2020年岐阜の発展を願って
−環境と経済の関わりを中心に−


川崎 則子  
(岐阜市立女子短期大学英文学科助教授)


 2020年というターゲットは今から約20年先である。伊勢神宮の遷宮が20年毎である事に端的に現れているように、日本人にとって20年は一区切りとなるスパンである。一つの大聖堂を200〜300年かけて何世代にも渡って建造する西欧の文化とは明らかに違う時間感覚がある。一方、政策立案の上で近未来の短期スパンはより長期的ビジョンの一環として想定される必要もある。殊に岐阜の発展の為に不可欠な環境保全と経済振興を考える際に長短の両スパンを睨み合わせることが肝要である。
 通常、自然環境を守る事は経済発展とは相容れないというイメージがある。確かに短期的にミクロで言えば、環境保全と経済発展とは衝突するが、マクロで、長い目で見た場合、環境を守ることは経済発展に寄与する。環境と経済とは決して二律背反、二項対立ではなく、相補的なものである。
 歴史の上で一例を挙げる。1700年頃の江戸は、人口100万人を数え、当時世界最大の都市であった。同時期のロンドンの人口は、その半分程の50万人足らずに過ぎず、パリは更に少ない。その後、百年経った1801年に至っても、ロンドンは漸く85万人に達したのみである。江戸がそのように大発展し得たのは、実は都市の大動脈である川を汚さなかったためである。ロンドンもパリも汚物をテムズ川、セーヌ川に垂れ流した。江戸だけは隅田川を清浄に保ったが故に、川の生産性を保ち得た。更に、肥料となる汚物を近郊の農地に運搬するシステムが整っていた為に、莫大な食料を生産供給し得た。健全な環境保全型循環システムが都市の発展を支えたのである。逆の失敗例が、インドの古代都市、モヘンジョ・ダロやハラッパである。両都市とも廃棄物、ゴミ処理に窮して滅んだとされている。
 自然は、人間や経済の益とならなくても、それ自体で価値があり、守るべきものだが、そのような認識は一般的なものとなりにくい。環境を守ることが経済にもプラスとなるという観点が一般の理解を得るのに有効であろう。
 近年にも、環境と経済の連動につながる積極的気運がある。ヨーロッパの認証機関である国際標準化機構ISOが、「環境にやさしい」運営をしている工場に対して認証するISO14001を取得しようという動きは、日本は世界でもトップクラスで、ヨーロッパと取引があるところを中心に、すでに取得した工場も増加している。この動きは自治体にも広がり、すでに取得した上越市を初め、大阪府、福岡市など多くが取得に向けて検討している。ISO認定は、西欧との取引を成立させる手段でもあるが、ものづくりに携わる製造業の方々の、自然が損なわれればものづくりはできないという認識が、当面の重いコストを凌ぐ力となっている。
 また、使用済みペットボトルをウレタン代替品に加工するような環境ビジネスと呼ばれるリサイクル型事業も育っている。エネルギーの消費を抑えて、企業のコストを削減し、利潤向上に寄与する設備を生産する省エネビジネスは、数兆円の規模に成長すると見込まれ、心強い。ただ、リサイクルする為に却って膨大なエネルギーを消費しては本末転倒となる。岐阜では真の意味での環境保全型ビジネスを目指したい。
 一口に自然環境というが、そのイメージは人それぞれである。まず、自然は変化するものであることを念頭に置きたい。平野が地震によって隆起して高台となり、それが雨によって侵食されて山脈と谷ができ、流れる川によって更に侵食されて平野に戻るという何万年もの周期を繰り返している。何万年という周期を持ち出しても将来計画の上で必ずしも大げさではない。海の向こうでは、何億年後に地球が星としての生命を終えるときの為に宇宙移住計画を大まじめに研究しているのである。
 もう少し短い周期に目を向けてみると、経済活動の指針に直接関わることが出てくる。湖は藻が浮かび、水草が生え、堆積して沼となり、更に草原となり、潅木が生え、やがて森林となる。今、美しい白樺の林があるとする。その林を観光資源として経済的利用を図ることが考えられようが、白樺の林は、次の森林の段階に移る前の、ごく短い遷移過程である事を視野に入れる必要がある。消滅の時期がきた時、無理に白樺を保存しようとする事は、自然の流れに逆らい、資源を無駄に費やす事になる。自然の変化に順応していける事が政策上、重要である。
