論 文 |
日本型雇用システムの変容と労働組合の課題
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井 上 雅 雄 (立 教 大 学 教 授)
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はじめに |
国際的な競争条件の変化による経済成長の停滞と企業間競争の激化に促されて、 これまで日本的雇用慣行といわれてきたものが変容を迫られている。 現在、 大手企業を中心として模索的に試みられている雇用・人事管理政策の改革の内容は、 人事処遇の個別化と雇用形態の多様化とに代表させることができるが、 しかしこのいずれもがこれまでの日本企業の雇用慣行と全く異質の内容をもって登場してきたわけではない。 人事政策についていえば、 賃金、 昇格・昇進における年功的処遇とはいっても、 職能資格制度を軸に人事考課を織り込むことによってそれに一定の格差をつけてきたのであって、 字義通りの年功序列は崩壊してすでに久しい。 また雇用形態の多様化についても、 日本の企業はきわめて早くから正規従業員の雇用の硬直性を前提として、 それに代替するパートタイマーや臨時労働者、 社外工、 季節労働者などを活用してきたのであって、 今日の雇用の流動化は、 その直接の延長線の上にある。 そしてそのいずれの施策についても、 労働組合は、 前者に関してはその年功的運用によるミニマム保障定期昇給における一律昇給部分やベースアップにおける一律配分部分の確保あるいは資格等級の最長滞留年数の設定などを、 後者については正規従業員の長期にわたる雇用保障を条件として認めてきたのであって、 それは明示的であれ黙示的であれ、 労使の合意によるものであった。 戦後日本の労使関係の高いパフォーマンスは、 したがって労働力取引機構としての労働組合の機能の後退の結果であることは否定できない。 その上で、 今日試みられている二方向の施策が、 たとえ本質的には既存の雇用・人事政策の一層の質的深化であるとしても、 しかし労働組合にとっての意味は、 これまでとは大きく異なるということに留意する必要がある。 というのも、 この施策には、 明らかに労働組合の存在自体を無化するようなヴェクトルがはらまれているからであり、 ここに組合が改めて今日の経営側による雇用・人事政策のあり方を問わねばならない必然がある。 |
1 人事処遇の個別化と労働組合 |
現在試みられている人事処遇の個別化とは、 賃金や昇進の決定に際して、 それをこれまでの労働者の長期にわたって形成される職務遂行能力にもとづくのではなく、 彼らの労働の顕在的な成果や業績に直接リンクさせて行う、 というのがおおよその内容といってよい。 それが個別的といわれるゆえんは、 例えば賃金については、 年俸制に象徴されるように、 個々の労働者が上司との話し合いによって期間の自己の達成すべき目標を設定し、 その達成度にもとづいて賃金の額が労働者ごとに決められるからである。 労働組合の側からすれば、 それは労働条件の個別的決定ということであり、 その集団的決定を軸に成り立ってきた企業別労使関係の根幹を揺るがすものにほかならない。 もっとも、 昇進については、 特段の理由がない限り、 組合はこれまでもそれを基本的に経営側の人事権として認め、 その決定について積極的に発言をするということは少なかったが、 今後、 年功的側面が払拭されて業績主義的に純化されるならば、 その個別化が一層進行することになるのは不可避であろう。 こうした事態の進行に対して、 組合はいかなる対応が求められるのか。 誤解を恐れずにいえば、 人事管理の個別化というコンセプトがはらむ最も大きな問題は、 いわばその短慮性にあり、 そこに潜在している人間観、 そこに予定している人間類型、 そしてそれを規定している思想にある。 端的に、 個別的人事管理は、 1年なり半年なりきわめて短期の目標値の達成を問うものであるから、 結果だけがすべてというその成果至上主義的性格は、 結果もむろん重要ではあるけれど、 しかしそこに至るプロセス、 成果を出そうとする努力にこそ価値がある、 とする日本社会がながきにわたって営々と育んできた勤勉の哲学とそれを支えてきた人間類型と思想とを、 真っ向から否定する契機をはらむものにほかならない。 それは勝てば官軍の類いの、 手段を選ばぬ勝者を勝者のゆえだけをもって称揚するがごとき、 およそ倫理性や精神性を伴わない人間類型の跋扈を許す危うい傾きを有している。 