論 文
 
21世紀のものづくり〜人が人らしく生きるために

 

赤 池  学
(ユニバーサルデザイン総合研究所所長)

 

日本はこれから何を目指すべきか

  「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 が書かれた80年代、 そしてバブル経済が崩壊した90年代を経て、 これまで多くの識者たちによって日本型ビジネスモデルの功罪が語られてきた。
 まず、 陰の部分。 それは、 改めて言うまでもなく、 「護送船団方式」 という言葉に象徴される、 市場の閉鎖性、 談合体質、 すなわち規制の枠、 保護の垣根を破って参入・参画できない、 規制保護体質である。
 それに対し、 現在好況を続け、 多くの識者たちが見習えと大合唱しているアメリカモデルは、 日本とは正反対の自由競争経済である。 経済的規制、 雇用、 その裏返しであるレイオフ、 参画機会といったすべてが自由、 かつ柔軟であり、 これにより個人も企業も国も、 アメリカンドリームという夢を抱きながら、 活性化してきた経済モデルである。
 しかし、 こうしたアメリカモデルの成立には、 いくつかの前提条件がある。 第一は、 大国の力を背景とした商品のシェアコントロールであり、 第二は、 高度情報化社会のリーダーとしての覇権である。 第三は、 勝者がいればその裏側に敗者がいるように、 極端な二極分化を肯定する文化がある。 そして、 これからその功罪がますます深刻化するであろう、 重要な第四は、 無限の経済モデルによって立つ拡大主義と、 それがもたらす環境破壊のエリート的肯定である。 それは、 資源そのものの無限なる調達供給、 産業排出物の無限浄化とリサイクルへの科学的過信と言い換えることもできる。
 しかし、 この構図が綻ぶかも知れないという胎動が、 すでに様々な局面で現れはじめている。 まずは、 シェアコントロール。 これについては、 EU経済圏の台頭で、 これまでのような単純な二国間交渉が成り立たなくなる可能性が高い。
 次に、 情報産業の覇者としての地位。 日本はモバイル部品の製造技術では他国に水をあけており、 ハイブリッド車の実用化に象徴される優れた電装技術も保有していることから、 アメリカが次世代もなおIT技術の覇者であり続けるという仮説を、 わが国が覆す可能性がある。
 続く二極分化の肯定についても、 「人権の世紀」 と国際法の世界で言われる次世紀に、 このやり方がいつまでも続けられるのだろうか。 自由競争において夢破れた者は、 弱者として虐げられることにどこまで耐え続けられるのか。
 そして、 資源と環境の問題は、 アジアの産業発展との関連で、 その功罪に対する議論は、 今後、 ますます拡大することが予想される。 単なる廃棄物のリサイクルではなく、 資源そのものの削減、 節約が否応なく求められ、 その先には再生可能資源の新たな用途開発、 機能開発に高度に依存したエコラショナルな社会が望まれるようになることは確実である。
 この人権と環境の保護・保全という最後の二点については、 実は日本型生産システム、 例えばトヨタカンバン方式などの国際的な認知と普及が、 その巨大な火付け役となる可能性が高い。 システムとシステムの間に介在する人々の知恵や態度を重んじる思想、 そして単なる時間的効率ではなく、 トータルなリソースリダクション、 資源節約を形にするカンバンの取り組みは、 アメリカモデルを根底から覆すかも知れない可能性を秘めているように思う。
 実は、 このカンバンに象徴される部分にこそ、 日本型ビジネスモデルの陽の可能性が潜んでいる。 それを総括すれば、 「人本主義に基づく経済モデル」 である。 「和」 や 「恩」 を重んじる精神文化、 それに裏付けられた系列や労使の協調、 その結果としてもたらされる 「中庸意識」、 すなわち全員中産階級意識を持った階級のない組織や社会の実現である。
 こうした人本主義経済モデルが次世代に担うべき役割とは何であろうか。 それは、 これまでのアメリカのようにマーケットシェアを極限まで増やすことを求めるのでなく、 「中庸のビジネスモデルづくり」 を目指すことではないだろうか。 まず、 独自の技術を築いた上で、 パテントなどによる住み分けを行い、 それぞれ独自の部品、 商品を提供し合いながら、 パートナーとしての絆もまた築き上げる。 そして、 競合他社がお互いに許容し合う、 最善最適な市場シェアを形にすることである。 これらを世界を舞台に形にする企業こそ、 これからの製造業が目指すべき 「尊厳ある世界企業」 なのである。

