
岐阜での松岡荒村
文・道下 淳
岐阜女子大学講師
今の岐阜市徹明小学校付近は、明治末まで大宝寺野と呼び、松林と麦畑が続くひっそりとした岐阜市郊外のムラであった。明治34年3月、同地の濃飛育児院(児童福祉施設日本児童育成園の前前身)に一人の青年が無給の嘱託として勤めた。
熊本県人で、松岡荒村(本名は悟)といった。彼の育児院での仕事は、事務の手伝いと、院の吹奏楽団の指導・募金活動であった。この育児院はキリスト教の伝道をしていた山形県人五十嵐善廣によって、同28年吉城群古川町で設立された。岐阜県下で最も古い児童福祉施設である。翌年、岐阜市郊外の上加納村に移った。
同育児院の募金活動の一つに、地方巡回があった。院児数人と引率者で編成、各地でスライド上映・音楽演奏・講話・詩の朗読などを行い、募金をするものである。スライドは当時幻灯といい、時代の先端をゆく映像文化であった。東京・京都などの風景写真のほか、育児院の生活ぶりなども紹介した。音楽演奏は院児による吹奏楽団で、レパートリーは「抜刀隊の歌」だとか「庭の千草」・「鉄道唱歌」など。洋楽器が珍しかったため、「育児院の軍楽隊」として親しまれた。
この巡回班が京都で募金活動中、当時同志社高等部に在学していた荒村が五十嵐を知り、卒業とともに育児院にやって来たのである。荒村は京都時代から数多くの詩や論評を書いた。特に岐阜時代の作品に、見るべきものが多い。そのなかに「残逆の世に寄する歌」と題する九節からなる長詩がある。次はその第一・第二節である。
人の浮世の半面に坐る/金殿よきけ玉楼は耳をかたむけよ/大厦高楼は宜しく爾の首を垂れよ/嗚呼爾等残逆の鬼
酒池に棹し肉林に戯れ/爾等が放歌乱舞のどよむうらには/飢えに泣き寒さに凍えて/咽泣日夜に絶ゆるなき様を知らずや
これは岐阜県時代の作品と推定される。おそらく濃飛育児院での「飢えに泣き寒さに凍え」る子供たちに思いを寄せ、無理解な富者を厳しく批判したものだろう。当時育児院のほとんどが、善意の寄付で運営されていた。濃飛育児院も例外ではなかった。五十嵐院長が院舎を飛騨から岐阜郊外に移転させたのも、そのためであった。その日の食べ物にこと欠くときも、ままあった。そんな背景を与えると、この詩の持つ意味は大きい。
荒村は「石川啄木以前の社会主義詩人」として戦後評価されるようになった。また評論家小田切秀雄氏によれば、詩人北村透谷のラディカルな継承者と位置付けられている。このような詩などが、あったためだろう。
彼自身も透谷に私淑していた。「相国寺の幽林に透谷子を懐う」と題するエッセイもあるほど。また「初春追懐の歌」など、透谷の影響が強い作品もある。もちろん、これは岐阜時代のもの。十一節の長詩であるが、うち第二・第三節を紹介しよう。
窓に流れて来る風は/冷やかなれどやわらかに/うれしき鳥の啼く声を/飄はせつつ来るかな
おもえば過ぐる一年を/旅より旅にうらぶれつ/今はた美濃にまよい来て/大宝寺野の仮住居
荒村は明治35年10月、大垣出身で大垣高女の教師だった志知文子と結婚する。彼女は京都時代からの恋人で、仲人は五十嵐院長夫妻。彼もクリスチャンだったため、キリスト教方式での挙式であった。結婚式当日、十二節からなる美しい長詩をつくった。「秋の千草(祝の日」という題がつけられている。最終の二節を取り上げる。
楽しき宵の星かげは/いとまばらなる大空に/わが世の影もこれよりと/澄めるは秋の半ば月
厳かなる祈りのもとに/君の血はわが手に燃えぬ/さなり今より幾百年の/長き旅路にいで行かむとて
荒村夫妻は翌年上京するが、彼は岐阜時代の無理がたたり胸を病み、同37年7月、25歳死去した。
その翌年、唯一の著作集である「荒村遺稿」が文子や友人らによって刊行された。しかし国歌「君が代」に関する評論などにより発禁処分となり、戦後の再発掘まで忘れられていた。この「荒村遺稿」が、彼と岐阜とを結びつる唯一の証といえる。なお文子は、後に婦人運動家西川文子として活躍する。
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| 復刻された「荒村遺稿」 | 松岡荒村(荒村遺稿より) |