蓮田善明の一年

文・道下 淳
(岐阜女子大学地域文化研究所 エッセイスト)




蓮田善明氏と敏子夫人(諏訪時代)
 熊本県人で、蓮田善明という国文学者がいる。歌人・詩人・評論家で、本居宣長や鴨長明の研究者でもあった。作家の三島由紀夫を発掘したのも、この人という。太平洋戦争では二回にわたり出征、終戦のときシンガポールで自決した。四十二歳。

 蓮田のプロフィルを簡単に紹介すると、以上のようになる。彼は岐阜に縁がある。というのは一年間だったが、県立二中(現加納高校)の教師をしていたからである。普通一年程度教えたところで、生徒の心を捕らえることは難しい。しかし彼は違っていた。生徒の心のなかに、しっかりと食い込んでいたのである。三十年ほど前、筆者は二中教師時代の蓮田を知りたくて、精力的に取材をした。彼の教え子たちは、その印象を宝物でも見せるように語ってくれた。そのとき、すばらしい教師がいたのだなーと、教え子たちをうらやましく思った。その二中は、昭和三年(一九二八)の四月に開設された。校舎は岐阜市加納南陽町の現在地に建築中であった。そのため約百五十人の生徒たちは、加納西丸町の加納小学校に間借りをしていた。広島高師を出た蓮田が、この間借り校舎へ赴任してきた。ここが、教員生活のスタートとなった。

 蓮田は、芝居の女形にでもしたいような美男子であった。このことを、生徒たちはよく覚えていた。当時活動写真(映画)の俳優に、林長二郎という人気者がいた。後の大スター長谷川一夫である。その林によく似ていた。そこで生徒たちは「うちの長二郎先生」と、親しみを込めて呼んだ。

 「当時は林長二郎に似ていると思ったが、作家の太宰治にも似ているところがあった。林プラス太宰、それが蓮田先生だった」と、教え子のひとり片山武夫さんは語っている。

 蓮田は国語・漢文・作文の科目を受け持つかたわら、学級主任や学芸部係も引き受けている。学校では、とかく型破りの教師だった。桃太郎の童話を漢文で教えたり、漢訳の教育勅語を白文で出して句読点や返り点などを付けさせた。よく教科書以外の本を使い、生徒をびっくりさせた。「どこまでも先生について行きたい−と、心の中で思い続けた。先生の体のぬくもりのようなものを、半世紀近くたった現在でも感じる」と、やはり教え子で教育畑を歩き続けてきた平田準一さんが回想する。

 こんなこともあった。それは作文の時間にクラス全員が加納城本丸に出かけた。蓮田は作文にこだわらず、詩・短歌・俳句をはじめ水彩画でもスケッチ画でも好きな作品づくりを許可した。つまり自由時間にしたのである。このようなことが、再三あったという。生徒たちは歓迎したが、当時としては型破りの教育方法に、苦い顔をした教師もいた。筆者が敏子夫人から聞いた話である。

 岐阜憲兵隊が突然、二中生徒を対象にアンケート調査を行った。蓮田の教育が原因でないか−と、その事を後から聞いた敏子夫人は思ったそうである。この年の秋、岐阜中学(現岐阜高校)で日ごろ厳しい配属将校を、生徒たちが胴挙げの際わざと落とし問題になったことがある。また全国的に共産党員の大検挙があった。これらと生徒を対象にしたアンケートは無関係ではないようだ。

 「二〜三年ほど岐阜にいたかったと、申しておりました」と、敏子夫人。それが引き抜きとはいえ一年で長野県立諏訪中(現清陵高校)に転勤する。彼の心境に、どのような変化があったのだろうか。

 蓮田は加納鉄砲町三近くに、下宿していた。同年六月、同郷の師井敏子さんと結婚したが、敏子さんの実家の事情で、来岐が遅れた。彼が岐阜から敏子さんに出した手紙が「蓮田善明全集」(島津書房刊)に、収録されている。「よく隣の店で、あなたの声そっくりの声がするのでハッとする。子供のように夕方になると心があせる」など新妻を思う言葉や、また次のような短歌や詩が手紙に記されている。

  ※
 この頃の恋の繁けく夏草の苅りはらえども生いしく如し
  ※
 朝!朝は八手の葉のように健康です。
冷水マサツと体操で赤らんだ顔が
 小鏡の中でかがやく!
 爽やかに振りきつた目と艶ついた唇が
 あなたを呼ぶ!
 青い、匂うような七月の朝!
  ※

 いい詩である。また八月十五日までに二軒並んだ借家を建ててもらい、私たちと体操教師夫妻が入居の予定−といった内容の手紙もある。筆者が敏子夫人に、岐阜での滞在期を聞いた。即座に「八月十七日から十月三十日まででした」との返事があった。このように半世紀近く後までも、はっきり在岐期間を覚えておられたのは、充実した新婚生活を送られたためと筆者は受け取った。それに「八月十五日までに」と記された手紙の内容とも合致する。

 『蓮田先生=ニコニコ・頭の毛をムシヤムシヤ( )作文の好きな(酒井)中々美男子(森崎正)消えるように行かれた(浅野龍)残念( )』以上は昭和四年発行の「校友会誌」回顧記欄に生徒たちが書いた寸評である。これだけでも、彼の人物が分かろう。



情報誌「岐阜を考える」1998年冬・春合併号
岐阜県産業経済研究センター


今号のトップ メインメニュー