サービス増大型の創造業の時代

 日本の製造業には、 これから増大する内需市場に対しても、 積極果敢な基盤づくりを行うことが求められる。 それは、 自分たちの生活の質をいかに変えるかに照準を絞り、 高いサービスの提供を含めたものづくりを行うことによりサバイバルをはかるのである。 これから高齢化社会を迎えようとする今、 身の回りを豊かにする食、 住、 環境、 福祉関連の製造業技術は不易の巨大市場を生み出すと思う。
 内需型の製造業は、 今後、 量的拡大を目指したビジネスモデルから、 質的拡大を目指したサービス開発型のビジネスモデルへの転換を否応なく求められる。 それは、 「もの」 そのものの価値だけではなく、 その 「もの」 が併せて提供するサービスの価値開発を行うことだ。 すなわちこれからの製造業は、 あまねく 「創造業」 としての自負を持つべきだということである。
 創造業は、 これまでのように製品に付加価値を加味するのではない。 製品の提供を通じ、 利用者が受け取る機能の価値を増大させなければならない。 これまでの多くの製品は、 低機能低価格な製品と、 高機能高価格な製品に二極化していた。 しかし、 私たちが望んでいる製品は、 中機能中価格、 高機能中価格な製品であり、 そのボリュームが最も巨大であるはずだ。 重要なことは、 利用者の要求機能にリアルであることであり、 実現機能との距離をさまざまなサービスを通じて縮め、 両者が合致する度合いを高めることに他ならない。 重要なことは、 製造業がサービス業に変わるのではなく、 サービスを増大させるための新たな製造技術の高度化を図り続けるということである。
 これまで多くの製造業は、 厳しいコスト・スピード競争にさらされてきた。 しかし、 これからはそれに加え、 早くから研究開発に着手することでもたらされる 「パテント競争」、 そして規格の標準化を目指し、 そこにアイデア、 サービスを搭載する新しい 「フォーマット競争」 の三軸で競争することが求められる。 すなわち、 先行逃げ切りの 「厳しい競争の時代」 が、 知恵とアイデアを駆使した 「楽しい競争の時代」 へとシフトする可能性があるのである。
 こうした楽しい競争を形にするには、 組立加工といった線形技術の高度化に加え、 総合的なプロセス技術の高度化が不可欠になる。 それは、 第一に、 スピード競争に応えるための超ミクロ加工やギガヘルツレベルの回路開発、 電装制御の合理化、 様々な再生産技術の高度化であり、 第二に、 スピードが問われる高効率経営を実現するものづくり、 すなわち生産開発のリードタイムの短縮、 IT技術のさらなる駆使、 調達を含めたサプライチェーンマネジメントの高度化であり、 最も強調したい第三は、 上述した現場力の再評価と再構築に他ならない。 現場の技術者、 技能者が保有する手技や頭脳技能の分析・継承にサイエンスの目を入れ、 可能なものはデジタル転換を図り、 計算化、 理論化、 機械化できない技能は匠の技として真摯に伝承する。 ここでは、 匠の技術を肯定し、 そして否定する技術開発が求められる。 あるいは、 国内の技術・技能を現地化するためのマニュアルづくりを人材開発と併せて行いながら、 現場力のさらなる高度化を図っていくことが望まれているのである。

