森林の現代的役割と都市・山村交流の可能性
1. 世界史のなかの森林利用
21世紀を間近にひかえた今、 日本における森林と山村の未来をみつめるために、 まずは世界の森林利用の歴史をふりかえってみることも無駄ではあるまい。 そこには、 地域性の違いはあれ、 非常に似かよった特色もみいだされる。
近代より前の農耕の時代には、 経済的な利益を得るためではなく、 生存を維持する目的で、 森林は様々に利用された。 住宅などの建築用材や、 家具用材、 道具用材などとして広く木材が使われた。 また、 それ以上に利用されたのが、 薪や木炭としての燃材 (薪炭材) である。 現在の途上国でも、 木材の8割が燃材として利用されている。 木材以外では、 古代から果実、 蜂蜜や狩猟の獲物などが食料として採取された。 また、 草や草地は牛馬の餌や放牧地として広く利用された。 殊に日本の場合には、 草や落葉が水田耕作や畑作のための肥料として重要な意味をもった。 土壌に養分を与えるだけでなく、 その持続性を保ったからである。 そのため、 幕末から明治初期にかけての日本の里山はおよそ半分が草山として利用されていた。 現在の途上国で問題となっている焼畑も、 かつては世界中で広く行われており、 日本の山村の人たちにとっても戦後まもない頃までは食料調達のための重要な手段であった。 そのほかにも、 衣服やロープなどのための繊維、 ウルシなどの樹脂類、 薬草などの医薬品などの生活に必要な資源を得るために、 森林は利用された。
このような長年にわたる森林の多面的な利用は、 持続的で循環的な利用ルールによって維持され、 村落共同体によるコモンズ (協同) 的な運営によって支えられていた。 いっぽう、 中世の森林は民衆のための 「アジール」 (隠れ家、 避難場所) としての役割をも果たしていた。 日本の場合には、 百姓が領主などに責め立てられて逃げこもるための場所でもあった。 ヨーロッパでは、 ロビン・フッドの話に象徴されるように、 森林は反体制やアウトローのためのアジールでもあった。 また、 インドネシア・スラウェシ島の住民は、 今でも罪を犯した時や紛争から逃れる時の場として森林を認識している。
近代という工業化の時代を迎えると、 石炭や石油といった化石燃料が普及してくることによって、 木材の燃料としての利用は衰退し (産業革命は燃材不足からおこったのだが)、 かわって建築用材やパルプ用材としての利用が突出した。 鉄道や道路の発達に応じて、 木材伐採の規模は拡大し、 森林破壊の問題は深刻になった。 そして、 目的意識的に森林を更新するために人工造林が一部で普及した。 このような時代の森林は、 生存的な目的にかわって経済的な目的が最も重視されたが、 戦後の高度経済成長下の先進諸国ではそのような状況が極限に達した。
1970年代に入ると、 石油ショックとともに高度経済成長は終焉し、 同時に情報化社会などの名前で脱工業化の時代を迎えた。 そのようななかで、 先進諸国では森林を単なる経済的利益の対象とみなす考え方に対して、 大幅な修正が迫られることになった。 森林の役割については、 木材生産よりも、 旧来からある水源かん養や国土保全の機能が見直されるとともに、 新しく自然環境、 レクリエーション、 文化、 教育などに関する機能が重視されるようになった。
このように、 森林は再び多面的な役割が求められるようになっている。 それは、 自然と人間との関係が極度に希薄になってしまった大衆消費社会・都市化社会に対するアジールとして、 森林が期待されはじめたことをも意味する。 また、 経済のセクターが政府を意味する 「公」 と企業などを意味する 「私」 とに集中しすぎたことも反省されるようになり、 それらの中間にあたる 「共」 (コモンズ) 的セクターが注目を集めはじめてもいる。 市民社会においては、 NPO (民間非収益団体) がそれにあたる。
2. 世界の森林・林業をめぐる新しい流れ