もともと日本の経営の成功とは、 ほとんど愚直と紙一重の、 誠実にして真摯な圧倒的多数の中位の大衆の日々の労働の営為の所産にほかならないのであって、 ごく例外的な事例を除けば、 一人の傑出したリーダーや突出した一握りの切れ者たちによって支えられてきたわけではない。 だとするならば、 今日の事態に直面して労働組合が堅持し依拠すべき人間類型は、 何よりもまず、 確かに成功を担ったこれら中位の大衆の原像でなければならないであろう。 そこには、 長期にわたる試行と錯誤の繰り返しのなかからしか、 人間の真の力は成長しないという、 至って常識的な、 しかし確かな人間観が横たわっている。 それは空論であり、 それでは激しい競争に勝てないというのならば、 例えば次のような例をあげてもよい。 営業は、 自社の製品・サービスをユーザーに売りこむ仕事であるが、 競争の激化のもと、 価格、 品質、 機能、 納期、 アフターサービスのいずれにおいても、 各社の製品はほとんど拮抗しており、 その差別化はきわめて難しい。 そのようななかで、 何をもってユーザーに訴求しうるかといえば、 つまるところその営業担当者の人間としての価値にならざるをえない。 製品やサービスを売り込むということは、 窮極的には営業 (ウー) マン個人の人間としての価値を売り込むことによって、 顧客の心と感情を揺り動かし、 その共鳴を獲得することなのであって、 そのような営業担当者の地道な努力を抜きにしては、 いかに高度な販売戦略であっても実効性をもつことなどありえないのである。 そして売り込むに値する人間としての価値が、 およそ一朝一夕に形成されるようなものではないことは、 改めて指摘するまでもない。 とはいえ、 社会の隅々まで巻き込まないではおかない情報化の進展は、 より高度の専門職種を生み出し、 それに対応するための処遇上の諸施策を、 経営側が編み出さざるを得ないことも、 また否定しがたい現実である。 新たな人事管理政策の導入の不可避性を認めた上で、 それに対応すべき組合の選択肢は、 当為としてまで含むならば、 レベルと内容において多様である。 まずは目標管理を含む新たな人事管理政策の設計自体に関与・介入するという、 最も高いレベルの参加の仕方がある。 そこで問われるのは、 経営側の政策、 政策理念、 政策原理とは異なるものとしてそれに対置すべき組合の政策であり、 それを支える理念、 原理であって、 そのためには経営側に比肩する構想力が必要である。 が、 これまでは組合にとって難度が高いばかりではなく、 そのような政策策定過程への組合の参加自体が経営側の拒否するところであって、 組合はそれに対して積極的には関与してこなかった。 しかしながら仮に新たな政策の導入を与件とした場合でも、 組合にとって問われるべき事柄は、 決して少なくもなければ容易でもない。 例えば、 個々人の仕事の目標の設定から結果の評価=判定そしてその後の苦情処理までが、 誰によって、 どのような基準にもとづき、 いかにして行われるのか、 またその評価結果に対して本人はいかにかかわることができるのか、 について各々組合は独自のオルタナティヴ=代替策を持たなければ、 交渉のリアリティを欠き、 その実をあげることはできないからである。 そしてそのオルタナティヴは、 当然にも、 例えば成果の評価の客観性とはなにか、 公平性とはなにか、 それを保証する手続きと基準とはいかなるものか、 そこに想定されている人間の能力、 力とは具体的にいかなる内実をもち、 そのいかなる側面を、 いかに判定するのか、 などについて組合側の論理によって構成されなければならない。 それは、 結局のところ組合の構想する政策理念と思想を問うことになり、 交渉はそれと経営側の想定する政策理念・思想とのせめぎあいとならざるをえないのであって、 その限り、 より上位レベルでの交渉との決定的な違いを見出すことは事実上困難なのである。 その上で、 より具体的に組合の取り組むべき課題についていえば、 (1)何よりもまず、 各人が目標を設定して仕事に取り組む前提条件として、 職務 (=持ち場) そのものの選択ができない現状を改め、 本人が配属部署を選べるように変える必要がある。 自分に仕事の選択肢がない状態で、 能力と成果を問われ、 それによって給与格差がさらに広がるのは、 明らかにアンフェアだからである。 