特
集
論
文
介護保険と日本経済
池 川 諭
(社団法人 日本リサーチ総合研究所 主任研究員)
はじめに
2000年4月に導入予定の介護保険は、年々深刻になってきたわが国の高齢者介護問題に対応するために創設された制度である。現在介護保険については様々な問題点が各方面から指摘されているが、とりあえず予定どおり導入して徐々に使い勝手の良い制度に改良していくべきだという世論になっているといえよう。本稿では、まず、介護保険導入の背景を簡単にみたうえで、介護保険の需要規模と生産誘発効果などをみていく。次に、介護保険のリスク・プール機能や介護労働の節減効果などマクロ経済への影響、介護保険に関連した地域振興の動きについてみていく。最後に介護保険の効果を日本経済へ十分に発揮させるために今後早急に実施すべき事項について述べることとする。
1. 介護保険導入の背景
《急速な要介護者の増加》
わが国は人口構造の高齢化が世界一のスピードで進行しており、75歳以上の後期高齢者も急速に増加してきた。その過程で寝たきりや痴呆などの要介護者が年々目立つようになってきた。厚生省の調査では在宅の要介護者が100.6万人になっている(厚生省「国民生活実態調査」(1998年))。また、少子化で長男長女が増えており、それぞれの親を家庭内で介護することが困難になっている。さらに、高齢者が要介護者を看る「老老介護」や勤労者の「介護退職」なども問題になってきた。
高齢者介護はもはや一家族では処理できない社会的な問題となりつつあり、国ではこうした深刻な介護問題に対応するため、1997年12月に介護保険法を成立させ、2000年4月から実施することとなった。
2. 拡がる民間企業の参入機会
《利用者の自由選択で民間企業の参入拡大》
ところで、わが国の介護サービスは競争が働かない公共サービスとして提供されており、その財源は税が中心であった。また、その供給主体は、地方自治体の直営、社会福祉法人、社会福祉協議会などであった。このなかで民間事業者の介護サービス市場への参入は様々に規制されてきた。特に民間企業が介護サービス市場に参入するためには、要介護者との個別契約や自治体との業務委託契約に限定されていた。個別契約では介護サービスが利用者負担となるため、契約額が高めになりがちで需要は限定される。また、自治体との業務契約方式では、値引き競争が展開されがちで、往々にして採算を度外視した受注となる場合も多かった。このため、民間企業にとって介護サービス市場はあまりうまみのある市場ではなかった。
しかし、介護保険導入後は、多様な供給主体が介護サービス市場に参入出来るようになり、民間事業者の事業環境は大きく変化する。まず、介護サービスが社会保険方式で提供されるようになるため、保険料を支払う40歳以上の全国民に権利意識が生じる。これにより、介護サービスの潜在ニーズが顕在化して需要の大幅な増加が期待できる。また、介護サービスが利用者の自由選択制ないし契約制に転換するため、利用者は望ましい介護サービスを提供する効率的な事業者を選択できるようになる。
3. 介護保険の需要規模
《2000年度で約4.8兆円》
次に2000年度介護保険導入時における需要規模についてみていく。なお、介護保険の需要規模の予測は以下の手順で行った(「3.」と「4.」は参考資料1による)。
将来の人口予測と寝たきりや痴呆などの要介護者の発生率から要介護者数の将来予測を行う。つぎに、特別養護老人ホーム、老人保健施設、療養型病床群などの施設定員数をこれまでの伸びと今後の整備計画を参考にして求め、各施設の稼働率を100%と仮定して、それらの将来予測値の合計値を先に求めた要介護者数から差し引き、それを在宅で介護を受ける要介護者とする。
在宅で介護を受ける要介護者数に在宅サービスの利用率を考慮して、在宅サービスの顕在需要者数を求める。なお、2000年度では、在宅サービスの基盤整備が十分になされないこと、在宅サービスの利用者全てが在宅サービスを希望するとは限らないことなど加味して、利用率は40%とした。
こうして求めた在宅サービス利用者数に要介護度別割合を乗じて「要支援」から「要介護5」までの6種類の要介護度別人数を求める。
以上で、施設サービス顕在需要者数と在宅サービス顕在需要者数が求まり、それぞれに介護報酬単価を乗じて合計すると介護保険の総需要額の予測値が求まる。
