特
集
論
文
「2020岐阜」に参加して
福田 眞人
(名古屋大学大学院国際言語文化研究科教授)
1 はじめに
どのような社会、地域にも現在があるように未来がある。しかし、歴史家や経済学者が過去をあたかも手に取るように語るやり方では未来は簡単に語れない。それは簡単な理由による。つまり、まだ未来は経験されていないからである。しかし、未来は語られなければならない。
未来を語るためには、あるいは夢想家でなければならないし、また同時に過去の歴史や事実に学ばなければならない。謙虚でなければならないし、また大胆でなければならないだろう。
われわれの研究会(?)に突きつけられた要求は一見簡単明瞭だった。それは、2020年の岐阜を語れというものだった。岐阜に縁もゆかりも無い者にとってそれはまるで月の神秘の解明を迫られたようなものだった。遠くて時々眼につくもの、明るくまた暗いもの、そして、何よりもイメージの乏しいものだった。
しかし、大概の人にとって利害関係の乏しいものはイメージにも乏しい。その乏しさがあるいはもっとも岐阜を語るに、あるいは未来を客観的に語るに相応しかったのかも知れない。
2 大いに語る資格と勇気
未来を語ることは控えめがよろしいという漠然とした心理枠がある。しかし、恐らく多くの仕事を成し得た者は、大なり小なり自己の等身大の図像からはみ出ていたはずだし、それが国や地域や都道府県に当てはまらないと言うことはない。
日本の未来を語るとき、首都移転、遷都という問題が公然と語られるようになったのには日本がある一定の発達を遂げた後で、一種の逼塞感に襲われているからであろう。右肩上がりの経済成長が終わりを告げ、社会の規範がある固定的様相を呈した時、恐らく、人々はそこに大きな安心感を見いだすよりむしろ不安と焦燥を見いだし、さらなる挑戦こそがかつての栄光の再来を保証すると感じるのであろう。
しかし、遷都というのはそれほど恐れるに足る物ではない。日本の歴史を見てみるとよい。藤原京から平城京、さらに近江京、平安京、鎌倉幕府、室町幕府(京都)、江戸幕府、東京と続く。政治の中心が江戸幕府時代は江戸にあったという認識に立てば、すでに京都から江戸・東京への遷都は1603年に成されていたと言って良いだろう。あくまで朝廷の座ということを考えればそれは京の都から東の都、東京への遷都が1868年にあったと言い得る。
すると歴史的変化の中で遷都はそれなりに重要な働きをしてきたことが分かる。
しかし、またその一方でたやすく遷都を語ってはいけないという意見もあろう。その論拠になっているのはおおよそ次のようなことではないだろうか。
第一に、東京が日本の首都であったという長い歴史と、その歴史への愛着、ならびに心理的執着である。第二に、首都東京の国際的知名度とその国際性であろう。たしかに東京は国際化しており、そこにある特定の文化的特性を見出すのは難しい。そうしたものを他の都市、あるいは圏域がすぐさま醸成、獲得できるかどうかは疑わしい。第三に、遷都に要する莫大な費用である。明らかに節約型の遷都を行うといっても、さまざまな施設の建設が必要なことは疑いがない。人も物も動かなくてはならない。膨大な資料も共に動かなくてはならないだろう。さらに交通の便もかなり整えなければならないだろう。
こうした諸条件から、遷都はいわば夢物語のように考えられてきた。しかし、たとえば空前の建設ラッシュによって、国の経済を活性化しようという政策は可能であり、またある意味でただ日本の一地方であったというために様々な意味で割を喰っていた地域が、首都機能全体あるいはその一部を引き受けることで、まったく今までとは違う積極的運営に進める可能性を否定することはできない。
未来を語る勇気はそこにも意味を見出すはずである。
3 遷都か首都機能分散か、はたまた───
