野口 雨情の足跡
文・道下 淳 (エッセイスト)
野口雨情(1882〜1945)といえば、民謡「波浮の港」や「船頭小唄」童謡「十五夜お月さん」「四丁目の犬」などの作詩でおなじみの詩人である。いま、この詩人を見直そうといった動きがある。先日も愛知県の研究者から、そんな意味の電話があった。
色紙
佛佐吉さま佛でくらす
たれも佛で世をおくれ 雨情
明治以降、古くから伝えられてきた文化が「時代にそぐわない」として、消えていった。民謡もそのひとつ。これではいけない---と、北原白秋や雨情らが中心となり、新民謡運動を展開した。並行して、童謡運動も進められた。以上のような背景のなかで雨情が手がけた岐阜県関係の新作民謡は、「定本野口雨情(以下定本と略記、未来社発行)」によると、次の通りである。
(かっこ内は発表年)
岐阜 | 「伊奈波音頭」(昭和3年)・「長良節」(同) | |
大垣 | 「大垣小唄」(昭和6年)・「大垣音頭」(同10年) | |
養老 | 「養老小唄」(昭和5年) | |
笠松 | 「笠松小唄」(大正15年)・「笠松機場唄」(同) | |
羽島 | 「竹が鼻小唄」(大正15年) | |
関 | 「関音頭」(昭和5年)・「関小唄」(同) | |
下呂 | 「下呂小唄」 |
など。このほか高山と揖斐の詩がある。
養老には「養老小唄」のほか「養老音頭」があると、「岐阜県の民謡集(昭和31年県観光連盟発行)」に記されている。しかし「養老音頭」は『雨情の詩作とは、いささか疑念があり、本書には採らない』と、「定本巻五」の解題は述べている。どこでどう間違ったものだろうか。先年養老町へ出かけた折、雨情の民謡が話題になった。そこでこの話をしたところ、「あれは絶対に雨情さんの作品」と、強調される古老もあった。このほか竹鼻にも「笠松機場唄」とほぼ同じような内容の「機場唄」があり、前記民謡集に収録されている。
作詩のリストをみると、雨情の民謡は岐阜・西濃方面に目立ち、作詩の時代は大正末年から昭和初年に集中している。これは岐阜市と今の羽島市竹鼻町に、雨情の熱心な後援者があり、その人たちの紹介により周辺市町村から新民謡の作詩依頼があったためという。
そのひとり岐阜市本町の服部銀次郎さんは、文学を愛した人である。雨情や白秋がよく同家に泊まった。そんな時は決まって地元の文学青年たちが集まり、話を聞いたり、文学論を闘わしたという。特に雨情はひん繁に同家を訪問している。親交を結ぶようになったのは大正10年ごろ、服部さんらが雨情に講演依頼をしたのがきっかけという。
筆者は昭和25年ごろ服部家で聞いたなかに、雨情は植木が好きだったので「のむらもみじ」や「つばき」などを送った話があった。ところが「定本巻六」に『岐阜から鉄道便で多分運送店から配達になろうと思うが、植木が届いたら私が帰るまで荷作りのままにして水を充分かけておくよう願います』と書いた雨情のはがきが、写真で掲載されている。これは服部家から贈られた植木だったのかも知れない。
また伊奈波神社の神威をたたえた「伊奈波音頭」は、作詩・作曲からパンフレット代、発表会の費用など、服部さんの寄付によったものといわれている。
大正12年にも雨情が来岐、講演している。このとき竹鼻町の医師 糸井川勝男さんが来場。この後、柳ヶ瀬の小料理屋で行われた懇談会にも出席した。そこで糸井川さんと雨情は意気投合し、2人の親密な交際が始まった。糸井川さんは上京すれば野口家へ顔を出し、雨情も来県すれば立ち寄り、ときには泊まったこともある。
あまり知られていないことだが、「笠松小唄」など羽島郡笠松町の民謡は、糸井川さんの世話でできたという。また木曽川の対岸愛知県・起町(現尾西市)の「織姫音頭(からり節)」作詩のときは、糸井川家から起渡船で木曽川を渡り、起町へ通ったそうだ。
昭和3年発表の雨情民謡のなかに、「旅三章」と題するよい作品がある。「竹が鼻にて」「高松にて」「養老にて」の、三ヶ所を歌ったものである。うち「竹が鼻にて」を紹介しよう。
たれも来ないが
垣根のそとへ
鼬ァはだしで
今日も来た
昼寝するまに
糸でも引きな
軒の蜘蛛さへ
糸をひく
仏 佐吉さま
仏で暮らす
誰れも仏で
世をおくれ
雨情は大正15年と昭和3年、羽島高女(現羽島高校)で講演している。
茨城県のなまりが強く、涙を出しながらの講話に、女学生たちももらい泣きをしたこと。自作の詩を即興的に節をつけ、踊るような調子でうたったことなどが語り継がれている。
雨情は作品もそうだが、その生活態度も、実に人間味あふれる人であった。