特
集
論
文
2020年の岐阜
−自然環境と共存する社会
肥後 睦輝
(岐阜大学地域科学部)
1 はじめに
産業革命以降、我々は数多くの変革を経験してきた。最近の日本においても、高度経済成長、バブル経済、そして景気低迷と経済面での乱高下、冷戦終結、政党政治の崩壊、官僚による汚職などの政治的混乱が市民生活にも大きな陰を落としている。もちろん景気回復は多くの人の願いではあるが、むしろ景気後退、労働環境の変化にともなう1980年以降の価値観における変化、量的に恵まれた生活から質的に豊かな生活へと人々の意識が移り変わってきたこと、自然環境への意識の高まりを私は評価したい。2020年の岐阜の姿を思い描くとき、様々な視点が必要であるが、重要なのはこれまで対立するものとされてきた経済発展と自然環境保全の両立、つまりヒトと自然の共存を可能にする方法論の構築であろう。ここでは、我々の生活のソフト面に大きく係わる自然環境を軸にして2020年の岐阜の姿を考えてみたい。
2 地の利を生かした地域づくり
地理上の利点、欠点はどこでも抱えており、これを無視した社会・経済構造の構築はひずみを生じさせ、かえってマイナスに作用する。岐阜県は経済圏として、日本の3大都市圏である名古屋を中心とするエリアに属しており、歴史的にも愛知県との結びつきが強い。しかも、物流の拠点となる港湾、空港を保有できないという地理的条件があるために、経済振興を目的とする新たな産業の基盤整備、企業誘致を岐阜県独自で画策するのは困難である。一方で、岐阜県は照葉樹林から亜高山にいたる森林、清流長良川、シデコブシ、ハナノキ、ヒトツバタゴなどに代表される希少植物、そして日本の原風景の残る白川郷、高山といった豊かな環境資源に恵まれている。だとすれば、経済発展に立脚した物質的豊かさを享受できる地を目指すよりも、精神面での豊かさが実感できる地域づくりを考える方が戦略的である。労働環境の整備よりも、日々の生活環境の整備に重点を置くことによって人を引きつけ、地域の人口増加を促進し、その波及効果としての経済の活性化を模索するのである。それこそ「日本一住みよいふるさと岐阜づくり」なのではないだろうか。
岐阜県が名古屋を中心とする経済エリアに含まれることはすでに指摘した。実際、多くの人が居を岐阜に構え、生業を愛知県に求めるといった生活スタイルをとっている。岐阜県から他県へ通勤、通学する「流出人口」は増加し続けており、1995年には人口の約10%に達している。今後とも名古屋大都市圏の拡大に伴って、この傾向は続くと予想される。だとすれば、大都市圏で働き、学ぶ人間の居住地としての地域整備を検討すべきではないだろうか。大都市に近接する居住地としての機能が果たせるのは、岐阜県の南部であろう(以下、都市近郊域という)。一方、農耕地、山地の多い中部から北部にかけての中山間地域では、都市近郊域にはない地域特性を生かした将来構想が可能であり、その際には都市近郊域と中山間地域の間でのヒト・物の流れ、すなわち循環系を構築することが重要な役割を果たす。以下、必要に応じて中山間地域を、耕作地の多い耕作域と森林の多い山林域に細分化して話を進める。
岐阜県南部を都市近郊域、中・北部を中山間域として地域区分することを提案したが、この区分はつい最近まで日本の農村景観として見ることのできた構造を拡大適用しただけである。日本の農村は、居住域(ムラ)、耕作域(ノラ)、山地(ヤマ)に区分され、それぞれ利用形態が異なっていた。ムラとノラ、ノラとヤマはヤマの薪、落ち葉、ノラの農作物、ムラから出るゴミ、糞尿といった物質を通して、あるいは耕作、収穫、薪・落ち葉の採取、樹木の伐採といった作業によって密接に結びつくことで、半閉鎖的なシステムを形成していた。農村システムの中では、物質が循環することによって汚水、ゴミがあふれ出すことはなく、社会生活が健全に営まれていたわけである。資源のリサイクルといった考え方の原点は、日本の農村景観の中に見いだすことができるのである。ムラの問題を考える上で、ノラ、ヤマの問題は抜きにして考えられない。ムラを充実させるためにはノラを耕さねばならないし、ノラを耕すにはヤマのモノが必要で、そしてモノを採取するにはムラの人間が行かねばならないといった論理である。シンプルな論理ほど応用範囲が広いというのは常識であるから、この論理を農村社会を越えたもっとマクロな次元に拡張してもかまわないであろう。
