたかをみてみたいが、その際に非常に参考になるのが、故伊藤達也が人口の年齢構成を基に生み出した「人口学世代」という概念である(11)。氏は、1900(明治33)〜25(大正14)年の間に生まれた世代を「第1世代」(多産多死世代)、1925〜50(昭和25)年の間に生まれた世代を「第2世代」(多産少死時代)、1950〜75(昭和50)年の間に生まれた世代を「第3世代」(少産少死世代)と分類し、それぞれの人口の規模が、順に1:2:2であることを明らかにしている。このことが意味するのは、「第1世代」の夫婦一組に対して子ども夫婦(「第二世代」)が平均二組いるが、第二世代の子どもの世代ある「第三世代」は親世代とほぼ同数の長男長女世代で、親世代の夫婦一組に対して子ども夫婦が平均一組に過ぎないという、人口構成上の制約である。
 もう既に20年くらいにわたって、高齢者の一人暮らしや家族では担いきれない高齢者介護の問題が大きな社会問題になっているが、これは単に親の扶養に対する規範や意識が変化したという文化レベルの問題にかかわらず、人口構造的にも大きく規定された問題であることの重要性を伊藤は指摘しているのである。
 例えばわが国の核家族化(普通世帯に対する核家族世帯の占める割合。単独世帯は核家族に含めない)についての伊藤の説明は次のようになる。わが国では既に大正(1920)年には核家族化率が55%と過半数を占めており、その後1960年代に急激に上昇したものの、昭和50(1975)年の約64%を頂点としてその後は除々に低下し始めている。これはどういうことかと言えば、ちょうど核家族率の上昇時期は、「第2世代」の結婚・出産期にあたったということである。平均的に第一世代の親夫婦一組に対して子ども夫婦は二組であるのだから、仮に夫婦が子ども一夫婦と同居したとしても、もう一組は親元を離れ核家族を形成することになり、核家族世帯数は2倍になるということになる。
 「第3世代」は既に人口規模が親世代(「第2世代」)と等しい長男長女世代であるから、「第3世代」が25歳に到達し始めた昭和50(1975)年以降、新たな核家族世帯を増加させる余力は小さくならざるをえなかった。と同時に75年以降、単独世帯、特に高齢者の単独世帯が急激に増加しているということは、子ども世代の人口数が同規模であるにもかかわらず、様々な産業構造の変化や人口の都市化、または転勤などの物理的事情により、子ども世代(「第3世代」)が長寿化してきた親夫婦(「第2世代」)とますます同居が困難になってきている現状を示しているのである。

6 「第4の少子化」へ
表1 結婚持続期間別、出生子ども数0人の夫婦割合(1982〜97年)

出典:国立社会保障・人口問題研究所『第11回出生動向基本調査、結婚と出産に関する全国調査、夫婦調査の結果概要』P.11より引用
注)最上段の数字は、調査の回数を、( )内の数字は調査の実施年を示している
 これから2020年に向けての超・少子高齢社会に向けて取り組むべき問題が山積していることはいうまでもないが、私個人としては、今までの人口を再生産することの必要性については懐疑的である。戦争と経済成長をめぐるさまざまな人口政策の結果形成された現代の人口構造がむしろ特異であったと考えることもできうるのではないだろうか。
 ただ、若年層の妊娠・出産に対する行動をみてみると、「第3の少子化」には収まりきれない「第4の少子化」ともいえる動きも胎動してきている。
 確かに「完結出生児数」(結婚持続期間15〜19年の夫婦の平均出生児数)で比較すると、最新の「第11回出生動向基本調査」においても2.21人と変化はほとんど見られない。しかしより詳細に結婚持続期間が0〜4年、5〜9年の比較的若年層をみてみると、両者ともにその期間の平均出生児数がここ10年の間に低下傾向があることがわかった。また、同じく結婚継続期間別にみた出生児0の夫婦の割合も、0〜4年、5〜9年若年層では増加してきており、特に結婚して4年以下の夫婦が子どもを持たない割合は、10年前の32.5%から今回の42.6%へとかなり増加してきている(表1参照)。
 これら若い人々の出生行動は今後の動きをみなければ何とも言えないのであるが、晩婚化と同時に、結婚した一夫婦あたりの子ども数を減少させるという今までに例のない新たな少子問題(「第4の少子化」?)を生み出すことにもなるかも知れない。今後の動きを注視した上できめ細かな対策を立てていくことが迫られている。

【 注 】
(1)少子化の様々な基準については、拙稿「日本社会と少子化問題」,日本子どもを守る編『子ども白書1993年版』(草土文化,1993)を参照。
(2)石川晃「近年における地域出生変動の要因−有配偶構造の影響」『人口問題研究』第48巻第3号、1992年、p.47
(3)石川晃、前掲書
(4)例えば、速水融『近世農村の歴史人口学的研究』(東洋経済新報社,1973)、鬼頭宏『日本二千年の人口史』(PHP研究所,1983)など
(5)人口問題審議会他編『日本の人口・日本の家族』、東洋経済新報社、1988年、pp.4〜7
(6)人口問題審議会他編、前掲書
(7)国立社会保障・人口問題研究所「第11回出生動向基本調査 結婚と出産に関する国調査 夫婦調査の結果概要」、1998年、厚生省ホームページより
(8)廣嶋清志「人口問題の質的側面」南亮三郎他編『人口問題の基本的考察』千倉書房、1983年、pp.70〜74
(9)田間泰子「中絶の社会史」『シリーズ変貌する家族1 家族の社会史』岩波書店1991年、p.212
(10)田間泰子、前掲書、p.215
(11)この節は内容の多くを、伊藤達也『生活の中の人口学』(古今書院、1994年)に負っている。



情報誌「岐阜を考える」1998年秋号
岐阜県産業経済研究センター


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