人づくりと新技術開発の連携

 さて、 次世代のものづくりの担い手は、 言うまでもなくこれからの若者たち、 子供たちである。 ものを自ら作るよりも、 買うことがた易い時代にあって、 上述した次世代製造業の意味をどこまで彼、 彼女らに伝えられるのだろうか。 願わくは、 昨年成立した 「ものづくり基盤技術振興基本法」 といった法的支援に頼るだけでなく、 政・官・財・情・学のすべてのセクターが、 ものづくりに喜びを感じる青少年育成のシステムのあり方を議論し、 形にして欲しいと思う。
 愛知県の安城市に、 デンソーが経営する 「デンソー工業技術短大大学校」 がある。 同校は、 工業高校課程、 高専課程、 短大課程を持ち、 ものづくりの職場のリーダー育成を目指した、 高度な人材教育を形にしている。 ものづくりに関わる必要な学科知識・教養はもとより、 ものづくりの現場で必要となる工学知識、 技術、 そして何より徹底した技能実務教育を実施している革新的な教育施設である。
 一般の工業高校の場合、 3年間で割かれる教育時間は1,400時間程度である。 同校は、 それを2千時間にまで拡大し、 応用力、 汎用力のある実務教育、 卒業後、 各職場のニーズに即応できる人材育成を目指し、 品質、 生産技術、 QC、 特に金属加工については、 精度、 早さ、 加工技能の高度化を意図した徹底教育を行っている。 ハイテク技術、 ハイテク設備に速やかに適応できるシステム部品・製品の応用工学を実技教育を通じて学ばせ、 卒業時には自ら図面を書き、 モジュール部品の課題製作実習を課すという徹底ぶりである。
 この3年時の段階で、 同校はものづくりの素養の高い生徒を選抜する。 そして、 技能開発課に送り、 技能五輪の選手としてハイレベルの金属加工を繰り返し教える専門教育を行っている。 各選手候補には、 マンツーマンで専属のコーチがつき、 2年間で120を超える高度な課題図面を製品化する、 試作技能を訓練している。
 同社はこのシステムを、 過去50年間稼働させてきた。 過去、 技能五輪に出場した人材は486名、 うち82名が各技能部門で金メダルを獲得。 さらに、 このうちの43名が国際技能五輪に参加し、 うち14名が世界一の栄誉に輝いた。
 技能五輪選手の養成にどこまで意味があるのか、 単一技能に特化した教育がものづくりの現場で役に立つのかという議論がある。 同校の校長である、 生駒昇は語る。
「一芸は万芸に通じるということです。 ある1つの技能を徹底して習熟した人材は、 他のものにも立ち向かっていける能力を持っている。 やり抜く、 何とかしようという気概、 工夫力が卓越しているのです。 国際技能五輪では、 日本人が触ったことのない外国の機械で加工します。 瞬時にその機械のクセを見抜き、 対話しながら加工していくという卓越したセンスが求められます。 さらに、 大会当日に渡される課題図面をわずか1時間で読み解かなければなりません。 図面のなかに隠された要求精度、 要求機能を見抜いてどう作るのかを考え、 加工方法、 加工順序、 加工技能を自ら判断し、 限られた時間のなかで最終製品を形にするのです。 このプロセスは、 新製品の試作部品開発、 新しいマザーマシン開発とまったく相同です。 1度もやったことのない加工法の開発は、 卓越した高度加工のベースを持っている限られた者だけが思いつけるのです。
 同社では、 このようにして養成した技能五輪の選手たちを、 新製品開発を行う試作部門、 新しい加工機開発を行う工機部門に送り出しています。 エンジニアの図面のない思いつきを具現化している人材、 そこから新しい機能、 性能を引き出している人材、 そしてそれを余所よりも早く、 高品質に作れる工作機や生産設備を形にしている人材は、 設計者とともにそれを作り上げているこうした熟練技能者たちなのです」。
 言うまでもなく、 中小企業における技能の開発伝承は、 特化したオンリーワン技術、 技能の研鑽に注力すべきである。 それは、 一芸の技能伝承の重要性である。 しかし、 中堅以上の企業においては、 総合的な開発力を支える、 創造的な技能の開発伝承が求められる。 技術屋だけで、 こうした技能力を守らなかった企業は、 厳しい開発競争のなかで淘汰されてしまうのである。
 こうした事態を避けるためには、 デンソー技術工業大学院のような現場主義、 技能多経験主義に基づく実践を、 広く一般の高専、 工業高校に広げることである。 卒業後すぐにものの役に立つ教育、 すなわち国家技能検定がすぐに取得できるレベルの複数加工の実技技能教育を、 これからの高専、 工業高校は徹底させるべきだと言うことである。
 筆者は仕事柄、 いくつかの工業高校での講義経験がある。 少なからぬ工業高校には、 偏差値で割り振られ、 必ずしもものづくりが好きではない生徒たちが進学していることも事実である。 しかし、 もし彼らに徹底した技能教育と、 それに先立つ本物の熟練技能者の仕事やその社会的成果を目の当たりにさせることができれば、 今以上にものづくりを愛する若者たちを育成できるものと信じている。
 彼、 彼女らに今伝えるべきことは、 スポーツ選手やミュージシャンや金融屋やベンチャー経営者といった、 マスコミがアピールする成功者以外にも、 製造業の現場で見事な仕事をこなしているものづくりの成功者が多数存在しているという事実である。
 こうした実践を形にするために、 地域の企業群は、 地元の高専、 工業高校を地域産業にとっての重要な資産として認め、 経済支援を含めた様々なバックアップ対策を講じて欲しいと思う。