3 アメニティ空間としての都市近郊域と自然環境の役割
都市近郊域において居住地としての充実をはかり、安定した日常生活を確保するためには、教育、福祉、医療を単に量的にではなく、質的にも充実させることが重要である。地域で、安心して子育てをし、充実した老後をおくることこそ最も求められるようになるのではないだろうか。共働き世帯のための保育所、ゆとりある教育を実践する小中学校、高齢者介護施設の充実、地域医療体制の整備等により住環境としての機能を高めることが重要であろう。もちろん、こういったハード面での充実だけで心の豊かさが実現できるわけではない。居住空間としての質を高めるためには、空気、風、水、そして生物から構成される自然環境の役割を無視することができない。
実は、自然環境(2020年のキーワードのひとつとなるであろう)は、社会基盤となる教育、福祉、医療のいずれにも関連してくるのである。高度経済成長期には、働いて物質的豊かさを追求するということが命題であった。バブル崩壊後の経済的低迷期を迎え、我々は生き、そして楽しむことを望むようになりつつある。ヒトは森、草原、川、海といった自然の中に置かれると安心感、心地よさを感じる。これは自然環境自体にアメニティ(快適さ)機能が備わっているためである。自然環境は、教育、福祉、医療の効果にも大きく関与する。自然にある草花、樹木、昆虫、魚は貴重な教育材料となる。森林や緑地は、無機的な環境で生活する都市住民の多くが抱えるストレスを和らげる心理的効果を持っている。医療の現場でも植物の緑や香り、あるいは動物との触れ合いが治癒率を高めるといった効能(セラピー)を持つことも指摘されている。純粋な自然ではないが、家庭における動物、いわゆるペットは都市住民の心を安らげる大事な自然だと主張する研究者もいる。阪神・淡路大震災の時には、被災地のイヌやネコが多くの人の心の安らぎに寄与したらしい。
ここであげた以外にも、森林、緑地に代表される自然環境は気象条件の緩和(ヒートアイランド化した都市における気温の低減など)、防火、防音、大気の浄化、そして様々な動植物の生活場所の提供という機能を持つ。いずれにせよ、教育、福祉、医療といった住民生活に直結する問題に共通の土台として、庭の樹木、屋敷林、公園緑地、街路樹、里山、河川、池といった様々な自然環境(最近は、こういった動植物が生育する均質な個々の自然環境をビオトープともいう)の整備を都市近郊域の地域計画に組み入れていく必要がある。環境先進国ドイツでは、様々な自然環境をビオトープネットワークという形で配置することによって、緑の街造りが行われている。ゴミの埋立処分場跡地の緑化、道路の地下埋設と上部の緑化、近自然工法による河川の自然復元、ゴルフ場におけるエコアップ(より自然状態に近い環境の中でプレイすることができる)など、数え上げればきりがないほどの自然環境整備が実施されている。人口100万人を超す大都市であった江戸は、その規模にもかかわらず緑空間にあふれ、多くの鳥たちが群れていたこことが訪れた外国人たちを驚かせたということであるが、緑に囲まれ、虫、鳥が飛び、花が咲き、樹木が茂る空間の中でこそ、ヒトとして健全で充実した生活が送れるのではないだろうか。
4 環境保全型農業、自然資源、そして都市近郊域住民との交流による中山間域の活性化