1970年代から先進諸国の森林政策は自然環境などの公益的機能へシフトしてきたが、 1990年代にはそのような性格がいっそう明確化した。 また、 1980年代の10年間に世界の森林は2%減少し、 なかでも熱帯林は9%も減少したことが明らかになるとともに、 持続的な森林経営に関する国際的な取り組みも急速に進んだ。 殊に、 1992年にリオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議 (地球サミット) で森林に関する原則声明が初めて打ち出された後、 国際的な様々な取り組みが始められた。 そのような活動の一つとして、 ヨーロッパ地域や太平洋地域などで森林の持続的経営に関する基準・指標づくりなどが進められた。 また、 民間サイドでも、 環境NGOによって結成されたFSC (森林管理協議会) が持続的に生産された木材にラベルを与えるという活動によって、 イギリスやオランダでは日曜大工店などで環境市民に支えられた木製品の販売が一定の成果をあげている。
1997年に京都で開かれた気候変動に関する国際会議以降、 地球温暖化に対する取り組みが急激に熱を帯びてくるなかで、 森林の役割が改めて脚光を浴びてきた。 森林が伐採されても、 木材は住宅として利用されているかぎり炭素を貯蔵するし、 燃やすときには育成過程の樹木が成長のために二酸化炭素を吸収するからである。 そして、 EU (ヨーロッパ連合) は将来的に木材などのバイオマス・エネルギーを相当に取り入れることを示している。 ヨーロッパでも北欧諸国の場合には、 すでに電気や熱の供給源として木質エネルギーが普及してきている。 スウェーデンではすでに全エネルギーの15%を依存しており、 多くの都市における地域暖房や首都の空港への熱供給などを木質エネルギーに頼っている。
森林の環境的な役割がますます重要視されるなかで、 木材の生産をめぐっても変化がでてきている。 世界で取引される木材は、 原生林が枯渇することによって、 丸太の太さが細くなっている。 このように木質資源の質が劣化すると、 それを補うために木材を小さくあるいは薄く切断して接着剤で接合して、 強度を高めるような木材加工業が発達してくる。 集成材や単層積層板などの工業化木材がそのような製品であり、 近年になり日本でも需要がかなり伸びている。 また、 資源の枯渇は、 人工林経営を発達させることにもなる。 なかでも、 熱帯地域ではパルプ用のユーカリなどが植林され、 7〜8年で伐採される。 このような世界の林業をめぐる変化のなかで、 工業化木材は室内汚染物質によるシックハウス症候群という厄介な文明病に影響を与えているし、 熱帯における超短伐期林業では一部に地力低下・砂漠化の問題も現れている。
3. 自然保護ブームと林業・山村の衰退
1960年代後半から観光道路の建設や国有林の伐採などをめぐって、 日本では森林にかかわる自然保護運動が台頭した。 その全国化は、 1971年の全国自然保護連合の第1回総会に象徴されよう。 そこでは、 原生的な自然を保護することが基本的な目的であった。 このような運動は、 1980年代中頃に発生した北海道知床半島の国有林伐採問題と青森・秋田両県にまたがる白神山地の林道建設問題とによって頂点に達した。
知床の伐採では森林全体の樹木を伐る皆伐ではなく、 一部の樹木を選んで伐る択伐が行われた。 これに対して、 林業サイドは極めて控えめな伐採だと評価したが、 マスコミや世論の多くが自然保護側を支持した。 主に 「奥山」 からなる国有林は、 知床の経験を経て、 1989年から生態系保護地域を設定するなど、 経営方針を大きく転換しはじめた。 いっぽう、 知床の自然保護運動に対して、 自然と人間との 「共生」 関係を求める立場からの批判も現れた。
白神の場合には自然保護運動の性格が二つの県の間でやや異なっていたが、 生態系保護地域の取り扱いをめぐって立場の違いが露呈した。 生態系保護地域の中心部は、 原則として一切の人間の立ち入りが許されない保存地区なのである。 しかし、 青森県側の住民は国有林の山奥でも狩猟などの活動を行い続けてきたので、 一定の活動が可能となることを望んだ。 ここでも、 自然と人間との 「共生」 を重視する考え方がみいだされる。
このように、 知床や白神において森林をめぐる自然保護運動は頂点に達するとともに、 従来の原生的な自然保護とは異なる視点が提示されたことが特徴的であった。