ユーザー・ドリブンという新しいものづくり

 実は、 これからのものづくりにおいて、 新たに台頭する作り手たちが存在する。 それは、 ユーザーという私たち自身に他ならない。 これから作られる多くの製品は、 確実に生活者の志向に基づいた市場サイドがその進化を決め、 受容する時代がやって来る。
 その際、 自覚しておかなければならないことは、 消費者、 生活者なるものが、 確実に多義化、 多様化してくるだろうという事実である。
 このことを、 自動車を例に考えてみたい。
 過去10年、 折しも台頭したアウトドアブームに呼応しながら、 三菱自動車の四輪駆動車、 パジェロなどのクロスカントリー車輌が、 市場からの高い支持を受けた。 しかし今、 アウトドアブームは完全に終結し、 時代は 「ネーチャリング」 志向に確実に移行している。 これからのクルマは、 都市と田園、 中山間地や山地との、 深い調和性を考えたデザインが求められてくるだろう。
 あるいは次世代、 燃料電池車の量産が始まると、 技術的に見る限り、 多様化傾向にさらなる拍車がかかることが予想される。 フロアーにシンプルな駆動機関がパッケージされることで、 その分クルマの空間開発、 空間デザインには自由度が増す。 これまでのように、 デザイナー遊びとしてのクルマづくりが許されるなら、 多様なデザインの実験がいかようにも行えるようになるからだ。
 21世紀には、 もはや同系車種でマスセールスが可能な自動車市場は存在しないのだろうか。 ここで、 すぐに想像できるのが、 マスボリュームである団塊世代の高齢化を見越した加齢者対応のクルマ市場、 「エイジングカー」 のデザイン開発である。 言うまでもなく高齢者は、 運動能力、 判断能力ともに低下し、 それを支援・補助する安全システムの搭載、 ユニバーサルデザインに基づくパッケージングといった、 共通仕様対応が不可欠になる。 こうしたマス層に対するスタンダードデザインの確立は、 次世代に巨大な市場性を持つ可能性はある。
 しかし、 ここで問題になるのは、 この団塊世代が 「元気な」 老人たちになるだろうということである。 ここで言う 「元気」 は、 体力としての元気だけではなく、 志向性、 価値意識、 バイタリティの元気さでもある。 人生の後半戦、 さらに言えば撤退戦を意識した彼、 彼女らが、 過去のファミリー仕様のような、 ワンスタンダードのエイジングカーを受け入れるとはとても思えない。
 これまでのように、 セダンをステップアップし、 最後はセルシオ、 ベンツといった 「ハイステータスなジェントルカー」 で上がり、 という構図の崩壊は、 図らずもセルシオを最上級車として供給するトヨタが、 ヴィッツの登場で明確に示すことになった。 上がり一歩手前の高所得なジェントルマンたちが、 セルシオを買わずにヴィッツを選択するという現実を、 はっきりと浮き彫りにさせたからである。 あるいは、 デザイン的に見てなんら魅力を感じさせない日産のキューブが、 高齢者を含めた壮年世代、 熟年世代に支持されヒットしたように、 個々人の行為目的に対する心地よさや合理性を判断材料に、 クルマを購買する消費者が確実に台頭しているということである。
 こうしたトレンドが差し示す事実は、 これからのクルマづくりが 「コンシューマー・ドリブン」 を意識せざるを得なくなるだろうという現実である。 すなわち、 デザイナー遊びのクルマづくりから、 「ユーザーと遊んでしまうクルマづくり」 への段階的移行が、 市場サイドから求められているということである。 ある者は、 クルマそのものを放棄したエコロジカルなライフスタイルを求めようとし、 またある者は、 合理的な人、 モノ相載の合理性を求め、 道具として特化したクルマを受容するようになる。 さらには、 これまでのようなスタンダードとしてのスポーツ仕様車ではなく、 テニスならテニス、 ラグビーならラグビーに、 そして週末農業がブーム化している今、 スポーツ・ファーミングなどに特化した個別対応のクルマを求めるユーザー、 あるいはオープンカーが持っている移動の心地よさに徹底的にこだわるユーザーなどに、 限りなく多元化していくだろう。
 ここで浮き彫りになるのが、 「共創」 という哲学の重要性である。 サプライヤーとの共創だけでなく、 ユーザーとの共創という企業戦略が、 新たな選択肢として必要になるということだ。 例えば、 この次のフェイズで市場化が予想されるのは、 いくつかのスタンダードに、 ユーザー自らがそこにチューンナップを加えることが可能な、 参画の余地を戦略的にデザインしたクルマの提供であり、 いくつものリペアーバーションを提供していくという選択肢である。
 自動車を例に説明したが、 こうした潮流はこれからすべてのものづくりに波及する可能性がある。 そして、 こうした潮流を招き寄せるのは、 私たちユーザーの重要な権利でもあるのだ。

