水陸の境界域としての漁村
清 野 聡 子 |
(東京大学大学院 総合文化研究科 広域システム科学科 助手) |
岐阜県には、 日本最古の海が眠っている。 地球表面の営力によって、 オルドビス紀以降の地層が山地の一部を成している。 調査旅行で訪れた福地で採集したデボン紀の黒い石灰岩には、 ウミユリなど当時の渚の記録、 珊瑚礁の生物の化石が含まれていた。
現在の岐阜県は 「海無し県」 であり、 住民の海への想いは遠いように思われる。 地域の再生も山村としての位置付けが中心であろう。 しかし、 今、 日本の海にとっては、 山のあり方こそが運命の鍵を握っているといっても過言ではない。 日本の多くの漁村は海岸に位置する。 山からの水と土砂が海に至り、 沿岸の環境を支配する大きな要因になっているからである。
本稿では、 海辺の多自然居住地域として漁村を取り上げる。 漁村は漁業という第一次産業を中心にしたコミュニティである。 栽培漁業が進んだとはいえ、 基本的には天然資源に依存しているため、 漁場という場を持続的利用が可能な環境に保たないと漁業自体が成立しないはずである。 現実の日本の漁村は、 大半は海辺に立地してはいるが、 もはや 「多自然」 と堂々と言える状態にはない。 それは、 いささか寓話的な理由による。
明治以降、 日本の漁業は自国での消費だけでなく、 貿易品としての価値を見出し、 沿岸から沖合、 遠洋へと漁場を拡大してきた。 さらに、 第二次世界大戦によって、 労働力や漁船の多くを失いつつも、 戦後の復興期には、 漁船のエンジンの搭載や大型化、 漁労の機械化、 漁船の大型化により花形産業の時代も謳歌した。 一方で、 漁村から都市部への人口流出が激化し、 漁村の過疎化も進行した。 その防止策として、 各種の漁村振興が行われたが、 その中でも漁港という漁業のベースステーションの基盤整備が急速に進展し、 全国に3000弱の漁港が建設された。 その結果、 確かに大型漁船の係留が可能となり、 荷揚げの利便性も増大し、 省力化には貢献した。 しかし皮肉なことに、 漁港や沿岸の 「整備」 が漁場の質を低下させる原因のひとつとなってしまったのである。
例えば、 ウニ、 アワビ、 サザエ、 などといった地先で採集される魚介類の生息地は、 漁村の 「地先」 の海であり、 小舟や徒歩で漁場に行くことが出来た。 高齢者や女性、 時に子供もそのタイプの漁労には参加できた。 この一番便利で、 かつ、 海岸生物の生産性が高いエリアこそが、 漁港に置き換わっていった。 こういった漁港建設は、 もちろん悪意があったわけではなく、 利便性を優先させたのだが、 計画当時には港が建設される場所のみを喪失する程度の認識であったと思われる。 なぜなら、 港周辺には、 「いくらでも自然海岸が残っていた」 からである。
ところが、 いくつかの誤算があった。 それは、 港周辺に泊地や漁業施設や漁村集落の拡大のための埋立、 湾岸道路などの構造物の建設などによる人為改変、 さらに生活・工業排水の流入による水質悪化などが累積して、 沿岸生態系がひどく衰退してしまったのである。 また、 構造物の影響は、 港周辺にとどまらず広域的な影響をもたらした。 人工構造物によって沿岸の海流や漂砂のバランスが構造物によって変化した。 しかし、 これは時に行政的な境界を超えていたため、 現象としては発見されながらも、 対策が遅れた。
例えば、 A町の構造物によって沿岸漂砂系が遮断され、 隣接するB町の海岸が侵食された。 その対策のためにブロック護岸が設置され漁場として使いものにならなくなったとする。 AとBの町の行政区分の存在だけでなく、 管理者の系統が国の省庁レベルで異なった場合には、 その協議は事実上厳しいものがある。 対症療法的には上述のようになされているが、 長期的にその沿岸をどのように管理していくのか、 といった視点が十分であったとは言えない。
