生物学から見た少子化



村山美穂

(岐阜大学農学部)


はじめに

 生物学から見た少子化といっても、私は繁殖の専門家ではない。ウズラ、ウシ、サル、イヌなどを対象に、遺伝子の多様性を研究している。そこで少子化という問題について、生物学という広大な範囲の中でも「遺伝子」をキーワードにして考えてみたいと思う。


異常な生物;ヒト

 「少子化」は、生物学的に見れば極めて異常な事態である。19世紀半ばにチャールズ・ダーウィンが突然変異と自然淘汰に基づく生物の進化論を唱えて以来、生物の様々な行動や生態は、子孫をできるだけ多く残ためにあると意味づけられてきた。リチャード・ドーキンスは「生物=生存機械論」において、この考えをさらにおしすすめ、あらゆる生物は遺伝子が自己複製するために必要な「生存機械」であると述べている。すなわち、餌をとる、縄張りを防衛する、捕食者から身を守る、交尾する、子育てをするといった行動は、すべて自分の遺伝子をできるだけ多く次世代に残すことに結びついていると考えられる。少子化は、ヒトの生物としての存在理由に反しているということができる。


少子化の原因

 ではなぜヒトにおいて、少子化現象が起きているのだろうか。実は生物としてのヒトは、もともと多産には向いていない。効率のよい繁殖のために、生物の投資する方向性には2種類ある。多くの魚のように、できるだけ多くの卵を生むことにエネルギーを投資し、世話はほとんどせず、子孫がわずかでも生き残ればよいという戦略と、栄養のある大きな卵を生むことや、育児に投資し、少数の子孫が確実に生き残ることを目指す戦略である。ヒトは後者の少数の子に手間をかける生物である。
 さらに、ヒトは脳が発達したために胎児の頭が大きくなり、直立歩行という姿勢の問題もあって、胎児が十分に発育するまで妊娠を維持することができず、他の動物と比較して早産にならざるを得ない。ヒトの子供が生まれてから親の手を離れて自立できるまでの期間は、おそらく動物の中で最も長い部類であろう。生まれてから1年近くの間、つかまることも自力で移動することも充分にできないヒトの赤ん坊は、母親にとって大変な負担である。ヒトの家族の起源は、子育ての問題に起因するとの説もある。生まれて間もない子供を持つ母親は、自力で充分な食物を手に入れることができず、子供の父親であるオスの助けを借りねばならない。そのために一組の男女が子育てと食物採集を分担する家族の原型ができたといわれている。すべてのヒト社会に一夫一妻型の家族が見られるわけではないので、この説は全面的に支持されてはいないが、家族の起源を説明する要因の一つであると思われる。太古の昔から、育児の困難さは、オスの助けを得られても依然として解決してはいない。少子化の大きな原因は、このような育児の困難さにあると思われる。
 近年の少子化には他の理由も考えられる。子供を産み育てるという生物の原則は、ヒトにおいては本能としてではなく、むしろ生後に習得する社会習慣、すなわち文化として継承されてきた。しかし近年の価値観の変化に伴って、結婚して子供を産み育てる以外の生き方や人生の楽しみの選択肢が広がった。家族の形成によって一旦は仕事と育児・家事、というように分離していた男女の役割分担が、近年になってあいまいになってきている。少子化につながるセックスレスカップルについても、その要因について現代社会のストレスの多さ、女性ホルモンと同様の影響を及ぼす環境ホルモンの増加による男性の女性化、などの議論がある一方、セックスにとらわれない新しい夫婦の絆の形であるという主張もある。
 ヒトは本当に異常な進化を遂げようとしているのだろうか?


文化を伝えるミーム

 実は前出のドーキンスは、ヒトの行動には子孫を残すという目的からは説明が困難なものもあると認めている。例えばホモセクシャルのヒト、独身主義のヒトは子供を残さないので、こうした行動は次世代に伝えられることはないのだろうか?ヒトは生来持っている能力よりも生後に習得する能力の方が圧倒的に多い。染色体上の遺伝子は子孫に伝わらなくても、発明発見をする、本を書く、絵や音楽などの芸術作品を残す、などによって、個人の創造物を文化として子孫に伝達することは可能である。ドーキンスは、ヒトに独特の文化の伝達単位として、ジーン(遺伝子)に対して、「ミーム」という概念を提唱している。ミームは遺伝子とよく似ている。同じようにヒトからヒトへ伝えられることによって自己複製をし、多少の突然変異を起こすこともあり、あるものは選択を経て滅び、あるものは長く生き残る。つまり他の生物と違ってヒトという「生存機械」には、ジーンだけではなくてミームも乗っているのである。ヒトにとって自分の考えを世間に広めたり、作品をつくったりすることは、子供を育てるのと似た喜びをもたらす。自分の子供には自分の遺伝子は半分だけ伝わる。数百年後の世界において、自分の遺伝子セットが果たしてどのくらい存在しているのかは定かではない。もしあったとしても、多くのヒトの遺伝子と混じり合い、断片的に存在しているにすぎない。一方ミームの場合は、作品や書物として、後世に自分の存在をそのまま残すことができる。マスメディアを媒体とすれば、遺伝子を残すよりもはるかに多くのヒトに影響を及ぼすこともできる。遺伝子よりもミームの価値を重んじるヒトがいても不思議はないかもしれない。
 霊長類社会の観察によって、文化とよべる行動はヒトに限らないことがわかってきた。たとえばチンパンジーの群の中で伝えられているヤシの実割りやシロアリ釣りの方法も、ヒトの文化に相当する。子供を残すことを目的としない繁殖行動もあるのだろうか。ニホンザルのオスの間には、厳密な階級が存在し、高順位のオスは多くのメスと交尾することができる。私たちの研究グループが、遺伝子を調べて子供の父親を鑑定したところ、高順位のオスは必ずしも独占的に多くの子供を残しておらず、交尾数の少ない低順位のオスも子供を残していた。また定期的に採血してホルモンを測定することにより、メスの排卵、妊娠時期を推定したところ、妊娠成立後かなり日数が経過しても盛んに交尾していることが分かった。これはヒト以外の動物では極めて珍しいことである。しかも排卵日周辺と妊娠成立後では交尾相手が変化し、妊娠成立後に高順位のオスと多く交尾していた。これは順位の高い実力者のオスに、子供の父親と信じさせて保護してもらうねらいなのだろうか?単にセックスを楽しんでいるのだろうか?オス同士の争いに勝って高順位になっても子供を多く残すわけではないという事実や、妊娠に結びつかない交尾行動は、ニホンザルの20年以上におよぶ生涯の中で、すべての行動が遺伝子の支配下にあるのではないということを示しているのかもしれない。


