2020年の岐阜を考える


高木(北山)眞理子  

(東海女子大学助教授)


 私は東京生まれ、神奈川育ちで、1989年に各務原市の東海女子大学で教鞭をとることになって、ご当地と初めて出会うことになった。従って、「もっと住みやすい岐阜」を語るとき、外様ゆえの無知からとんでもない考え違いをしていることもあるかもしれないし、外様ゆえに、長年この土地に住み慣れた人の目に入らないものが見えることもあるかもしれない。また、私はフルタイムの仕事を持つ女性であり、一児の母でもある。女性として、親として、またひとりの人間として、「住みやすさ」を考えてみたい。とかく理想を述べるときは、人は大ぶろしきを広げるものであり、私も例にもれないと思う。
 まず、一般的に、現在の岐阜が他の土地と比べて「豊かで」「住みやすい」と思われる点をあげれば、東京の大都市圏と比べて人口密度は低く、緑豊かで自然環境に恵まれていること、車の所有率が高いのに、交通渋滞の少ないところなどがある。高山祭りなど由緒ある行事は世界的に有名だし、伝統的な地場産業も大いに誇ってよい。
 逆に岐阜のマイナス面にはどんなものがあるであろうか。それはのどかすぎてエキサイティングなことが少ないこと、若年者は県外へ流出し、政治経済情報の中心から遠いという印象があること、電車、地下鉄などの都市交通機関が不十分なこと、などがあげられよう。これらのマイナス面を改善してゆけば本来の住みやすさを実現することになるのだが、岐阜のマイナス面とされる要素が実は裏を返せば、岐阜を自然豊かで過ごしやすいところにさせている点でもあり、現実の施策となるとなかなかむずかしいものだと思う。
 今回、約20年後の理想社会を語るにあたって、上にあげたようなことは岐阜をよく知っている方々にお任せし、ここでは紙面の制約もあるので、日頃自分が研究していることを使って考えていくことにする。そこで、多様な人々が「社会」をつくっているのだという、ごく当然の前提に立ち、そこから派生する問題に絞って話を進めてゆきたい。