日本の海岸線はほとんどが公有地である。 そのため管理に利用者や市民が口出しをするという発想自体がなかったため、 公共的に計画されたものを受け取るというシステムになっていた。 公有地のあり方について誰が長期的に責任をとるのかは行政的問題でははかれない。 行政担当者は、 ある範囲でしか責任を持っていないので、 全体に対する提案はほとんど行えない。 もちろん、 公共事業としては手続き的に 「地元の要望」 は聞いてきたが、 その制度が本当にどこまで本質的に機能してきたかについては、 あらゆる公共事業について再検討を迫られていることは周知の通りである。 さて、 漁業の発展と良好な漁場の確保が両立しなかったわけだが、 さらに乱獲の招来という悪循環が生まれた。
ところが、 近年の日本漁船の遠洋漁業からの締め出しや、 漁獲の不振により、 いざ沿岸に、 故郷に漁業者が帰還して地に足のついた漁業を営もうと思った時には、 そこには豊かな漁場が残っていなかったのである。
このような、 漁業のためのインフラ整備が漁業者の首を締める、 という本末顛倒は以前から問題視はされてきたが、 昨今顕在化しつつある。 その理由として、 まず、 漁業者の高齢化があげられる。 そして沖合や外洋でハードな漁労をしてきたが、 高齢化のため小さい舟で個人的に釣りなどで行える形態を望む漁業者が増えたこと。 現実には、 そういった個人的漁業が可能な磯や地先の海はことごとく環境が悪化していて、 そういった終生働くという夢を実現させにくくなっている。 さらに、 日本の漁業を支えて来た世代がこのような状況を突きつけられたことは、 痛ましくすらある。
漁業者の就労人口が30万人を割った現在、 漁村や周辺空間、 そして海面は漁業者だけのための空間なのかという問題が発生している。 海の利用という点では、 歴史的に漁業者が漁業権を持ち、 優先的に利用することが認知されてきた。 しかし、 近年、 マリンスポーツ人口の増大と、 海洋性レジャーの多様化によって、 海の利用者が漁業者以外にも急増した。 その結果、 利用者と漁業者の摩擦が各所で起きている。 それを回避すべく、 プレジャーボートの置き場としての港の建設なども行われているが、 これもまた上述のように、 沿岸生態系への脅威となっている。 いずれにせよ、 沿岸生態系保全か利用かという折り合い、 あるいはトレードオフから目を背けられない事態となった。
さらに漁村をめぐる状況は厳しい。 漁業振興は、 食糧国防上も必要だと言われて来たが、 バブルの時代に水産物の輸入への依存が進行した結果、 さかなは獲れても高く売れない、 生計が立てられない、 漁業の将来展望がない、 最終的には漁場を換金する (漁業保障) という発想が生まれる……といった実態になってしまった。
沿岸環境の悪化、 漁業者人口の衰退、 といった具合に漁村の過疎化が深刻化するなかで、 都市部に近い漁村には活気があるところも多くある。 それは、 流通や魚価のコントロールが成功している例である。 その様子をみて、 「ブランド」 さかなに夢を託す後続者もあるが、 ブランドは希少価値があるからブランドなのであって、 それが一般化した場合には困難である。 「なまもの」 であることがたたって、 流通ルートにうまく乗らないことも多い。 漁村の盛衰は流通にかかっているといっても過言ではない。
地方に行けば自然が残っている、 というのは全くの幻想であって、 日本の沿岸にはあらゆる構造物が満載されている。 沿岸の構造物の建設自体が地場産業化してしまった場合には、 漁場保全という名目すらもたちにくい状況になっても、 もはや止められないというのが現状である。 このような、 自分自身を食いつぶしていくような漁村の悲しい状況に対して、 どのような解決策があるのだろうか。
さて、 具体例をもとに考える。
1) 地域環境の全体計画は誰が創るのか?
