多自然居住地域のありようを考える
平 野 秀 樹 |
(林野庁国有林野総合利用推進室長) |
21世紀の国土のフロンティアと称される多自然居住地域。 このエリアの去就は、 わが国全体の未来を占う意味でも大きい。 多自然居住地域における新しい暮らし方の技法や意識というものを、 どのような手段で築き上げ、 そして引き継いでいくべきかこれが今回のテーマである。
多自然居住地域のいま
多自然居住地域の定義は、 新しい全総によると地方中小都市や農山漁村、 中山間地域など、 いわゆる豊かな自然に恵まれた地域とされているのだが、 まずはその現況について見てみることにしよう。
緑豊かだとされる多自然居住地域の景観を眺めてみると、 コンクリート製の大型公共建造物や無秩序な野立て看板によって、 視覚的に大きく変化しつづけている。 かつての掟や共有に対する考え方もしだいに都市化していくなど、 当地域の変容は、 視覚ばかりでなく、 目に見えない社会の原理など構造そのものにも及んでいる。
地方中小都市の近郊地区に目をやれば、 農地がつぶされ、 住宅・商業施設になり変わっていることがしばしばある。 郊外の大型ショッピングセンターへのマイカーの列が毎週繰り返される一方、 駅前商店街のシャッターはおろされ、 さびれていくばかりだ。 過疎は辺境のみならず、 旧中心市街地の商店街でも起こっている。
奥地山間地区では耕作放棄や植林・間伐の放棄が進んでいる。 第一次産業の衰退、 人口減少、 高齢化の進展、 賑わいの喪失、 所得水準の低さ…。 こうした現象は辺境にあまねく共通する課題であり、 その深刻さは世代替わりのときを経て、 さらに増していくことだろう。
誤謬の是正
深刻であるはずの多自然居住地域問題なのだが、 里山ブームや森づくりボランティアの隆盛は、 都会人中心のお気軽モードの延長でしかない。 ガーデニングや自然回帰ブームも同様で、 これらを自然から足の切れてしまった都会人の本能的行動とみるか、 それとも贅沢と見るかは意見の分かれるところであるが、 イメージとしての林業や農業が都会人にとってペット化しつつあることは事実であろう。
1999年のUJIターン志望者の希望職種は、 第一位が農林水産業の21% (前年度14%で第二位) で、 特に林業志向が強まったという。 しかし、 林業がもつ人口扶養力の現状を考えたとき、 この希望が幻想でしかないことは明らかであろう。
そもそも自然保護や森林ボランティアだけでは飯は食えないのであり、 とりあえず明日をどう生きていこうか……ということは、 どこに住もうとも第一義のテーマにならねばならない。
要するに、 多自然居住地域での暮らし方の技法が問われているのである。
変化をもたらしたもの
大型店舗の是非をめぐっては、 買い物客とのコミュニケーションを欠いているとか、 エネルギーロスが多いとか、 確かにいくつもの問題点を孕んでいる。 ただ、 いくら伝統の大切さや省エネを説いたとて、 こういったトレンドの中で一度知ってしまった便利さや安さを否定し、 放棄することなど到底できまい。
現状のままでは、 全国画一のコンビニエンス型大型店舗と、 そこへ車で通いつめる周辺住民のきままな関係が固定化していくばかりだろう。 私たちは車社会という便利で近代的な生活を超えられないまま、 拡大型消費をこれからもつづけることになるのだろうか。
そうはいうものの、 スプロール化していく郊外の都市化をただただ是認するわけにもいかなくなっている。 長い目でみれば、 使い捨ての車社会特有の移り気な性向が、 土地という不動産日本では限られているのだがをめぐって繰り返され、 やがて農地に戻せない見捨てられた郊外空地が出現してくるだろう。
もう一つ。 この100年余りの近代化の過程で、 9,000万人が海岸部の都市に住みついたわけだが、 なぜ人々は山を降り、 島を出ていったのか。 多自然居住地域の辺境部山村や離島では引きつづき人口減少がつづく中で、 広大な過疎地帯や無人地帯が発生していくことが予測されるが、 これらを 「見捨てられた土地」 として許容すべきであろうか。
もちろん、 産業扶養力の問題にいきつくわけだが、 今後も変わらず、 若者が働ける場所が偏ったところにしかないという現実を私たちはどう超えていけばよいのか。
多自然居住地域での産業活動について、 その自立的モデルの芽が早晩示されなければならないのだが、 手だてを考える時間の猶予は、 あまり残っていない。
変化を今後、 もたらしてくれるもの
多自然居住地域でのコミュニティについても言及したい。
昭和初期までは、 道の辻に人がよく集まったもので、 そこでは相撲や紙芝居、 時には猿回しなどの大道芸も行われた。 いわゆる 「辻寄り合い」 というものだが、 それが自動車のために放逐され、 広場というものがなくなっていった。
わずかにゲートボール場が今日、 その機能を継承しているように見受けられるが、 総じて人間相互の親和感を強める機会も場所も少なくなり、 都市化、 国際化の一方で地域文化というものがうすれるばかりである。
