飛騨路の吉江孤雁
文・道下 淳
岐阜女子大学講師
昭和の初めごろまで活躍した仏文学者に吉江喬松(たかまつ)がいる。号を孤雁と呼び散文詩人として、また自然をたたえる数多くの紀行文を発表したことでも知られている。この人が明治39年9月、友人3人と長野県側から御岳山(標高3063メートル)を越えて飛騨入りをし、安房峠から再び長野県側に出ている。この時の紀行文二篇が、当時人気の高かった文集『旅路』(大正4年刊)に収録されている。うち木曽福島から益田郡小坂町濁河温泉までを記した『御獄の裏表』の一部は、戦前の中等学校課外読本などに紹介されたため、県下でも比較的知られている。しかしその後篇とも言える『飛騨路』は、全く忘れられた存在である。ここには明治末年の飛騨の自然が、生活が描かれており、当時を知るよい手がかりにもなろう。
吉江らの一行は御岳六合目で一泊、小雨のなか頂上を越え濁河温泉にたどりついた。翌日も雨のなかを歩き続け、高根村西洞に到着した。ここで『御獄の裏表』は終わっている。下山のルートははっきりしないが、今の鈴蘭高原辺りを歩いたのだろう。紀行文『飛騨路』は、西洞から始まる。
『馬は(中略)体じゅうに波を打たせながら、何人(たれ)も引かないのに、のそりのそり先に立って歩いて行くと、後ろから背負子を背に雪袴に草鞋(わらじ)ばきの若い男女がついて、家の角を回って見えなくなった』
『日の光は次第に広く、峰から森、狭い谿(たに)、深い渓流の上までも射し込んで、目に入るものは皆透きとおるくらいに鮮やかだ。山の下の細徑(こみち)は谿の上をめぐりめぐって行く』
高根村地方は、かつて木曽馬の産地であった。だから、ここでも馬の記事がよく登場する。いずれも西洞を出た辺りの記述である。40年ほど前、私もこの道を通ったことがある。西洞川沿いの山道を下ったのだが、空がだんだん広くなり、林を吹き抜ける緑の風のうまかったことを、今でもはっきりと覚えている。
西洞川・秋神川沿いに下ると、川幅の広い益田川に出る。この益田川沿いに走るのが、野麦街道である。吉江がここを通ったところ、「糸引きサ」と呼ばれた飛騨の娘たちも、この街道を通って信州へ働きに出かけている。これは山本茂実著『ああ野麦峠』に詳しい。野麦街道は信州と直結する幹線道路だけに、道幅もやや広く山中では見えなかった電柱も並んでいた。長野県人である吉江は、ふるさとと直結する街道を歩きながら『久しぶりで知人に逢った気がした』そうである。
現在、街道沿いには高根・朝日両ダム湖が広がり、道も大改修された。さらに冬の国体開催のため、一部で道路工事なども行われている。この付近は、さらに変化していくだろう。
美女峠を越え、高山の町に入る。吉江は少年のころ飛騨から流れてきたという老女が、よく高山の照蓮寺や八幡神社の話をしてくれたのを思い出した。『物語の国へでも入って行くような思い』がしたと、彼は書いている。
『狭い道の両側の家の屋根は低く何処(どこ)か黒いような影が伴っているようで、荷車、馬、子供、犬などが忙しそうにしているが、妙に寂しい。そして一種の懐かしい旅情を覚えさせるものだ』
『高山の町は思ったよりも整然(きちん)と調って入る者の気を引きしまらせるような、生気の充ち充ちた町だ。(中略)橋の際に柳が立ち並んで、夜の雨でぼうっとしている。岸の家々の軒灯篭(のきとうろう)が水にちらちら写っている』
戦前、高山を訪れた人たちの多くが、吉江と同じように懐かしさ、旅愁をこの町に感じていたらしい。それが戦後の観光地としての高山ブームにつながったと私は思う。
作家の長谷川伸や詩人の田中冬二らも、高山での印象を記している。いずれも吉江と共通する。うち長谷川は戯曲『中山七里』(二幕五場)のなかに、うまく生かしている。その「大詰」の第一場『飛騨高山の街』の舞台設定を、次のようにする。
『宮川の岸に並ぶ家々に灯が点ぜられ、遠くに見える城山の麓と中腹とにも、灯が点々と見える。宮川の流れに灯が投影している。胡弓の咽ぶ如き音色、四ッ竹の悲しげな響きが、初めは遠く聞こえ、唄が近くなれば音も近くなる』
私は昭和初年の高山ほど、胡弓の音色のふさわしい街はないと思う。
吉江は高山に一泊、霧雨のなかを吉城郡上宝村平湯を目ざし出発した。当時難所といわれた平湯峠を、ぬれネズミになって歩いた。峠にさしかかると『路は泥深く、牛の足跡に水が』たまり『熊笹が次第に深く茂って』歩きにくかったとする。現在では平湯トンネルが完成、楽に通れる。県境の安房峠もトンネルの工事中で『年々この山道で春先1人や2人死人のない事は無い』と吉江が記したことも、遠い昔の話となろう。
戦前の高山の町、中央の通りは一之町筋、右の寺院は高山御坊