飛騨の春慶塗漆器と一位一刀彫・一位細工
元岐阜県博物館長
廣田 照夫
飛騨は山国であった。縄文時代、そこには生き生きとした木々が生い茂っていた。この生い茂った木々を生活に利用するための技が生まれた。飛騨の匠のはじまりである。
それで、飛騨は木の産業が育ってきた。昔は、神社仏閣、いわゆる宮大工や彫刻師が大勢いたし、住家を建てる大工も大勢いて、彼らは「飛騨の匠」と呼ばれて、諸国で重用された。近代にいたり、テーブルや椅子や応接セットなど、いわゆる「脚物」と呼ばれる家具生産が育ってきて、飛騨の主産業となったが、一方で木目の美しさを生かした「春慶塗漆器」やイチイの木(アララギともいう)を材料とした一刀彫りの彫物や細工物が、飛騨の特産物として盛んに生産されるようになってきたのである。うち家具生産は、すでに本誌夏季号(90号)であげたから、ここでは春慶塗漆器や一位一刀彫・一位細工について紹介しよう。
春慶塗漆器
通常「飛騨春慶」とか、「春慶塗」などと呼ばれているが、これだけでは本当は何のことかよく分からない。これは何れも省略されているからで、正しくは「飛騨の春慶塗漆器」である。
徳川家康が江戸幕府を開いた(1603年)頃、飛騨の領主
金森長近に仕えていた成田三右衛門が、鳥かごに新技法による漆塗りを施して、二代目可重に献じたところ、可重はこの塗りに「飛春慶」と名づけて珍重したと伝えられている。また、高橋喜左衛門という大工が、サワラの木を割ったところ、その割れ目がきれいだったので、盆に仕立てて金森重近(可重の長男で宗和と称し、茶道をきわめ、宗和流を開いた)に献じ、それに成田三右衛門が春慶塗りを施したと伝えている。その子成田三休は、この春慶塗の技法を大成し、元祖といわれている。成田家は代々春慶塗師としてその技を伝えたが、ほかに山打三九郎らの名手が輩出している。
明治になって、杉下太郎兵衛が京・大阪方面にまで宣伝し、福田吉郎兵衛や福寿拙斉らが販売に努め、全国に「飛騨春慶塗漆器」が知られるようになった。
春慶塗漆器は、木地(素地)師と塗師に分かれ、木地師はヒノキ・サワラ・トチなどの木で、いろいろな形をつくり、それをトクサ(草の一種)やペーパーでみがいて、塗りへ回す。塗師は目止めをして色をつける。色にはオーラミン(黄春慶といい、通常はこれである)ローダミン(紅春慶で、肌が赤い)がある。その上にカゼインを2、3回塗って下地をつくり、その上をホルマリンで固め、生ウルシを塗って仕上げる。
昭和16年(1941)に、白川政之助らによって飛騨春慶漆器工業(株)が設立されたが、第二次大戦となった。終戦後、昭和26年(1951)の製造卸業者は10名であった。飛騨春慶塗漆器は、昭和50年(1975)に他の漆器産地に先駆けて、「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、「伝統的工芸品」に指定された。『岐阜県の商工業』(岐阜県)によれば、平成7年における事業所は103で、生産額は120億円である。
一位一刀彫・一位細工
木の国・飛騨の象徴であり、「県の木」に指定されているイチイの木は、別名アララギともいい、イチイ科に属する常緑針葉樹で、そのつややかな木肌と美しい木目が特徴である。本州中部以北、北海道、四国の深山に自生している。昭和50年(1975)6月に、県内の大野郡高根村日和田の「一位森八幡神社社叢」が国の天然記念物に指定されている。また同郡荘川村の「治郎兵衛のイチイ」は、幹回り約8メートルで樹齢およそ2000年以上と推定される全国トップのイチイとして、平成6年(1994)に国の天然記念物に指定された。
ところで、「イチイの木」には、一つの伝説がある。大昔、仁徳天皇のとき、飛騨の国に両面宿儺という鬼賊が横行し、天皇の命令に従わなかったので、ワニ氏のナニワ根子武振熊という将軍が退治した。そのとき、降服のしるしに、イチイの木で作った笏(神主が祭儀のときに用いる細長い板)を仁徳天皇に献上し、天皇はこの木に「一位」の位を授けたという話である。一位一刀彫は、樹齢150〜500年のイチイの木を用いて、4、50種のノミによって、荒々しいタッチで翁面・般若面や観音像・翁像・十二支などを彫った独創的な彫刻物をいう。一位細工は、指物師によって硯箱・箸・笏・短冊掛けなどの細工物のほかに、「一位笠」などがつくられている。
一位一刀彫は、江戸末期頃江戸に出た平田亮朝は、日本橋の袋物問屋のお抱え根付師として称賛され、飛騨根付師の元祖となった。また、平田亮朝の流れをくむ松田亮長は彫刻に長じ、諸国の名物彫刻を研究し、動物彫刻に優れ、とくに蛙と蛇を得意とした。飛騨一刀彫の大成者として、72歳で没した。彼の流れに、広野亮直、津田亮貞、江黒亮春らが輩出した。一位一刀彫は、昭和50年「伝産法」により、「伝統的工芸品」に指定された。
一位細工で特筆すべきことは、さきの伝説のように歴代天皇の即位に際して、飛騨からイチイの笏を献上することを例とし、近くは明治・大正・昭和・今上天皇の即位式にも献上されていることである。
また、金森重近(宗和)がイチイの木で、茶道具、硯箱や短冊箱などを作って、都の公卿たちに送ったといわれ、江戸末期には一位の笠や箸が作られて、諸国に売りさばかれていたという。『岐阜県の商工業』(岐阜県)によれば、平成7年における事業所数は100で、生産額は3.5億円である。
同書によれば、春慶塗漆器・一位一刀彫・一位細工業界の現在の問題点として今後の方向は、1)
後継者の育成、原材料の確保、販売力の強化 2)伝統技術・技法の保存
3) 時代のニーズにあった新製品づくりのための加工技術、デザイン研究への努力が必要だとし、とくにイチイ材の入手困難が予想されるので、3)に対する積極的な努力が必要だとしている。
(次回は、関の美濃刀)