これまでの議論の多くは、遷都が首都の全ての機能、政治・経済・社会体制の全てを移すという議論であったが、たとえば首都の機能の一部を移動するというのはどうだろう。行政府の一部の移動、あるいは多府県への部分的移動ということも考えられる。分割移動ということを具体的に示せば、北海道への財政部門、東北圏への水産林業部門、関東圏での郵政部門、東海圏への建設部門、近畿圏への文化部門、四国への福祉部門、九州圏への技術部門、といったものである。もちろんこれはそれぞれの地域にそうした部門の中心がくるということで、このような全国への展開ということはすでに英国で少なからず行われていることである。電子情報化が進行している現在、必ずしも各々の中核が東京にある必要はないだろう。それゆえ時代の変化がこうした議論に現実味を帯びさせたと言える。岐阜が、「東京から東濃へ」というキャンペーンをしているのなら、その将来計画の中に、一部担当というシナリオがあってもよいだろう。すると、岐阜が強い部門、領域が次第に明確になってくるに違いない。例えば、航空宇宙産業を例に取れば、岐阜は恐らく全国で最もその技術と生産の集中している地域であろう。未来の宇宙事業はすべてこの地域から発信するという計画を立て、それに付随する高度の情報産業さえ担うとしたらどうだろう。
4 県域から圏域へ
江戸時代から明治維新への廃藩置県の動きの中で、しかし、藩は多少の動きはあったとはいえ、その姿を相当留めたと言わざるをえない。江戸幕藩体制では、隣接する藩を互いに監視させ仲違いさせておくことは、その統率力を維持する上で巧妙で実際的な政治的手法であった。しかし、明治以降すでに150年にもなろうとする2020年には、もはやそのくびきは取り払われてしかるべきである。
それは、遷都などという一見大層な問題と取り組む際のみならず、もっと低い日常レヴェルでさえ、もはや無視することができない状況であると考える。
たとえば岐阜の現状を見てみよう。昼間は愛知県に通学、通勤している人々が、夜になると岐阜に戻ってくる。休日には、県の北部の山間地に休養に出かけるかも知れないし、あるいはショッピングにまたまた名古屋市に出かけるかも知れない。電力は富山から、野菜は長野から、レジャーには三重県の伊勢志摩に出かけるかも知れない。つまり、用途目的によって県境は次第にその強力な意味を持たなくなりつつある。それはテレビの普及にもよるし、教育の現状にもよるであろうし、また電子情報化の極端な進歩にもよるだろう。
既に述べた、全国を部門別にわけて政府の機能を分散するという考え方は、実は別の日常的生活の中で、もっと小さなスケールで行われてきたのだし、また今後もそれは変わらないだろう。そのことは、行政上の分割をも時に超越した判断が今後求められるケースが増大するだろう可能性を示してもいる。こうした事態に対応するために、いわゆる県益から圏益への視点の転換が要求されているのかも知れない。それは、新しい排他的な地域の形成ということではなく、より積極的な地域的行政への転換を意味している。
5 岐阜を考える
政策立案者と実行者にとっていつも問題で気がかりなのは、本当にある政策が社会や住民に求められているものなのだろうかということである。時に政策立案・実行者は、長いスパンで考えた公共の利益のために十分な思索と決断をもって、ある新しい政策を実行しなげればならないことがある。そうした、恐るべき大胆な一歩を踏み出すにせよ、住民の意思の一部なりとも知った上で行動に出ることが出来ればそれに越したことは無い。
そこで、本当に不意に住民意思調査をすべきだという考えが浮かんだ。アンケート調査である。大概、アンケートというのは回収率が悪く、またその内容は誘導的であることが多い。かつて東京で友人が住民意識調査会社に勤めていた関係でその種の裏話は少なからず聴いている。つまり、彼の言うところを信じれば、アンケート調査においては、調査項目の設定方法で、いくらでも期待される調査結果を出しうるし、また、項目の中に巧妙に議会立候補者に対する意識等も調査されうるということだった。すると、次の選挙でのおおよその得票率さえ割り出すことが出来るというのだ。
今回の大規模な調査は、成功裡に終わったと言ってよい。その中で、期待された通り、岐阜のイメージは少し遅れた、名古屋の影に隠れた存在だった。しかし、それは正しいのだろうか。その結果を見ると、岐阜はまるで世界の構図の中での後進国ないし発展途上国というふうに見える。
ところが、よくよくアンケートの結果全体を俯瞰してみると、用語と用語、説明と説明の合間に、ほのかにまた明らかに、満足、現状維持といった姿勢が垣間みえる。そこには諦めの心理があるようには見えない。むしろ、あるがままを肯定し、受け入れている姿が浮かび上がってくる。つまり、岐阜は悪くない、という気持ちがある。その点を強調する必要はあるかも知れない。