現在、農業を取り巻く環境は、農産物自由化による価格低迷、農業後継者の減少などに代表されるように、悪化の一途をたどっている。もちろん、農産物全てを輸入に依存することも短期的には可能であるが、長期的戦略としては一定水準の自給率を確保しておくほうが安全であり、農業を放棄することはできない。最近は農業の地盤沈下を憂う理由として、畑や水田の持つ食糧供給以外の機能、つまり生物多様性維持機能が強調されるようになってきた。熱帯林の破壊、海洋汚染による地球規模での生物多様性の減少がクローズアップされているが、実は畑、水田、さらには里山といったごく身近にある自然環境(古来より人の手で維持されてきたことから、二次的自然環境という)の消失によって失われつつある生物も数多くいるのである。他にも水田には貯水機能による洪水防止、水田の多様な生物による水質浄化といった機能も備わっている。
人手を加えずに放置すると水田、畑、里山といった二次的自然環境は、その機能を失い崩壊してしまう。現在、農地のうち耕作放棄地が全国で24万ha、全体の農地の47%にも達している。例えばアカガエルであるが、水田(水田には用水路、畦、ため池などの付属施設もあり、多くの生物が生活している)がなければ卵も孵化しない、オタマジャクシも生きられない、水田に水を供給している森林(里山)がなければ成熟した個体が生きられない、やがてアカガエルは地域から失われていくことになる。したがって、中山間域内の耕作域における農耕地の保全は食物供給、生物多様性維持の2つの点で緊急の課題でもあるわけである。
農村の疲弊を耕作域内の問題として処理していたのでは解決策は見いだせないだろう。耕作域の維持、活性化は、農作物の安定供給、生物多様性維持など都市近郊域の住民にとっても無関心ではいられない問題と関連している。しかし、現在、耕作域と都市近郊域の間にあるのは作物の供給といった一方向的な物流を主とする関係である。しかも二次的自然環境である水田、畑の耕作による生物多様性の維持コストは評価されることなく、当然それに見合うだけの収益もないのが現状である。もちろん税金を投入した公共事業という形での都市近郊域から耕作域への寄与はあるが、こうした事業がどこまで耕作域の維持・発展に貢献しているのかは疑問の余地がある(山林域についても同様である)。
人の交流も含めて、もっと直接的に耕作域にかかわることはできないのだろうか。近年、消費者の食物に対する安全意識から、無農薬、低農薬、有機栽培によって生産された農産物が注目されてきている。当然無農薬、有機栽培は”自然に優しい”環境保全型農業であり、自然環境の保全とも両立する。ただし、手間、つまり労働コストが高いのである。このコスト上昇分を消費者が負担することも耕作域への都市近郊域住民による関わり方のひとつである。具体的には、耕作方法を消費者が指定する代わりに、生産に要した費用は消費者によるコメの購入という形で負担する「特別栽培米」の活用、都市近郊域住民が直接コメ作りに参加する水田のクラインガルテン(市民農園)化などが考えられる。高知県の四万十川源流の里、檮原町では、「千枚田オーナー制」により、都市住民と山村農家との交流が活発化し、放棄田が広がりかけていた千枚田がよみがえりつつある。
岐阜県は山地が多く必然的に森林面積も広い。森林自体の機能は多岐にわたり、土砂流出の抑制、水源涵養、さらに最近脚光をあびている二酸化炭素の貯蔵、そして多くの動物、植物の生息地として生物多様性に貢献するといった機能を有している。中山間域の中でも山林域は多くの観光資源に恵まれており、夏期のオートキャンプ、冬期のスキーに代表されるリゾート(レジャー)、温泉、失われつつある農村風景などの観光資源が豊富である。河川の上流域である山林域は国土保全、水確保などの機能によって都市近郊域、耕作域の生活を安定化させ、また観光・リゾート地として都市近郊域住民に安息を提供している。したがって、耕作域と同様に、都市近郊域からから積極的に山林域に係わり、ヒトと物の循環系を山林域−都市近郊域間にも構築しなければならない。現在のような短期滞在型の利用ではなく、繰り返しのある長期滞在型の利用形態をとることによって、山林域に物心両面での活性化をもたらすことが可能である。最近は、安い宿泊費で滞在しながら山村生活を体験するエコツーリズム、グリーンツーリズムといった欧米型レジャーも登場してきた。名古屋大都市圏から比較的近い場所に位置する飛騨地域は、多くの潜在的観光客を有しているといえ、まさに地の利である。