1 多様な人々のつくる社会
 社会の構成員とはそこに住む人々すべてである。働きざかりの20代から50代の男性ばかりが社会をつくっているのではない。同年代の女性、現役を引退し老年期にある男女、そして子供(乳幼児からティーンエージャーまで)もまた大切な構成員である。また、外国からやってきて日本に暮らす人々、身体的、精神的に障害を持つ人々も立派な社会構成員である。今更当たり前のことをわざわざ書いたのは、どうしても日本社会では、女性や子供、高齢者、障害者、外国人の権利が見落とされがちだと感じるからである。
 私は3年間ハワイに留学していたが、社会をつくる人々の多様性を強く感じることが多かった。日本とハワイとの大きな違いは、後者が多くの異なる人種・民族グループによって構成されていることである。ハワイに住んではじめのうちは異なる外見の、つまり髪や目、肌の色、顔立ちが違う、異なる文化を持つ人々が共存する社会という印象ばかりであったが、少しすると、この社会では老人、障害者の姿をよく目にすることに気づいた。ハワイの老人人口がことさら多いわけではない。ましてや障害者の比率が多いわけでもない。もしかしてハワイは日本よりも老人や障害者が活動しやすい社会なのではないか。そのような意識をもって周りを見まわすといろいろなことに気がついた。例えばバスで老人や車椅子の人に乗り合わせることがとても多い。バスも足の弱い老人が乗りやすいように、乗降口のステップが低くなるように工夫されており、それは kneeling bus(車体が低くなってバスがひざまずくようだから)と呼ばれる。車椅子が前のドアから乗れるように、ボタン一つですばやく乗り口がリフトに変わるようになっている。老人も車椅子の人も気後れしないで積極的に外出するし、社会のシステム自体がそれをサポートするようにできている。車椅子の人が乗車するときには、他の乗客はできる限り協力する。さらに、自分で車を運転しない一人暮らしの老人のために、買い物を手伝ってくれるボランティアシステムもある。前日の電話一本で老人はスーパーまで車で送り迎えしてもらえる。日本でも、そしてこの岐阜地方も例にもれず、これから老齢人口の増加が予想されるが、特に車がないとなかなか遠出できないこの地方で、ハワイのシステムから学ぶことは多いのではないか。
 子供に対する社会の対応については、日本の社会は大いに変わる必要があるであろう。まず教育機関において、きめ細かな教育を望むのであれば、40人学級などでは無理である。1998年年頭の演説でアメリカのクリントン大統領は小学校低学年の学級を18人にと訴えた。日本においても現在進行中の生徒数減少の中で、教員の数を削減するのでなく、逆にこれまでと同じ数、またはこれまで以上の教員を使い、行き届いた教育を施すことこそ、今一番望まれることであろう。
 また、現在も日系ブラジル人をはじめとする外国人の子供たちが日本の教育機関で教育を受けているが、彼らに対する教育、また彼らを迎え入れた学級での彼らの存在を考慮に入れての教育のありかたについてはまだ十分ではない。これまで移民を多く受け入れてきたハワイのような社会では、学校でも英語を母語としない生徒への英語教育(ESL)が整っている。長年移民を受け入れてきたアメリカでは、今世紀前半から後半にかけて、アメリカの主流文化に同化させようという教育から、移民の文化を尊重する多文化主義の教育へと移行してきた。アメリカ以外でも、例えばオーストラリアやカナダ、イギリスも移民を受け入れての教育で独自の多文化教育を生み出してきた。これから日本も、外国人を受け入れる教育現場で、独自の異文化理解教育、日本語教育、日本文化教育を生み出していく必要があるであろう。外国から来た人でも日本にいる以上日本人にならなければならない、というような画一的で尊大な考え方は捨て、教育現場にいる外国人の子供たちのもっているもの、すなわち家庭で話されている母国語や母国文化を保持させ、それをいかしていくような教育を目指すべきであろう。外国人のクラスメートの文化をクラス全員で学び、共有するような教育が望ましい。そこから本来の意味の国際理解教育が進んでゆくのではないか。
 さらに、前述したハワイにおける外国人への英語教育(ESL)では、英語力の必要とされる学科(国語や社会)の時間だけ、自分のクラスからESLのクラスへ行くという、いわゆる抜き出し授業が行われる。日本でも外国人の子供への日本語授業がなされているようだが、抜き出し授業にした場合、その子たちだけが自分のクラスから出て特別なクラスへ行くことになってしまい、疎外感を持つ。一方ハワイでは、例えば算数に秀でた子は、その時間だけ一つ上の学級へ行くことはよくある。これはハワイばかりでなくアメリカ全体で個性を伸ばす教育が行われているからといえる。自分の能力にあった授業が受けられるように、特に優れた子供を発見してそれを伸ばすことをアメリカでは奨励している。日本では、ごく最近高校二年生の大学への飛び級が話題になったが、アメリカの場合、小さいときから、個々の能力の違いを認め、優秀な面を伸ばす教育をしている。外国人でESLに行く子供だけがクラスから抜き出されるわけではなく、多くの子供が能力に合ったクラスに行って授業を受けている。もちろん本人と保護者が希望すれば、であるが。日本でも、外国人の子供を受け入れる中で、個々の能力を伸ばし、子供たちの受けたい教育を受けられるよう少しでも改善していてければ、画一的な一斉授業は改善されてゆくのではないか。岐阜では現実に日系ブラジル人や中国人、フィリピン人の人口が増えていると聞く。外国人の子供たちへの教育を基点にして、新しい教育を考えてゆけば、この面からも、小人数制の学級の必要性が議論されることになるであろう。マイノリティ(少数派)の状況に応じて個性をいかすように教育改革を進めれば、最終的には全体の子供たちの細かいニーズを考慮することにつながっていくのではないだろうか。岐阜が外国人の子供たちとともに学んでいく場の先進地域になってゆくように期待している。
 また、子供を教育するのは教育機関ばかりの仕事ではない。家庭における教育、地域における教育、これら三者の連携が重要であることはいうまでもない。また、たとえ自分に地域の学校に通う子供がいない者も、地域の子供の教育問題を子供の親と一緒に考えなくてはならないだろう。特に保護者との関係では、学校側も生徒の保護者の授業参観を随時認めるべきであるし、保護者も子供の学校生活にもっと関心を持つべきである。
 以前ハワイの小・中学校での英語教育や異文化適応教育を調査したとき、学校と保護者、地域住民とのつながりが日本と異なることを知った。特に低学年の各クラスでは、授業の中で手が足りないとき、保護者からボランティアを募っていた。あるクラスに、日本人の子供が入ってきたため、日本についてクラス全体で学ぼうと計画されたことがある。日本を学ぶ週が決められ、クラスの飾り付けも日本風にされた。このとき、日本人生徒の母親が生け花や折り紙でクラスの飾り付けを手伝ってくれるよう頼まれた。これもボランティアである。このような特別な授業はすべて、クラスの担任の先生の考え方による。日本の学校だと、指導要領にのっとった授業で手いっぱいになりがちだが、ハワイの場合、かなり自由な面が見られ、クラスのメンバーの母国について理解しようとしていた。
 さらに地域と学校との関係において、地域産業と教育機関との結びつきも、もっと密になってもよいと思われる。現行のシステムでどれだけのことを行えるかむずかしいところはあるだろうが、やはり学校のある地域の産業にもっと子供たちが興味を持つような授業を行うべきだと思う。実際に人々が働いている場所、すなわち役所、裁判所、市場、病院、一般の会社、工場、森林、田畑等、現場に実際に行って見るような授業ができることが望ましい。高校生くらいになれば、授業の一環に労働経験を組み込んだようなシステムができれば、「仕事」に対する興味を持てるのではないだろうか。例えば、病院での介護のボランティアを授業の一環として行い、それで病院内のシステム、医師、看護婦たちの仕事を知るのもよい経験になろう。地場産業の内容を、体験学習などで若い中高生に知ってもらうのも、若者の岐阜離れを防ぐ手だてになるかとも思う。