確かに、 農村共同体時代は住民たちが同一の生業に従っていたから、 同業者共同体として、 地域の寄り合いは機能していた。 農民は農民、 漁民は漁民、 商人は商人として同一の地域に群居し、 それぞれがその共同体の中で必要としあっていた。 「組 (若者組、 娘組)」 「講 (念仏講、 無尽講)」 「結 (屋根葺き、 炊きだし)」 などの協力システムが、 コモンズとともに機能していた。
ただ、 異業の住民がその中に加わるようになって以来、 つまりサラリーマンをはじめ、 共同体の目的と生活を異にする多くの人たちが戦後の高度成長期に居住 (混住化) するようになってからは、 地縁は形式化に傾斜していく。 勤めを他の地域に求め、 そこでの新しい序列が生まれることによって、 つまり社縁への結びつきが深まるにつれ、 暮らしの関心事は村社会から外の別の組織へと変化していった。
しかし今後は、 かつての協力・共同方式の再評価もまた、 一部ではじまるのではないか。
集団というものを維持 (メインテナンス) していくためのシステムとして、 かつての 「高度な生活技術」 を思い起こすことが必要だと気づいていくかもしれない。
多自然居住地域を大きく変える原動力として、 このコミュニティに期待したいのである。
新しいコミュニティから
いま、 かろうじて辺境部に残る消防団、 青年団、 婦人会、 老人会といった集落単位の運動や生活改善活動などのローカルコミュニティと、 都市側で増えはじめている環境研究グループや生協組合などによるテーマコミュニティの二つがもつ特質を相互に補完し合えるような新しいかたちの集団いわば、 新型のコミュニティが待たれるのではなかろうか。
これらの構成員は、 今日の高度情報化に支えられ、 住区という物理的な枠組みを超えた広がりをもつネットワークとして発展していく可能性がある。 つまり、 地縁 (住縁) を超えた機能的集団、 機縁社会として成り立っていくことも予測される。
現在、 企業のコミュニティよりも家族コミュニティや地域のコミュニティが見直される動きがあるが、 いったい、 これからのシニアシティズンたちはどのような場所へ移動し、 市民力を支えていくためにどのようなコミュニティを創り上げていくのだろうか。
そのインセンティブは環境と食糧が与えるように思われる。 食品の安全性への危機感は巨大都市部ほど著しいが、 この動きは21世紀に入ってますます増幅するであろう。
また、 自給率がもつ意味を改めて確かめるようになっていくのではないか。 東京都1%、 大阪府2%、 神奈川県3% (全国41%:1997年カロリーベース) という自給率をどう評価していけばいいのか。
多自然居住地域は、 そういった観点からも注目されていくだろう。
これからの多自然居住地域
「近所の人を何人知っていますか?」
アメリカの都市の場合、 回答の平均値は7人だったという。 わが国なら、 いったいどのくらいだろうか。 個人化は都会ほど進みゆき、 向こう三軒両隣などと言っていたのは、 もう昔の話。 マンションなら隣の人とは疎遠の方がいい……、 これが通常のスタイルになろうとしている。
世のすう勢は依然として、 都市化とともに核家族化や個室化、 そして携帯電話の隆盛にみるように個人化が著しい。 私たちは巨大都市化に憧れる過程で、 群れることを厭い、 相互扶助の世界より自分ひとりの世界を大切にしようとしているかのようだ。
しかし、 これでは危ういのである。 阪神淡路大震災のときの北淡町と神戸市のコミュニティの差がよくいわれるが、 災害時には地域の人同士のつながりの差が如実に出るのである。 良きコミュニティを求めて、 人はこれから移動しはじめるのではあるまいか。
すでにアメリカでは、 小さなまちへの回帰現象が一部で起こっている。
インターネットをはじめとした高度情報化の発展による新しい職種の成立とともに、 高速宅配 (国内24時間以内の配達) の出現などがその動きを加速させているという。
わが国でも、 こういった動きがやがて加速していくだろう。
その時、 必要となるものは受け入れる側当該多自然居住地域の中長期プランであり、 独自の成長計画だ。 しかしそれは、 どこまでも成長し、 拡大するものではない。 ちょうどいいところで平衡状態にならねばならない。 自然という世界が遷移をつづけていってやがて極相を迎えるように、 多自然居住地域なりの新しい極相のすがたが求められているのである。
その時、 そこで暮らす人たちの生活生態系は、 世界標準 (グローバルスタンダード) では成り立たない。 低い実支出で可能な暮らしがあり、 それでいて高い栄養 (情報) の摂取と長寿が約束され、 何よりその社会が安全な場所であるという世界いわば、 地域スタンダードをもってはじめて成り立つ生活生態系 が新しい多自然居住地域には内在されているものと考えられる。
情報誌「岐阜を考える」1999年春号
岐阜県産業経済研究センター