例:大分県杵築市守江湾の変遷
1966年 湾内に人工構造物はほとんど無く、 自然海岸が連続している。 河口にはそれぞれ干潟が広がり、 砂浜に豊富に砂が存在している。 湾に面した漁村の地先に小舟が並べられている。
1977年 港や護岸の建設が急速に進展した。 リゾート開発、 道路整備が行われ景観が一変した。
1990年 湾岸の海岸線のうち、 自然海岸が3割となった。 各漁村の前には立派な港が整備され、 それを守る防波堤も伸長した。 その結果、 利便性は増したが、 湾全体の系を考えると、 湾の閉鎖度を高め、 水循環も悪化し、 漁場としての利用価値が低下した。
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1966年(昭和41年) |
1977年(昭和52年) |
1990年(平成2年) |
この湾の現状の哀しさは、 個々の事業が、 個々の集落の要望に忠実に対応した結果の累積である点である。 内湾の閉鎖度をわざわざ高めるためのものではなく、 それぞれ、 泊地の拡張はより大規模な漁業が営める夢を実現させたし、 漁船の航行の安全確保のために防砂突堤を伸長し、 利便性と快適な漁村生活を実現するために漁港周辺を埋め立てたのである。 ところが、 事業が完遂した時に全体を見てみると、 当惑を禁じえない状況となった。
漁業を目的とする港の整備においては、 漁業者の要望がきっかけとなって事業が発生することになっている。 この場合、 長期的に一番困るのは当事者である漁業者である。 地先の漁場を喪失したためである。 (専門用語の説明を若干。 同じ港に見えても、 管理者によって呼称が異なる。 一般に、 「漁港」 の場合は、 管理者が国なら水産庁、 地方自治体なら水産関係部局であり、 「港湾」 は、 運輸省および港湾関係部局である。 行政関係者以外にはほとんど意識されない差異である。 しかし、 この2者の差異は、 漁業者が自分で使う施設への関与の大小を左右している。)
このような場合、 地域の全体計画を誰が行うべきであったのか。 当時それを行うことが、 行政体の各部局で可能であったのか、 現在は、 と考えると、 困難なことは容易に予想できる。 地元の住民も全体を考え提案する社会的仕組がなかったため不可能であった。
2) 漁村の集落と港の変遷
例:大分県杵築市納屋地区周辺
1956年 納屋集落は、 河口に位置し、 地先には砂泥質の干潟が広がっていた。 魚介類が豊富に獲れる場は、 かたや、 荷揚げには足場が悪く不便であった。 川筋や海岸に発見される小舟は、 当時大半が木造船であり、 人力で陸に上げられた。
1977年干潟を掘り込んで、 泊地が建設された。 周辺の干潟は残存している。 この頃までは、 市街地や近隣の農村に漁村の女性が直接魚の行商を行っていた。
1990年 港の拡張工事、 付近の埋立が進行した。 集落の道路や住宅地も整備され、 近代的な漁村へと変貌しつつあった。 地先の干潟だけでなく、 魚介類の産卵・生育場となる藻場も消失した。 漁獲物の流通も広域化し、 地元の魚を地域住民が食せない状況が生まれ、 漁村の孤立化が進行した。
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1956年(昭和31年) |
1977年(昭和52年) |
1990年(平成2年) |
この事例は、 日本の漁村の典型例であると言える。 各漁村の基盤整備も原因のひとつとなって、 地先漁業が衰退してしまったという寓話である。 従来、 沿岸環境の人為破壊の原因としては、 漁業関係以外の産業の要請による埋立が代表的例として知られてきたが、 小規模の地先の改変がこのような結果となるとは、 要望した側も事業者も予想しなかったのではないか。 あるいは、 それが顕在化したときには、 事業のシステムが止まらない事態になっていたのだろう。 事業の論理に破綻は少ない。 その漁村の幸せを願って行ったことなのだから、 悪いことがあろうか、 ということになってしまう。
3) 海外雄飛の漁業形態がもたらした故郷の海辺
例:青森県下北郡大畑町
大畑川が造った平野部に広がる集落。 イカ漁業が盛んで、 目の前の津軽海峡から北海道沖、 さらには南米へと漁場が遠くに展開していった。 それに対応した大型漁船を停泊させるために、 港を河口の狭隘地から外海側へと拡張した。 その結果、 集落の地先の砂浜や磯が失われた。 豊穣だった故郷の海と川を再生させる必死の努力が地域住民と行政により行われている。