2 人間らしさが尊重される社会へ
 少子化の影響で、今後の労働力の不足を憂慮する声が聞かれる。そもそもこの議論の中で、子供の数が少なくなるのは、女性の高学歴化、社会進出に伴って、子供を産まなくなったから、といわれることに大いに異議申し立てをしておきたい。そもそも今の日本の職場は、女性にばかりでなく男性にも窮屈な面がたくさんあるのではないだろうか。前述の子供の教育についても、現行の労働時間や条件では、子供の学校に足を運ぼうにもできない父親は多いだろう。仕事を持つ母親はなおさらである。育児休暇や授業参観に行くために休暇をとることが、男性・女性を問わず当然になるような意識の変化(雇用者側、労働者側双方)と制度の整備が望まれる。また、教育機関の側でも、保護者会を夕方や夜に開いたり、授業参観を希望すればいつでもできるように便宜をはかったりすれば、もう少し保護者との連絡が密になってゆくのではないか。職場でもフレックスタイムの導入や、0才児から3才児のための保育所を、隣接する工場や事務所で共同経営するなどを、これから考慮するべきだろう。職場でもマイノリティに優しい制度をつくることで、現在窮屈な思いをしている男性もまた、子育てや地域の活動に参加する余裕をもてるようになるのではないか。
 外国人の日本社会への流れは、国際的な規模の労働力移動の一環であるから、政府がいかに歯止めをかけようとも、この流れは止まらない。彼らを地域社会の一員として迎え、共生していく必要がある。教育機関での彼らの子弟への教育については前述したが、地域社会全体でも、マイノリティの彼らのことを考えた政策を進めれば、おのずから、一般の日本人にとっても住みやすく働きやすい社会の議論へと進んでゆくのではないだろうか。
 本当の意味で、21世紀の地域社会を構成員全体で支えているという意識が持てるように、これからはこれまで弱者であった人々に目を向け、彼らが暮らしやすい社会をつくっていけば、きっと誰もが過ごしやすい社会へ近づいていくであろう。現在、岐阜県内の職場でも、女性や障害者、外国人はマイノリティである。彼らの目で社会を見るという発想の転換が今、求められているのではないか。
 岐阜を乱開発して岐阜の今の良さをなくしてしまうより、今の自然環境を保ったままで、老若男女を問わずより多くの人々の労働参加を歓迎し、人間らしく暮らせるように努力すべきである。以上が、岐阜を10年見てきた外様の私の考える、理想的な岐阜社会のヴィジョンである。



情報誌「岐阜を考える」1998年増刊号
岐阜県産業経済研究センター


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