ユニバーサルデザインが意味するもの

 こうした潮流を踏まえた上で、 昨今多くの業界が注目し始めた、 「ユニバーサルデザイン」 という哲学の意味を考えてみたい。
 ユニバーサルデザインという言葉は、 もともとバリアフリーデザインを発展させた概念として、 アメリカの建築家から提案されたものである。 バリアフリーは高齢者や障害を持った方々のさまざまなバリアを取り除くものづくり、 まちづくりを考えようというものである。 それに対し、 ユニバーサルデザインはその発展形として、 現在 「共用品」 と訳され、 ハンディキャップのある人も健常者も、 多くの人が同時に利用できるデザインを考えていこうというものである。
 ノースカロライナ州立大学ユニバーサルデザインセンターのロン・メイス所長は、 このユニバーサルデザインが示唆する七つの原則を提唱している。
 1. 誰にでも公平に使用できること。
 2. 使う上での自由度が高いこと。
 3. 簡単で直感的にわかる使用方法が確立されていること。
 4. 必要な情報がすぐに理解できること。
 5. うっかりエラーや危険につながらないデザインであること。
 6. 無理な姿勢や強い力なしで楽に使用できること。
 7. アプローチも利用もしやすい寸法、 空間になっていること。
である。
 しかし、 次世代の子どもたちをも視野にいれたものづくり、 まちづくり、 社会のリデザインを考えた時、 ユニバーサルデザインには果たすべき基本的アプローチが存在する。
 例えば、 これまでの発想は、 プロダクト単体をいかに仕上げていくかという考え方でつくられていた。 それに対し、 これからは 「シンクロニシティ発想」、 いわゆる調和性のデザインが求められてくる。 わかりやすい例では、 環境にやさしい次世代のエアコンをどのようにつくるかを考えた時、 重要なことはこれからの時代はエアコンのみを環境にやさしくするだけではすまなくなっているということである。 新しい技術を含めて高断熱な家をつくると、 おそらく東京や静岡あたりでは1年間を通じエコアンそのものが必要ない住空間が論理的には可能になる。 こうした考え方で、 受け皿となる家というものをどういうふうに変えていくのか、 その調和性を読み取ることが必要になる。
 さらに、 これまでは、 プロダクトセールの発想であった。 Aというモデルがあり、 Bはそれを進化させたもので、 さあ、 買ってくださいという形で物を生活者に売っていくという考え方である。 ところが、 これからは 「プロダクト・リーシング」 という発想に基づいたものづくり、 あるいは顧客とのシステムづくりが望まれてくる。 2001年から家電リサイクル法が施行される。 企業はその製品が老朽化した段階で、 その回収・リサイクルに責任を取らざるをえなくなり、 同時に回収・リサイクルを前提にしたシステムづくりを行なって、 その分のコストを最初から製品に上乗せして生活者に受容していただくという考え方になっていくだろう。 これは、 もはや物を売るのではなく、 物を生活者に貸すという考えに近い。
 こうした前提を踏まえ、 筆者はユニバーサルデザインを、 以下の十要件で定義している。 それは、
 セーフティ(安全性)
 アクセシビリティ(接しやすさ)
 ユーザビリティ(使い勝手)
 ホスピタリティ(慰安性)
 アフォーダビリティ(価格妥当性)
 サスティナビリティ(持続可能性)
 エキスパンダビリティ(拡張性)
 パーティシペーション(参画性)
 エステティック(審美性)
 ジャパンバリュー(日本的価値)
という十要件である。
 すなわち、 これからのものづくりに求められることは、 安全性や持続可能性、 バリアフリーといった個々の課題解決に突出するのではなく、 これら十要件をトータル、 かつリーズナブルに満たす、 いわば 「十種競技(デカスロン)の勝者」 を目指していく姿勢を徹底して訴求すべきだということである。
 ユニバーサルデザインを共用品と訳してしまう現行解釈の最大のデメリットは、 本来そこにたたえられていたはずの 「共創品開発」 という哲学が抜け落ちていることである。 使う人、 作る人、 売る人の立場に立ってデザインするだけなら、 敢えてユニバーサルを名乗る必要はない。 「共創に基づく共用品」 としてユニバーサルデザインを求めることが、 次世代の製造業に確実に課せられていくだろうというのが、 小生が抱いている予感である。 それは、 これまでのものづくりプロセスのなかで敢えて無記名性を強いられてきた、 部材業者やサプライヤー、 熟練技術者たちが表舞台に立つことを意味する。 同時に、 これまでは生活者が立ち入ることができなかったものづくり領域への参画の可能性が広がることも意味する。
 すなわち、 これからの製造業に求められる姿勢は、 百年の視座で価値創出のシナリオを明確に持ちながら、 今できることは徹底してものづくりに反映させること、 そして新素材や新技術が登場した時に、 それに転換できる拡張性を予め読み込んでいるものづくりに他ならない。