社内公募制の確立とその応募・選抜の手続きと基準の形成は、 そのために不可欠であり、 これに仕事の遂行に必要とされる能力開発の機会の制度化も付け加えてよいであろう。 これらは組合にとって、 新たな人事管理政策の導入を認める際の中核的要件をなすであろう。 (2)次に、 各自の達成目標の設定が、 いかに無理なく本人の納得を得て設定できるか、 個人目標設定の妥当性を確実なものにすることである。 そのための一つの条件として、 本人が求めれば、 目標設定の場に職場委員など組合役員の同席を可能とすることができるか否かが問われることになろう。 (3)第三に、 仕事の結果の評価について、 それをいかに客観的かつ公平にするか、 の基準と手続きをルール化することである。 例えばその一環として、 評価を専ら上司だけに委ねるのではなく、 同僚、 部下による相互評価を織り込むことはできないか、 その手続き要件はなにか、 について組合が独自案をもって関与することは考慮されてよい。 これは、 評価の透明性と納得性を高めるための一つの条件であるが、 他方、 そこには同僚同士の人間関係の悪化という重大な危険性もはらまれており、 それをいかに処理するかに組合の力量が問われることになる。 (4)さらに評価結果に対する各人の不満・苦情を受付け、 それを判定し、 必要があれば再評価の実施を命令できる企業内第三者機関の設置を、 労使で合意することが必要であろう。 ただ、 そこに組合がどのように関与するかは一義的ではない。 プレーヤーがジャッジを兼ねることについての社内合意が得られなければ、 組合は機関の適正な運営を監視するにとどめ、 自ら委員などを送るべきではないであろう。 その上で、 労働委員会など社内で処理できない個別紛争処理のための社外の公的機関の条件整備が課題となろう。 (5)最後に、 賃金の変動の上下の幅を極力限定することが、 組合の課題となる。 同一人の年収が年によって半減するような大幅な変動では生活設計も危ういが、 そればかりではない。 過大な格差は、 モラールアップとともにその著しいダウンをもたらし、 蔑みや怨嗟や劣等意識など精神の荒廃をもたらす危険度も高いからである。 賃金の大幅な格差を限定する基本思想は、 依然、 年功を組み込んだ能力主義である。 この考え方は、 戦後日本の労使が試行と錯誤のなかで、 合意し練り上げてきたものにほかならないが、 いま、 この廃棄を打ち出して成果主義に徹底しようとする経営側の試みには、 すでに先述のような人間観とそれを支える思想において重大な問題をはらんでいる以上、 対立は鋭く、 厳しいものにならざるをえまい。 ここでも組合の力量が問われざるをえないゆえんである。 以上、 やや具体的な対応策について略述したが、 留意すべきは、 いずれも組合がめざすべき目標は、 新たな人事政策の具体化にあたっての運用ルールの設定であるということである。 それは、 たとえ経営の政策意図が、 従業員個々人を直接把捉し、 判定しようとするところにあっても、 その運用の実際は、 組合との交渉によってつくられたルールに基づく集団的規制によらざるをえないということにほかならない。 いかに人事政策の個別化、 個人主義化が進もうが、 このようなルール・セッターとしての組合の役割はなくならないのであって、 逆にそれを怠るならば、 文字通り組合は無用の存在となることは、 ほとんど疑いの余地はないであろう。 |
2 雇用形態の多様化と労働組合 |
今日、 試みられている雇用形態の多様化は、 その基本コンセプトにおいて先の人事管理政策の個別化と同一であり、 その中核にはこれもまた短慮性が横たわっている。 総人件費の圧縮とその変動費化をねらいとした今日の雇用形態の多様化は、 有期雇用契約のさまざまなタイプの労働者による、 期間の定めのない正規従業員の置き換えを内容としており、 それは規制緩和の影響を踏まえた、 例えば労働者派遣法の改訂など法制によって支えられている側面も無視できない。 パートタイマー、 派遣社員、 契約社員、 アルバイター、 期間労働者、 臨時労働者これにいわゆる業務のアウトソーシング=外部委託も加えると、 その増大によって、 長期雇用型の正規従業員の量的削減は、 今日、 着実に進んでいる。 しかし、 この問題の組合にとっての難しさは、 もともと自らが正規社員の雇用保障のクッションとして容認し、 その雇用の不安定性と労働条件の低位性を事実上黙認・放置してきたこれら非正規の社員が、 いまや戦略労働力の一翼を担って基幹化し、 逆に正規従業員の雇用そのものを脅かし、 奪うものとなったというところにある。 