 自然はまた、いつもやさしい緑の自然とは限らず、破壊的な恐ろしいものでもあるが、都合のいい自然だけを取り、破壊的な面は押さえ込むという訳にはいかず、また、そうすべきではない。自然との共生は痛みを伴うが、そうあるべきだという事に目を向けたい。
 自然と人為の関わりで言えば、自然に近しい農業をも含めて、人間の営み自体が砂漠を生む。古代四大文明の発祥地、ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河の各流域は、全て農耕により、砂漠化している。ギリシャも文明の進展と共に、森と泉を失い、土地の痩せた乾燥性気候となった。サハラ砂漠広大化も、日本の空が黄河の砂で黄色になる黄砂現象も古代農業文明による自然破壊の結果である。現代の農業全てが収奪的である訳ではないが、農業林業を含めて人間の営みは自然破壊にならざるを得ないと承知した上で、いかに人間の営みを自然環境に調和させてゆくかが問われている。
 例えば、「花がいっぱいある町」は如何にも自然と親和的のようだが、自然破壊になりかねない。自然の循環に適っていなければ、短期的経済波及効果はさて置き、エネルギー浪費に過ぎない。栽培用の土を作る、花を作る、枯れた花を処分する、全ての過程で循環しないエネルギーを浪費する。枯れた花が次世代の為の土壌となる自然界の摂理を生かせるのが望ましい。
 自然との接し方には、欧米の一面である自然征服型(コーカソイド型)と、他方の自然親和型(モンゴロイド型)とが想定できる。これは便宜的区分であり、文化の特徴を決めつけるものではない。日本人にはその両方の要素がある。コーカソイド型である点は、例えば、欧米も日本も「木を伐る」ことである。モンゴロイドであるアメリカインディアンの一部族は「木を掘る」。木を伐ると、残った根が凍結して周囲の生態系を滅ぼすが、木を掘り起こせば生態系へのダメージが少ない。それを知るインディアンは、更に木を掘った後に若木を植えておく。また、日本は鮭もシシャモも乱獲したことがあるが、モンゴロイドのアイヌの人々は卵を抱いたシシャモや鮭(イクラ)は種の保存のために獲らない。
 環境と経済の関わりの上で、典型的なコーカソイド型発想はダムと護岸である。ダムにはダムの役割があり、短期的には建設事業として経済効果も見込まれるが、長期的には不経済である。ダムは何十年で寿命となり、干上がることはあっても雨を呼ぶことはない。土壌を豊かにすることも、効果的に洪水や土砂崩れを防ぐこともなく、海の水を浄化することもない。
 ところが、天然のダム、すなわち森は、それらを全部やってくれる上に、何千年と保つ。しかも、森のなかでも、短期的経済効率の良いスギ、ヒノキなどの針葉樹林ではなく、経済効率の低い広葉樹林、雑木林こそ、上に挙げた大きな働きをする。森全体の生態系を支えるのも雑木林である。短期的経済効果に関わらず、長期的福利の為に手付かずに保つべき自然と、人の手を入れる里山等との、叡知ある区分が迫られている。
 また、岐阜の森を守る一方で、他国の森を犠牲にするのは避けたい。南では樹齢百年の木を「切らないで」と抱きしめる現地の人を引き離して伐採し、ロシアでは一日で見はるかすタイガ(針葉樹林)を伐採している。タイガは一度伐採すれば二度と生えず、かつ永久凍土が解けガスが噴出し、地球温暖化の一因となっている。経済利益を求める発展途上国は伐採を許可するが、その国策に乗ることは、長い目で見て深い恨みを世界から買うことになろう。マクドナルドは既に自発的に熱帯雨林を破壊しての牛の放牧から撤退した。
 木を守るためには、林業の方を初め、木を伐り、利用する企業の方々の、木についての広範な知識と技術の協力を仰ぐ事が肝要である。
 一方、長期的経済性を重んずることによって、山間地域に短期経済効果の面で負担を強いることになってはならない。インタネット等の技術力で、山の経済性利便性を図りたい。因みに、山国、飛騨は、かつて大陸からの文化を移入する先進地であり、今に息づくその先進性を誇りとしたい。いずれにしても山を守らなければ誇張でなく砂漠化が起こる。
 文明による砂漠化は今も続く。都会では、コンクリート、アスファルトで固めて土が息ができず、農地では化学肥料による収奪農業で土が弱り、ゴルフ場建設で山を剥ぎ、林業の衰退で山が荒れ、保水量が減っている。ミロ、ダリを初めとする現代絵画もアニメも水がない砂漠を描いているのは芸術家の直感で未来を予兆している。岐阜は是非、水、即ち森と土を守る県にしたい。その為には、本当は、動脈である川にダム(堰)がないほうが良い。人体においても、静脈には弁(堰)があるが、動脈には弁(堰)がないのである。