その間、 日本の林業は木材輸入の増加と賃金の上昇などによって、 経営の状態が著しく後退していった。 そのため、 人工林の育成に必要な間伐が滞ったり、 林業労働力の減少と高齢化が進んだりした。 また、 かつては薪炭林などとして利用されていた里山の雑木林は、 高度経済成長期に薪や木炭の需要がなくなってしまったために、 一部は造林されたり、 住宅などに開発されたりしたが、 残りの多くは手入れがされないまま放置の状態が続いてきた。 高度経済成長は山村の過疎化をももたらした。 当初は次男坊・三男坊などの過剰な人口を都会へ流出させる意味もあったが、 さらに長男や世帯主の流出が進んだために、 人口の減少だけでなく、 全国に先がけた高齢化が進み、 集落によっては社会的な機能の果たせなくなるところが増えている。
4. 里山ブームと都市・山村交流の胎動
1980年代後半の日本社会はバブル経済に蝕まれ、 貨幣の魔力が極度なまでに人間にとりついてしまった。 そのような魔力に対して、 人間本来の生き方を求めようとする人たちも増えてきた。 また、 環境問題をめぐっては、 森林についても熱帯林や酸性雨など地球規模で大きく問題視されるようになった。 そのようななかで、 都市住民のなかには原生的自然を守るという自然保護とは異なる形で、 森林とのかかわりを求めようとする人たちがでてきた。
一つ目は、 仕事と生活の両面から新しいライフスタイルを求めようとする人たちである。 都市の労働も消費も管理しつくされて、 本来の自然と人間との接点がますますみえにくくなり、 自然の一員としての痕跡さえ失いかけている現状に、 我慢がならなくなった人たちである。 いっぽう、 林業の世界では労働力の不足と高齢化がとめどもなく進んできた。 これらの条件を切り結ぶものとして、 都市からIターンやUターンの形で多くの若者や中年の人たちが林業労働の仕事を求めてやってくるようになった。 なかでも、 長野県や岐阜県の森林組合では、 1990年代の中頃にはI・Uターンの人たちが新規参入者のうちの過半数を占めた。 このようなI・Uターンブームのなかで、 一方では地域の若者との交流やサークル活動への参加などによって地域社会の活性化がうみだされている場合もあるし、 他方では環境保全の理想と林業の現実とのはざまで夢破れた人たちもでている。
二つ目は、 ボランティアとして森林にかかわる人たちのことである。 1970年代の富山県における草刈り十字軍の活動が先駆的であったが、 東京の西多摩地区では1980年代後半から 「浜仲間の会」 などいくつかのグループが人工林の手入れの活動を始めている。 その頃、 北海道や宮城県においても漁民が海を守るために植林活動を開始した。 また、 神奈川県の助成事業を契機に出発した 「玉川きづなの森」 は、 雑木林の手入れとともに、 炭焼き、 クラフト、 祭りなどの活動を行い、 「里山ブーム」 の火付け役の一端を担った。 このような活動は、 1990年代に入ると全国的な広がりをみせていった。
それらの背景には、 「原生的自然の保護」 から 「自然と人間との共生」 へという、 自然に対する考え方の変化があげられる。 そのような変化を象徴するのは、 ともに1989年に発表された鳥越晧之と内山節の言説である。 鳥越は 「近代技術主義」、 「自然環境主義」 に対して 「生活環境主義」 を提唱し、 内山は森林を単なる自然的存在としてだけでなく、 社会的存在としてもとらえることを主張した。 これらはともに、 人間とかけ離れたところで自然をとらえるのではなく、 自然と人間との関係を重視する点で共通していた。 また、 1987年の第4次全国総合開発計画による四つの森林タイプの一つとして、 雑木林を意味する里山林タイプが打ち出されたことも、 ブームの背景としては無視できない。
コナラやクヌギなどの落葉広葉樹を主体とする雑木林=狭義の 「里山」 は、 薪や木炭を生産するために、 数百年にわたって人間が自然の力を利用しながらつくりあげてきた二次的自然である。 里山は、 そのような関係を歴史的に象徴し、 かつ都市住民にとって 「奥山」 よりも身近な自然でもあった。 里山の放置されてきた雑木林は、 関東・北陸以南では本来の植生である常緑広葉樹が復元されてきている。 しかし、 落葉広葉樹林の方が植物も動物も種の多様性に富むので、 雑木林の手入れはそのような豊かな自然を維持することをも目的としている。
5. 21世紀の森林・山村がめざすもの−里山 ブームに続くもの−