「地先で行われている定置網漁業の様子がおかしい」。 これが、 大畑町の市民フォーラムが漁業者のヒアリングを行った際に気づいた点であった。 定置網とは、 いわば沿岸環境のモニタリングシステムとも言うべきものである。 定置網は海岸から道網と呼ばれる垂下する網を海岸線と直交させて、 岸沿いの流れに乗って泳いできた魚を誘導して沖にある袋状の網に漁獲する方法である。 そのため、 沿岸の流れの状況を反映しやすい。
その定置網に木の葉や泥が多く入るようになったという。 海ではなく川起源の物質が流れ下る状況が変化しているのではないか。 そこで、 流入する川の状態を調査に行ったところ、 川の直線化、 人工護岸化について改めて意識させられることとなった。 子供時代にささやかな漁労を行った淵や瀬が消失しており、 単調な環境が存在していた。 さらに上流に遡ると、 そこには荒廃した森林が広がっていた。
4) 海の恋人の森が怒った場合
例:青森県下北郡大畑川上流
山腹のヒバ林の地表面が崩落した (写真1)。 立ち木、 切り株、 間伐材が沢を土石流とともに流下した。 川を下り、 海岸に堆積し、 流木災害となった (写真2)。 原因は台風による豪雨が引き金であるが、 森林管理のありかたも検討課題となった。 「森は海の番人」 などと言われるが、 海は森の恩恵だけでなく荒廃もまた受ける。
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写真1 |
写真2 |
2つの地域の例ではあるが、 同様の例は枚挙にいとまがない。 これらは、 地域自然の全体計画の欠如が大きな原因であると言ってもよかろう。 大畑川流域ひとつとっても、 おおもとの計画は国レベルで決まっており、 森林は林野庁、 河川は建設省、 海岸は水産庁と建設省にと、 本来連続して存在しているものの管轄が分断化されている。 森江湾の沿岸管理も同様である。 このセクショナリズムは、 仕事の分担という点では効率的なシステムであったろう。 そのシステムの中で多くの人が血のにじむ様な努力をしてきたことも、 十分評価すべきである。 調整のシステムが全くなかったわけではないが、 事実上機能していない場合が多かった結果が今日の状態である。 しかし、 ひとつの所管の管理のあり方が広域的、 長期的視野を欠くと、 影響もまた広域的、 長期的になるという点においては、 一種の制度疲労ともなっている。
これらの所管の壁は、 地域行政がイニシアティブを取り、 調整が進めば変わるであろうと期待されている。 しかしながら、 対自然に関しては、 それだけの技術力、 判断力が地域に存在するのかという疑問も依然としてある。
例えば、 荒廃した山林の崩壊斜面、 急激に進行する海岸侵食、 洪水、 悪化した水質、 自然環境の復元……これら自然に挑む、 あるいは、 対応するための対症療法的な技術は存在し、 確かに何らかの対策はなされる。 しかし、 全ての地域に長期的に有効な対策を講じたり、 既存技術を有効活用したり、 地域性にあわせて改良、 開発できるのかという問題についてははなはだ疑問である。 その理由は、 それでも一向に改善されずしゅくしゅくと進む対策事業を見ることが多いためである。
地方に行けば自然が残されているなどとは大嘘であると叫びたくなるような現象を、 歩けば必ずといってよいほど目にしてしまう。 「多自然」 の維持のためには、 全体の計画性が議論されるべきである。 この主体は誰になるのか?
解決策としては、 先見の明があり活発な発言をしていける地域住民の存在が根幹にあると思う。 良くも悪くも、 地域行政の質はそこの住民の意識に依存している。 その意義に啓発されて、 今まで十分に機能していたとはいえない社会集団も再生するであろう。 調整や企画能力に恵まれた地域行政は厚い信頼を得る。 そして、 地域からの具体的問題解決を望まれた専門家が技術、 知見、 情報を提供する。 専門家自身もその地域との接点で心躍る気持ちになり、 自分の存在価値を思わず確認してしまうといった、 良い循環が生まれるのではないか。
「多自然居住地域」 とは、 その自然の管理に関与する自然だけでなく社会のシステムもまた多様であるとも言える。 現行の社会システムの改善が必要だとは誰しもが思うことであろう。 しかしその方策の普遍性はとりあえず存在しない。 あえて普遍といえば、 どこにでも実現するわけではなく、 結果的には活発な個人が不可欠であり、 その人々を擁する土壌のある地域性なのではないだろうか。
情報誌「岐阜を考える」1999年春号
岐阜県産業経済研究センター