むろん、 だからといってこのような企業別組合の行動の是非を、 倫理的に問うようなことはできないしすべきではない。 すべての労働者の連帯などという麗しい言辞は、 文字通り絵に書かれた餅なのであって、 まちがって誰かのイデオロギーの宣言書には書かれているかもしれないが、 それは歴史のリアリズムとは無縁である。 もともと狭い利害をともにする職業集団としての出自に規定されて、 労働組合の運動の歴史は、 時として労使の対立に比肩すべき労労対立によって彩られている。 企業別組合が、 雇用保障を求める正規社員の利害を体現した組織である以上、 そして英米とは異なってシニオリティ原理が形成されていない以上、 景気変動の波を吸収する雇用層を抱えざるをえなかったのは必然であったのである。 問題は、 しかしそのツケがいま非正社員の逆襲というかたちをとってあらわれているということである。 この問題の議論の核心は、 企業の競争力を担う人的資源=人材とはいかなるものなのかにあり、 それは、 つまるところ今日必要とされているスキル=技量とはどのようなものなのか、 に帰着する。 現在、 企業が調達を増やしている外部労働力の中心は、 一定の専門能力を有するという意味で即戦力として有効な契約社員や派遣労働者であるが、 その技能の特徴はどの企業にでも適用可能な汎用性にあり、 その限りで一定のレベルを維持しているもののその限界も明らかである。 なぜならば、 外部市場から調達可能な労働力は、 他社もまた利用可能な人材であり、 特定企業に固有の競争力を担いうる独自のスキルを持っているわけではないからである。 企業の競争力を長期にわたって担うことのできるスキルは、 多かれ少なかれ企業特殊的な性格を持たざるをえないのであって、 長期雇用にもとづく教育訓練=能力開発という日本企業に典型的な人材養成方式は、 その有効性を今日もなお失ったわけではない。 この点は、 例えば、 パートタイマーの基幹労働力化が意味するものが、 当該企業に比較的に長期にわたって勤務することによって培われたスキルの活用にほかならず、 企業に固有のスキルがその戦略化の中心的要件であることを想起すれば明らかであろう。 しかしながら企業に成果主義志向が強まることは、 短期の即戦力の中途採用を増加させることによって、 これまでのように時間をかけて人材を育成する志向性が弱まることを意味する。 が、 留意すべきは、 企業が即戦力として正社員を中途採用しようとする場合でさえ、 評価の対象とするのは、 それまで勤めていた企業で形成されたスキルであり、 それをもって達成した実績なのであって、 前職で大した成績を上げられなかったようなスキルの人材を採用することはありえないということである。 その意味では中途採用の増加は、 他社に基本的な教育訓練費用を負担させた上で、 自社に固有のスキルを付加して活用しようという企業行動の増大であって、 フリーライダーの汚名は免れがたいというべきであろう。 したがってここでも労働組合が依拠すべき規範は、 あくまでも長期の人材育成方式であり、 それに依拠して経営側の新たな雇用政策がはらむ短慮の危うさを執拗に追及することである。 その上で、 いわゆる雇用のポートフォーリオといわれる雇用形態別の最適人材比率の議論については、 そのいかがわしさの指摘にとどまってはならず、 業務内容の洗い直しによる厳密な格づけを基礎に、 独自に算定した職務=職場ごとの必要正規社員比率をもって経営側に対峙すべきである。 かつて日本の組合は、 主として現業部門でではあるが、 職場ごとの要員の充足を要求して闘った経験をもっており、 今日の新たな雇用改革の動きは、 そのほこりにまみれた経験を掘り起こし、 対案づくりに生かすチャンスである。 しかしそれだけでは雇用の流動化の激浪に抗することはできない。 派遣労働者や契約社員の導入が不可避であるのならば、 その業務内容、 受け入れ部署、 受け入れ条件、 人数、 期間、 報酬などについてあらかじめ協議し、 それを限定する必要がある。 それはパートタイマーについても同様であり、 労働条件の引き上げを内容とした新たなルールの設定をはかるべきであろう。 しかし、 その場合でも、 組合は、 今日まことしやかに叫ばれている、 必要な人材を、 必要なときに、 必要な量だけ雇い入れ、 必要でなくなったら契約を打ち切るという、 いわゆる労働力のジャストインタイム (JIT) システムなどでは、 企業の長期にわたる競争力はおよそ維持できないということを、 はっきりと主張しなければならない。 