 更に、土と木という観点から公共事業を見直したい。土木技術は英語では civil engineering(公共技術)であり、公共事業と結びつくが、日本語だけが、その語に土と木を含む。公共事業にも、鉄とコンクリートの建設だけでなく、土と木の面を取り戻したい。且つ、「公共」という面から公共事業をもっと広い意味に捉える可能性も望みたい。
 土と木を用いる洪水対策として、川岸の木を川に倒し込み、その枝で水の抵抗を弱める技術がかつて使われた。自然親和型の技術である。それと対照的に、現代は、山砂が川から流出するのを防ぐ為にコンクリートでせきとめ、すると川から土砂が供給されず、海浜が細るので沖合にもコンクリートの砂止めを作る。土砂が移動する自然の変化を押さえ込もうとするコーカソイド型コンクリート文化は長い目で見ると成功しない。変化を押さえるのでなく変化と付き合うビジョンが必須となろう。
 川岸で言えば、コンクリートの護岸と西洋の花・芝生の植生ではなく、ぜひ土手と日本の花・野草の植生に戻したい。
 日本人にも自然と親和するモンゴロイド型技術がある。例えば「たたき」(三和土)である。土と石灰と水から成る自然になじむ素材は、堅牢でありながら、コンクリートに無い再加工性を持ち、アンコール・トム遺跡の修復に活躍している。職人芸の難しさをテクノロジーが平準化している。ローテクとハイテクの結びつきのヒントがここにあろう。岐阜の様々なものづくりを応援したい。
 ものづくり、環境保全いずれを取っても、単なるお題目だけの精神論では解決しない。土を踏み、ぐしゃっとつぶれる。みみずを触り、ぬるっとするという実体験に支えられなければ、歪んだご都合主義の自然観に陥る。手始めに、町中の小中高校に、砂地の運動場だけでなく、草が生え、木が茂る憩いの場が作れないだろうか。欧米の人々には、ハイテクに通じながら、原始自給生活も営めるたくましさが残っているが、岐阜にも、コンピューターを駆使し得て、かつ田畑を耕作し得る人々がいる。21世紀にはそうしたマルチ人間の底力が必須となる。この20年間に、岐阜のその強みをイメージし、再認識することも大切であろう。
 岐阜には、地域にもマルチ性がある。農村、都市、工業地帯が混在しており、資源の枯渇など様々な危機が想定される未来にはメリットである。なかんずく、狭い地域で自給自足できる強みがある。
 最後に、自然環境を保全することは、自然の生き物である人間の心と体を保全することにもつながる。環境を破壊する現代は、生き物としての人間をも損なっている。その不健全さは日常生活の精神面にも意外な影響を及ぼしている。その現状と当面の対策を付言したい。現代は、老いること、病むこと、死ぬことが、皆大切な生き物の姿であることを忘れている。高齢要介護者を老人ホーム等に入所させることは、その大切な姿、ありようを身近から失わせる。その自然に反する実態が、少年が人を簡単に殺傷し、自殺することや、若夫婦の幼児虐待を惹起する要因となっている。よだれが汚い、抱くとぐにゃりとして気持ちが悪いという若夫婦が出てきているのは、人間が生き物である事を受け入れられなくなっているためである。高齢者を身近で介護できることは、人間が生き物としての健全な生活を取り戻すことに直結する。老人ホームを増やす代わりに、家庭、地域で介護できる条件整備が必須である。現状では、要介護者を抱える家庭の負担が過重で、特に女性には、専業主婦、勤労婦人を問わず、過大な負担がかかっている。家庭での介護を促進するには、訪問介護サービスの充実が急務である。乳幼児と比べ、体重のある高齢者介護の為に女性介護者は皆、腰を痛める。男性の専門的知識のあるプロの介護士に活躍願いたい。ところが、現状では低収入と身分の不安定さの為に、男性介護者は、訪問介護ではなく施設へ就職すると聞く。訪問介護者やヘルパーの安定した身分と収入を確保すべきである。
 一介の文学者が専門外の提言をさせていただき、恐縮である。岐阜の発展の一助となれば幸いである。大方の叱正をお待ちしたい。



情報誌「岐阜を考える」1998年増刊号
岐阜県産業経済研究センター


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