現代社会では、 「稼ぎ」 のためにあくせくと働き、 「遊び」 のために次々と消費を強いられるような仕組みが極度に発達してしまった。 そのようななかで、 森林という自然と直接にかかわりながら汗を流したり、 人の輪を広げたりすることが、 新しい自然と人間との関係、 人間と人間との関係を模索する大きな第一歩となっている。 ただし、 マスコミによってつくりだされた 「里山ブーム」 に比べると、 実際の都市住民による里山活動は地道なものの積み重ねにすぎない。 21世紀に入ると、 このような地道な活動はさらに盛り上がっていくだろうが、 他方で学級崩壊という言葉に象徴される公教育の現状を救済するための切り札として活用されることも期待される。
ところで、 里山の雑木林は薪炭生産が終わってから50年くらい経つものが増えている。 コナラやクヌギは伐採した後、 自ら芽をだすので、 伐採することが同時に更新することをも意味する。 しかし、 それも若いうちの話で、 50年生にもなるとそろそろ更新する力が衰えてくる。 日本の雑木林も、 その対策を考えられなければならない時期にきている。
そうなると、 雑木林は市民による新しい 「遊び」 や 「教育」 の場としての拡大だけでは間に合わない。 スウェーデンのように電気や熱の供給資源としての活用が一つの方法としてあげられる。 現在のところは採算の上で非常に難しいが、 化石燃料の価格高騰もそう遠くはなかろうし、 地球温暖化に対する森林の役割が国民に理解され、 炭素税などの制度ができれば状況も変わる。 そのような時代がくると、 山村の雇用機会にも結びつくことになる。 その時、 里山の利用をめぐる都市住民と山村住民との 「共存」 のあり方も問われてくる。
21世紀は環境や福祉、 情報という課題が、 山村の新しい産業に結びつく可能性の高い時代である。 たとえば、 コンピュータによる情報ネットワークの発達は、 山村が若い人たちの働く場にもなる。 いっぽう、 超高齢社会に向けて定年退職後に山村への移住を望む人たちが増えている。 かれらが都市で身につけた技術を稼ぎとしてではなく、 地域で共に生きるための手段として生かすことも大切になる。 そこでは、 新しい全国総合開発計画で打ち出された多自然型居住地域において、 新しい 「ムラ (Community) づくり」 が求められることにもなる。 さらには、 そのような社会づくりの器として、 「地域生態系が完結した小都市」 としての 「森林化社会」 が現実味を帯びてくることにもなる。
都市と山村との交流という点からみれば、 市民ボランティアの活動のなかに、 21世紀の予兆を示すものも存在している。 「浜仲間の会」 は1990年代にはグループのなかに課題別の新しい組織をたくさん生みだした。 そのなかに、 「東京の木で家を造る会」 がある。 森林ボランティア活動をする建築家を中心として、 活動地域の樹木を使って家を造ることによって、 地域の林業家と新しい関係を築こうというのである。 シックハウス症候群が大きな問題になってきているなかで、 このような健康障害とともに林業の衰退を食い止めるためには、 都市の環境市民と林業家、 建築家などが一体となって考え行動していくことが、 大切になってきている。 そこからは、 地域と消費者団体を含む様々なグループとの間で、 互いに納得のいくような森林の持続的な経営と健康住宅の実現をスワップさせながら、 雑木林の利用や農林産物の販売などまで含んだ新しい交流関係が展望される。 さらには、 山村と都市のそれぞれにおける人間関係の良さ悪さが補完されていくことも、 期待される。
こうしてみてくると、 1990年代における森林をめぐる都市と山村との新しい交流の胎動は、 21世紀における 「循環と共生の社会」 づくりにとって、 トレーニングの時代であったと位置づけられることになるのかもしれない。
主な参考文献
岩井吉弥 「世界の林業の短伐期化と日本の林業」 『林業経済』 597号、 1998年。
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鳥越晧之編 『環境問題の社会理論』 御茶の水書房、 1989年。
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三井昭二 「都市・山村関係からみる林業労働力の新しい動向と意義」 『林業経済研究』 125号、 1994年。
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山田勇編 『森と人のアジア』 昭和堂、 1999年。
情報誌「岐阜を考える」1999年春号
岐阜県産業経済研究センター