千年持続学に基づくものづくり

 これから望まれる持続可能性を考える時、 さらなる眼差しが求められるように思う。 それは、 私たちのグループが提唱している 「千年持続学」 という新しい哲学である。
 現在、 世界の人口は60億人を越え、 21世紀半ばには80億人に達するものと予測される。 1960年代の緑の革命で単位面積当たりの穀物の収穫量は飛躍的に増えたにも関わらず、 依然として、 約10億人が貧困、 飢餓に苦しんでいる。 緑の革命では、 遺伝子組み替えにより、 収穫率を高めたが、 そうした品種を育てるには以前にも増して、 灌漑を施し、 肥料や農薬を投入しなくてはならなくなっている。 すなわち、 水資源の枯渇、 土壌の劣化と消失、 森林資源の枯渇など、 これまで持続可能な資源とされてきたものが、 危機的な状況に陥っているのである。
 日本は地下資源に恵まれないため、 資源を輸入し、 製品を輸出することで、 富を築いてきた。 今日では、 高度情報化時代を迎え、 これまでのように欧米の基礎研究にただ乗りして、 製品開発をするようなキャッチアップ型の産業構造から、 新産業を創造し、 独自の技術力で富を生み出すことが強く要請されるようになった。 こうした動きに加えて、 再生不可能な重金属や石油・石炭などのエネルギー資源も徐々に使い尽くす方向へ向かっており、 20世紀型の工業化社会から、 21世紀型の省資源、 再生可能資源をフルに活用した社会を構想し、 実践する必要が高まっている。
 1972年に発行されたローマクラブの 「成長の限界」 は、 図らずも地球社会システムが21世紀初頭にシステムパニックに陥ることを予言した。 このパニックは人口爆発と経済成長による再生不可能な資源の枯渇と環境汚染の深刻化によってもたらされる。 したがって、 システムパニックをできるだけ先送りし時間かせぎを行うには、 資源のフローをできるだけ小さくすること、 逆に再生可能な資源ストックを増大させる方策を検討する必要がある。
 長期的な見積もりによれば、 再生不可能な資源は、 500年後に枯渇するメタンハイドレードを最後に、 21世紀の終わりにはほとんど枯渇してしまうので、 それまでに再生可能な資源に高度に依存した社会を実現することが求められる。 先進国は、 世界に先駆けてそうした社会の実現を率先垂範で目指す一方、 発展途上国もできるだけすみやかに再生可能資源依存型社会へ移行するように支援していく必要がある。
 そのための具体的な研究活動としては、 総合的な動物力、 植物力、 昆虫力、 微生物力の本質研究、 機能研究、 機能制御研究に積極的に注力することが求められる。 我々は、 そうした新知見を高度に利用した、 再生可能資源のみに依存した社会は、 千年後まで持続可能であると考えている。
 こうした問題意識から、 私たちは 「千年持続学会」 の設立準備を急いでいる。 準備委員は、 東京大学・水資源工学の沖大幹助教授、 岐阜大学・地球生命史の川上紳一助教授、 名古屋大学・地球学の高野雅夫助教授らと小生である。 そこでは、 千年持続性社会を形にする未利用資源・未利用機能の開発・制御・利用に関する情報を交換しながら、 主に先進国に対する 「軌道修正ビジョン」 を検討し、 国内外への啓蒙、 合意形成にあたることを意図している。