以上の方式で2000年度における介護保険の総需要額を試算すると、約4.8兆円となる。また、2010年度では約8.8兆円となる。なお、総費用額が10年間で2倍近く伸びるのは、後期高齢者の増加による要介護者の増加と2010年度の在宅サービス利用率向上(80%程度と仮定)などによるものである。
4. 介護保険の生産波及効果
《2000年度の生産誘発効果は約11兆円》
2000年度には介護サービス市場において約4.8兆円の新規需要が発生するが、それは関連産業にどの程度生産波及するであろうか。以下では、総務庁等11省庁共同作成「平成7年全国産業連関表」を用いた産業連関分析の結果をみていく。
なお、介護保険の導入による新規需要の発生は次のような生産増加をもたらすと想定した。まず、〈直接効果〉として需要額相当の生産が介護サービス部門で生じる(例えばホームヘルパーの介護サービス生産に相当)。次に需要額相当の生産には原材料やサービスの購入を要するから、そのための生産が関連産業で増大する〈間接1次効果〉(例えばホームヘルパーが介護サービスを提供するために必要な資材の生産に相当)。さらにこれらの生産増加は関連産業の従業者の所得を増加させ、消費支出の拡大をもたらす。消費支出の増加はさらに各種産業の生産増加につながる〈間接2次効果〉(例えばホームヘルパーの所得増加で消費が拡大した時に関連産業従業者の所得も増加して消費も増加し、それに伴い生産も増加することに相当)。産業連関分析による計測では以上の介護保険の〈直接効果〉、〈間接1次効果〉、〈間接2次効果〉までを行った。
介護保険の導入は2000年度に約4.8兆円の支出増加をもたらし、介護保険による高齢者介護施策に即時に置き換わるものと仮定して、産業連関分析を行うと、約2.3倍の約11.0兆円の生産額を誘発する。約11.0兆円の生産誘発額のうち、消費からの誘発生産を除いた〈直接効果〉と〈間接1次効果〉までの誘発額は約7.1兆円(約1.48倍)であり、〈間接2次効果〉である消費からの生産誘発額は約3.9兆円(約0.81倍)である。なお、介護保険の導入は多くの産業分野に波及する。生産誘発額約11.0兆円のうちの54%が社会福祉部門を含むサービス業、18%が製造業となっている。また、生産誘発はこれらの生産物の取引を通じて金融・保険業・不動産業(約0.9兆円)、商業(約0.8兆円)、運輸・通信・放送業(約0.5兆円)などにも及ぶ。それらの総合効果が約11.0兆円である。介護保険の産業連関分析では、介護サービスが労働集約的であるため、介護サービス供給者の所得増加に直接つながる傾向が強く現れると言えよう。
5. リスク・プール効果
《過剰貯蓄の解消》
これまで国民は高齢者介護については必要な介護サービスの内容とそれに要する費用について十分な情報は与えられなかった。このため国民は長い老後期間にいつ発生するかわからない病気や介護の不安に備えるため、過剰な貯蓄を行う必要があった。高齢者の貯蓄額を貯蓄増強委員会の「貯蓄に関する世論調査」(1999年)でみると、60歳代の貯蓄残高は1,857万円、70歳代は1,758万円でかなり高額な貯蓄額となっている。しかし介護保険が十分に機能すれば、「5年間の入院の場合でも、保険料負担やその他の負担の転嫁を最大限考慮に入れても個人の負担は約400万円で足りる」と試算されている(参考資料2)。
このように貯蓄による老後の病気や介護への準備と介護保険による負担の場合とで大きな差が出るのは、個人がバラバラに老後のリスクに備えるよりは介護保険の導入を行い、社会全体で老後のリスクに備えるほうが経済的には低額の準備ですむからである。今後介護保険が十分に機能すれば、「リスク・プール機能」が現れ、国民は過剰な貯蓄をせずにすむことが期待できる。その結果、日本経済の過剰貯蓄傾向は解消し、低迷する個人消費が拡大することも期待できる。
6. 介護労働の節減効果
《女性労働力も供給増加》