今日、 明日に役に立つものは、 明後日にはもう有効ではなくなる程度のスキルでしかなく、 そこに競争力を依拠する愚を犯してはならないからである。 その上で、 これまで事実上組織化の対象から放置されてきた派遣労働者とパートタイマーの組織化が企てられる必要がある。 前者は企業横断的な職能別組合として、 後者は企業別組合の支部として、 労働条件の引き上げの主体としての役割を担うことになるが、 当然にも正社員組合としての企業別組合との利害の調整にはいささか時間がかかることは避けられまい。 他方、 少子高齢化の進展のもと労働力不足が避けられない中長期的な労働力需給の動向を見据えて、 組合は、 第1に、 米国のような年齢差別禁止の法制化のための政策闘争や定年制の廃止のための闘いを組むべきであり、 それまでの暫定措置として、 年金支給開始年齢の引き上げに合わせて定年延長を獲得すべきであろう。 そして第2に、 実効性の希薄な男女雇用機会均等法を実体化するべく、 採用・配属・昇進・賃金における男女間格差の廃絶と、 とりわけ出産・育児後の職場復帰の条件整備など女性労働者の長期雇用を可能とする環境条件を整える必要がある。 このような多角的な試みを抜きにしては、 労働組合の今日的存在意義──その機能の蘇生はありえないというべきであろう。 |
おわりに |
歴史の教えるところによれば、 労働組合はすぐれて保守的な組織である。 保守的であるがゆえに急速な環境変化にはまことに弱い存在であった。 しかし変化に全く適応せずしては労働者の利益を守ることができないのも、 否みがたい事実である。 それゆえ労働組合は、 いつの時代にも変化への適応過程において、 保守的ゆえに強靭な自己の原理との強い軋みを経験せざるをなかった。 経営環境の変化に適応しようとして試みる企業の様々な改革を、 ほとんど抵抗せずして容認することは、 したがって組合の原理を自ら捨てるにひとしい。 狭隘なイデオロギーにながきにわたって緊縛された後、 経営側の選択行動をほとんど無批判に容認してきたがために、 結局は自らの足元を掘り崩してきたのが日本の労働組合の戦後過程であった。 が、 充分銘記すべきは、 経営の環境適応行動が、 合理的かつ的確である保障はいささかもないということである。 近くはバブル期の無定見な企業行動を見ればそれは明らかであろう。 今日の、 短慮としか言いようのない雇用・人事改革も、 あわただしく試みる企業は多いけれど、 それがいかなる中長期的な戦略と展望そしてそれを支える政策思想のもとになされているかは、 はなはだ不明なのである。 実際、 1990年代に入って管理職に導入された年俸制が、 真に有効に機能している実例をほとんど聞いたことがない。 むしろ評価の不透明さと不公平が職場の混乱を引き起こし、 制度そのものに対する不信を増幅させている。 日本の企業統治の構造からして、 株主のチェックがきかない以上、 労働組合は従業員の名によって経営のチェック機構としての役割を果たさなければならないにもかかわらず、 それは全くなされてこなかった。 陰湿なリストラが跋扈し、 「過労自殺」 が明らかに増大しているにもかかわらず、 組合が経営者に、 それではあなたの経営責任はどうなのかと真剣に追及したこともない。 そもそも長期雇用による内部養成方式によって最も大きな恩恵をこうむってきた経営層が、 それに見合う会社への貢献を果たしえなかったがゆえに、 今日の事態を招いたのではなかったか。 労働組合は、 もはやこうした領域にまで発言しチェックのメスを入れることによってしか自らの社会的蘇生はありえない、 という事態の深刻さに深く思いをいたさなければならないのである。 |
■ 井上 雅雄 (いのうえ まさお) 1945年北海道生まれ。 80年東京大学大学院経済学研究課博士課程 単位取得 78年東京都立労働研究所研究員 82年佐賀大学経済学部助教授 88年新潟大学経済学部助教授 90年 同 大学教授 91年立教大学教授 主な著書 「社会変容と労働」 (木鐸社)、 「地域社会と労同組合」 (共著・日本経済評論社)、 「労使関係の比較研究」 (共編著・東京大学出版会)、 「日本の労働者自主管理」 (東京大学出版会) |
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