しかし、現状満足と言っても、人間は新しい物があればあるで欲しいわけで、そこに完全な現状維持というのはないということが分かる。結局、選択する県民は、その選択によって将来を規定するわけだが、意外と覚めたそれでいて現実的でヴァイタリティーのある県民であるなという感想がある。また、静かで自然豊かな飛騨地域、その恩恵を受けつつ工業地帯の後背地として富の分配も受けつつある県の南部地域、東濃地域という構図も明確である。
行政に全くの門外漢である私が、このような研究会に参加させていただいて、非力とはいえ研究報告書の一部を担当させて頂いたのはいろいろな意味で貴重な体験だった。その中で、行政担当者にとって当然将来計画のシナリオに含んでおくべき選択肢が欠落していたり、またその選択肢に対する姿勢の柔軟さの欠如に遭遇して驚愕を感じざるをえなかったという風な体験よりは、むしろ、議論の組立方、方向付けの妙を見せて貰ったことが有り難かった。少々褒めすぎの感なきにしもあらずだが、よくこれだけ数値を並べて語ることができるなという感慨から、よくこれだけ詳細な分析、考察が可能だなと感心したものである。
ただ残念なのは、時に研究会への岐阜県側の出席者の中から、もはや東京からは何も学ぶことはないという意見がほの見えたということである。それは、つまりは、名古屋からも、京都からも、大阪からさえも学ぶことはないということである。本当にそうだろうか。自治体経営という視点から、これらの自治体から学ぶことはまだまだあると思われるのだが。県域から圏域へと視点が移るとき、こうした姿勢はもっとも要求されるものだろう。
6 未来とイメージ
どのような将来計画を策定するにせよ、できるだけ官僚臭さは払拭しようと心がけたが、それはおそるべき数値の多さと未来を語る饒舌さに圧倒されたと言ってよい。つまりこれが近代日本をある意味で支えてきた官僚かと感慨を新たにしたものであるが、それとて未来を語るほんの一つの道筋にしか過ぎず、それゆえ万能ではない。
まずイメージより始めよ、というのが私の主張であり、その意義ついては今も疑いを持っていない。私は、厚顔無恥にもいくつかのキャッチ・フレーズを考えだし、その時だけ、真にこの研究会にお役に立てたのではないかという気がした。それは笑止千万なことに、たとえば、「日本の臍(へそ) ー岐阜」、「Mother Forest Gifu」とか、さらには「自然と伝統の岐阜」とかいったもので、 陳腐(ちんぷ)極まりないものだが、考えている内にそういう気がしてくるから不思議だった。
近年、世界的な運動選手が多かれ少なかれ、勝利の瞬間への流れをイメージ・トレーニングすると聞いて、なるほど一種の洗脳かと納得している。岐阜を変えるにせよ、世界に冠たる情報産業中心国にするにせよ、また静謐(せいひつ) で快適な人間らしい地域の形成を目指すにせよ、まず信じる目標が必要であり、その方向を検討し、政策を策定し、時間割表を作成する必要がある。しかし、なによりも必要なのは、計画全体に深く関わる人々の意識が、その恩恵を被る人々と同様に希望と目的意識に燃えていなければならない。それには、イメージづくりが不可欠であろう。
それは、ほとんど具体的な情報を欠いたものであってもよいかも知れない。この一年程の間に、さまざまな都道府県が、膨大な費用をかけて新聞に自分の広報スペースを展開している。そのほんの一部を見るだけでも、不思議な程イメージに固執しているのが分かる。さらに、その隅にささいな懸賞欄を設けて、読者の注意を引こうとしているのがいじましい。
このような新しい動きは歓迎されるべきものなのかも考えてみる必要がある。つまり、これはかつての幕藩体制への逆戻りではないか、という危惧である。それほど事態は深刻ではないが、しかし、私の主張する県域から圏域への拡大主義には馴染まない。またその一方で、いつも人と人が出会うときに語られる県民性ということを、今後もずっと引きずっていく可能性がある。それは、もう一歩進むと、国民性を云々(うんぬん)しないと自在に世界の国々と友好を結べない悲しい性(さが)に似ていはしないか。
県を開くことは国を開くことであり、それは心を開くことに他ならない。
情報誌「岐阜を考える」1998年増刊号
岐阜県産業経済研究センター
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