介護保険が十分に機能すれば、これまで家族の介護時間の一定部分を介護保険のサービスで代替できるようになり、家族の介護労働は節減されて、介護者に自由時間が創出される。その結果、特に家族介護を担う女性の就業中断も解消することが期待できよう。これは日本経済に対して女性労働力の供給増加となって作用する。今後の日本経済は労働不足となるため、こうした女性労働力の供給増加は日本経済の生産能力拡大にも大きく貢献することとなろう。また、家族が介護から解放されることは自由時間の増加にもなるため、介護者の余暇時間の拡大が期待できる。この面からも個人消費拡大に貢献することになろう。つまり、介護保険の導入により介護労働の節減が進めば、日本経済の生産、雇用、消費の各側面について望ましい方向が展望できる。
7. 介護保険と地域振興
《地域経済活性化にも一定の寄与》
以上の他に、介護保険事業は市町村で実施されることから、地域の経済振興も期待できる。介護保険の顧客は要介護高齢者であるから、高齢者の多い地方圏ほど介護保険を活用した「地域経済おこし」は期待できる。しかし、市町村は現在導入準備に追われており、介護保険導入と地域経済の活性化を一体化した取り組みを行っている市町村は少ない。そこで、ここでは代表的な市町村の事例を紹介することとする。
住民による福祉のまちづくりをすすめている秋田県鷹巣町(1999年3月末人口22,580人)では、現在常勤ヘルパーが36名、非常勤ヘルパーが27名いるが(いずれも1999年11月現在)、介護保険の導入に備え地元出身の若いホームヘルパーの雇用拡大を計画している。その際、ホームヘルパーの雇用による消費効果ができるだけ町内に生まれるように、ヘルパーの採用条件として町内在住を課している。また、町の(財)たかのす福祉公社が運営する在宅福祉型施設である「ケアタウンたかのす」では、今後介護スタッフを約100名まで雇用する計画を進めており、ここからも町内へ一定の消費拡大効果が期待できる。 京都府園部町(1999年3月末人口16,148人)では、町の(財)薗部福祉シルバー人材センターを居宅サービス事業者として京都府から指定を受けるようにしている。町ではこれまで、介護ボランティア「ふれあい介護員」がいたが、それを3級ヘルパーとして養成して、福祉シルバー人材センターの非常勤ヘルパー約500人とする計画である。これによって、町の福祉シルバー人材センターが介護保険事業を実施することにより、「ふれあい介護員」も一定の所得を受けられるようにしている。
大都市圏では東京都足立区(1999年4月1日現在人口 635,401人)の取り組みが有名である。足立区では、介護保険事業の導入を契機として、介護・医療から健康・生きがいまでの7分野に及ぶ高齢者市場振興策(「プラチナマーケットプラン」)を策定して衰退傾向にある地域産業の再生を目指している。足立区では介護保険事業の導入により、7分野合計で約7,500億円の市場規模が期待できるとしており、現在振興策を実施中である。
む す び
介護保険はこれまで家庭内の「シャドーワーク」であった介護労働を社会化させることで多様な経済効果を実現する。実施までの残された期間は短いが、現在問題点を早急に改善していくことが求められている。そのなかで最も重要なことは社会保険方式による実施をより明確にしていくことであろう。最近の政府見直しの方向をみると、家族慰労金の導入などで、介護の社会化は不明確になりつつある。介護保険の基本を社会保険方式とすれば、給付と負担の関係がより明確になり、利用者にとってもコスト意識が働く。また、市町村では要介護認定を遅延・混乱なく実施し、公平な審査を行うことも必要であろう。その他、介護サービスの質の確保、ヘルパーの増員や施設の拡充など基盤整備の充実を図ることも必要である。加えて、1999年8月に厚生省から「介護報酬の仮単価およびそれを踏まえた平均利用額」が公表されたが、今後民間企業の市場参入を活発化させるため、適正な介護報酬の設定について検討を重ねていくことが必要である。さらに、全国の各自治体では要介護者を発生させない、増やさないための介護予防対策を早急に開始すべきである。いずれにせよ、介護保険が持つ様々な好ましい効果を十分に発揮させることが21世紀の日本経済に明るい展望をもたらすことになると思われる。
【参考文献】
1.経済企画庁総合計画局委託調査「介護保険導入の経済効果」(1998年)
2.大守、田坂、宇野、一瀬「介護保険の経済学」(1998年)
情報誌「岐阜を考える」2000年
岐阜県産業経済研究センター
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