少子化の結果何が起こるか

 20世紀になって人類の活動のために絶滅した動物は数多いが、それらの種の絶滅の経過を見ると、最後の2個体がつがいで残っていれば繁殖できるというものではないらしい。それぞれの動物の繁殖生態も影響するが、ある程度以下まで個体数が減少すると、個体群全体としての繁殖エネルギーが衰えるらしく、対策を講じても自然な個体数増加にはなかなか至らないといわれている。このまま子供数の減少が加速されると、ヒトの遺伝子プールの多様性にも偏りが起こり、複雑な環境変化に適応できなくなるかもしれない。将来的には子孫が激減し、ヒトという種の絶滅という危険性も考えられる。


どうしたら解決できるか

 一つの考え方は、あえて解決しようとせず、ミームつまり教育・文化による遺伝に期待することである。次世代に遺伝子を残したいヒト、ミームを残したいヒト、それぞれに価値があると思う生き方を選べばよいのではないか。
 しかしそうは割り切れるものではないかもしれない。遺伝子もミームも、可能であれば両方残したいというヒトもいるに違いないし、個々の人生の充実のためにも、遺伝子プールの多様性のためにも、選択肢は多いほうがよい。哺乳類であるヒトでは、父親よりも母親のほうが、出産や育児の負担は重いので、私の近辺を見回してみても、仕事を持つ女性は、仕事と育児の両立に苦労している。出産を機に仕事を辞めたり、フルタイムからパートタイムに切り替える女性も多い。出産後も同じ職場で仕事を続けようと望むならば、最低数カ月の休業およびその後の数年間の労働時間の短縮にも関わらず、雇い続けてくれる職場の制度が必要であるし、職場において不可欠なキャリアが本人に備わっていなければならない。それゆえ、出産を先延ばしにしてキャリアを積み重ねなければならない。その結果出産年齢は高くならざるを得ないので、1人か2人の子供しか産むことができなくなる。仕事との両立の問題は、福祉の充実によってある程度解決できるのではないかと思う。私がベルギーの大学に留学中には、利用しやすい託児所、父親が育児に参加しやすい環境など、ヨーロッパ諸国における育児への支援体制の充実を感じることができたし、大学でも子供を持つ女性研究者がたくさん活躍していた。
 また、文化としての子育てについての意識の変革も必要と思われる。科学技術が進歩した今日でも、出産・育児の負担はあまり軽減されていないように思われる。生物としてのヒトの成長速度は変えられないけれども、子供と親とのふれあいを保ち子供の感性を損なわずに、育児の負担を軽減する工夫を真剣に考慮する時期に来ていると思われる。育児の大変さを親として当然すべきこととして受け入れるのではなく、ある程度開放されて余裕を持つことで、わが子を本当にかわいいと思える母親が増えるのではないだろうか。
 一方で不妊治療に関しては、この十数年の技術の進歩はめざましい。またクローン羊の出現によって、ヒトのクローン技術についても論議がされるようになった。現在のところは禁止されているものの、将来、不妊症の治療などに応用されることになるかもしれない。動物による借り腹や代理母機械の登場も決して夢物語ではなく、21世紀中にクローン人間は技術的には実現可能になっているだろう。個人の遺伝子がそのまま後世に伝えられるクローンの登場は、これまでの有性生殖による進化機構そのものの変化を意味する。我々はそれを受け入れるかどうかの選択をせまられるであろう。その過渡期においては、倫理的な論争や、高額な費用のため高所得者しか利用できない、などの様々な問題が噴出してくるに違いない。そうした時期を乗り越えた未来に、なお私たちが健全な遺伝子プールと健全な文化のプールを維持していることを願いたいものである。



参考文献

(1)リチャード・ドーキンス「生物=生存機械論」日高敏隆、岸由二、羽田節子訳,
 紀伊国屋書店, 1980.
(2)デズモンド・モリス「裸のサル」日高敏隆訳, 河出書房新社, 1969.
(3)Inoue, M., Mitsunaga, F., Nozaki, M., Ohsawa, H., Takenaka, A., Sugiyama,
 Y., Shimizu, K. & Takenaka, O.: Male dominance rank and reproductive
 success in an enclosed group of Japanese macaques: with special refere nce to post-conception mating. Primates 34: 503-511, 1993.
Inoue, M.: Application of paternity discrimination by DNA polymorphism to the analysis of the social behavior of primates. Human Evolution 10 :53-62, 1995.


情報誌「岐阜を考える」1998年秋号
岐阜県産業経済研究センター


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