 同時に、 千年持続性社会を構築するためには、 再生可能資源を活用したゼロエミッション社会をコーディネートし、 地域社会の特性を生かした開発を行うことが求められる。 個別の取り組みを通じてキーパーソンとなりうる人材の育成を行うことにも注力していきたい。
 いずれにしても、 21世紀初頭には、 新たな千年紀の第一段階として、 千年持続性を支える科学技術の本質が何であるか、 それに基づくものづくりのありようとは何か、 を体系立てて明らかにする必要がある。
 これについては、 先例から学べる点も少なくないに違いない。 すなわち、 千年以上昔に考案され、 現在に至るまで利用され続けている原材料や製品、 社会システム、 施設などには、 科学技術を持続的に応用するための知恵がさまざまに秘められているはずである。 日本、 世界で長期間利用されている、 そうしたものを調査研究し、 それらが持続的であった社会科学的、 並びに自然科学的要因を評価吟味し、 それらの共通項を抽出することによって、 長期間人間社会に貢献し続けられる社会的・文化的資産をいかにすれば構築することができるかが分かるはずである。 すでに顕在化している、 あるいは近い将来に顕在化が想定される諸問題に対処する科学技術を探る際にも、 常に長期的な展望、 千年持続性を意識することが不可欠であり、 その考え方の指針をこれから打ち立てていく必要がある。
 持続的発展、 あるいは循環型社会の構築という言葉が巷間で取り沙汰されるようになって久しい。 しかし、 新たな千年紀と21世紀を迎えるにあたって最も重要なことは、 まだ見ぬ子孫たちのために、 千年先にまで思いを馳せたものづくりを志向することだと確信している。


■赤池 学 (あかいけ・まなぶ)
 1958年東京都生まれ。 80年筑波大学生物学類卒業。 科学技術ジャーナリスト。 ユニバーサルデザイン総合研究所所長。 中国対外経済貿易大学客員教授。 武蔵野美術大学環境デザイン学部講師。 製造業技術、 科学哲学分野を中心とした執筆、 評論を行う。 「生活者重視社会」 「循環型社会」 を積極的に提唱し、 地方自治体や中国の産業創出プロジェクト、 環境技術関連の地域資源データベース構築の事業にも参画する。 国際シンポジウムのコーディネーターを始め、 自治体や企業主催のセミナー、 シンポジウムでのコーディネーター、 講演多数。
 主な著書: 『温もりの選択〜このエネルギー革命が地球を救う』 (TBSブリタニカ)、 『世界でいちばん住みたい家』 (TBSブリタニカ)、 『メルセデスベンツに乗るということ』 (TBSブリタニカ)、 『パパ、 助けてくれ、 助けてくれ』 (TBSブリタニカ)、 『株式会社ダーウィン商事』 (みずき出版、 日刊工業新聞科学技術図書文化賞)、 『チョウのフェロモン、 キリンの快楽』 (講談社+α文庫)、 『サナギの時代――時を経た知恵を求めて』 (講談社)、 『日本のマンションにひそむ史上最大のミステーク』 (TBSブリタニカ)、 『ものづくりの方舟』 (講談社)


情報誌「岐阜を考える」2000年
岐阜県産業経済研究センター


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