さらに積極的に山林域にかかわるものとして、香川県で実践されている「ドングリボランティアネットワーク」などのような、実際の森づくりを通した水源地域と都市との交流活動があげられる。林業労働者の高齢化、林業後継者の不足が人工林の荒廃を生み出しつつある現在、都市近郊域住民が体験的にでも、コスト負担という形であっても森林の健全化に参画することは、山林域の活性化だけでなく、都市近郊域自体の生活環境保全にとっても必要なことなのである。
中山間域を訪れるヒトが増えれば、現地での消費活動による経済活性効果も期待できる。むろんこういった物とヒトの移動をスムーズに行うためには交通網と情報通信網の整備が不可欠である。岐阜県の場合、急峻山間地が多いといった地理的条件のために南北を連絡する交通路が限定されてくるが、東海北陸自動車道の全線開通、主要国道の整備によって改善される余地はある。自動車依存型の移動、道路を利用したトラック輸送には騒音、排気ガスといった環境汚染、渋滞による交通麻痺、交通事故など付随した問題も多く、今後は鉄道輸送の拡大、効率化が望まれる。都市近郊域から中山間域への移動を公共交通機関に依存すれば、輸送コストの削減あるいは二酸化炭素の排出量の削減も可能になる。農産物の出荷量、出荷先、出荷時期を的確に判断し、有利な条件で販売するためには、各地に張りめぐらされたコンピュータネットワークにより消費地や他産地の情報をリアルタイムに収集する必要がある。潜在的な観光客を増やすために、耕作域、山村域の様々な情報をインターネット等を介して発信するとともに、双方向通信による情報交換で観光客のニーズをすばやくキャッチすることも重要である。
5 なぜ自然環境との共存が必要か
我々が緑の空間に安らぎを覚えるのは、約500万年前にチンパンジーの祖先と袂を分かちヒトとして誕生してからの時間の大部分を、森、草原で過ごしてきたためだと考える研究者が増えている。我々は他の動物と全く異なると思いがちであるが、じつはチンパンジーとヒトは遺伝的には98〜99%同じ生物なのである。生物は、それを生み出した環境が失われたとき種として絶滅する可能性が高くなる。ヒトは、自らを生み出し、育んできた自然環境を極めて短い期間に自分の手で破壊し続けてきている。自然環境の破壊、変容はヒトの生物的側面、さらに文化的側面(文化には、地域に特有の自然環境のもとで形成されるユニークな側面もある)への悪影響という形でその絶滅確率を高めているはずである。熱帯雨林から人間社会をアタックしたエイズ、エボラ出血熱、温室効果ガスによる地球温暖化、異常気象、さらには人間社会で起こる異常な出来事(例えば犯罪の低年齢化)など様々な出来事は、自然環境の破壊によってヒトが絶滅の渦の中に巻き込まれ始めた兆候なのかもしれない。
自然環境との共存を軸とした岐阜の近未来像は、単にアメニティ機能の追求といったものではなく、生物としてのヒトの存続を可能にするための個人の生活様式、地域整備のあり方でもあると思う。今回は日常生活や農林業と自然環境保全の関連を中心に述べてきたが、既存の産業を振興する場合にも、そして新たな産業を誘致・発展させる場合にも、自然環境に負荷を与えない方法論にもとづいた展開がなされるべきであろう。
情報誌「岐阜を考える」1998年増刊号
岐阜県産業経済研究センター
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