関の美濃刀

元岐阜県博物館長
廣田 照夫


 

 かつて、岐阜県の五大地場産業の1つだった関市の打刃物・洋食器工業については、平成8年の冬号で述べた。その際、「美濃刀」についても触れたが十分ではなかったので、改めて取り上げてみた。

 その昔美濃国の関は、名刀「関の孫六」に象徴されるように、戦国動乱時代(1467〜1600年)に諸国の刀匠たちが、関に集住し、「関七流」と呼ばれる刀匠たちの系譜が成立したほど隆盛を迎えたのである。

 「関の孫六」という言葉は、「美濃刀」のすばらしさを表した代名詞になったが、その「関の孫六」とは戦国時代の大永年間(1521〜1527年)に美濃国の刀匠として刀身に「三本杉」と称する刀紋を施し、折れず、曲がらず、切れ味の良い名刀を造った金子孫六兼元(二代目)だといわれている。初代兼元は今の大垣市赤坂町辺りの刀鍛冶で、刀匠三阿弥兼則の「孫」で、父が「六郎左衛門」であったことから「孫六」と称したといわれ、二代目孫六のときに関に移って活躍したとされている。

 もう一人、関の名工といわれている和泉守兼定がいる。兼定の刀は、「五の目」という刀紋を施した気品の高い作風で知られ、「之定」と「疋定」の銘がある。前者は二代目で、後者は三代目とされている。

 こうして諸国の刀匠が関に集住し、多くの名工を輩出した関刀鍛冶の発祥の歴史をたどってみよう。もともと刀鍛冶は、鎌倉時代(およそ1192〜1333年)に山城国(京都府)、大和国(奈良県)、相模国(神奈川県)、備前国(岡山県)で盛んになり、この4か国に美濃国が加わって、この5か国が刀鍛冶の一大集住地として、「五箇伝」と称されるようになった。そして、関鍛冶の元祖は鎌倉末期の「元重」だと伝えられている。

 岐阜県博物館(関市小屋名・百年公園内)著『美濃の刀剣』によれば、平治(1159〜60年)の頃、今の揖斐郡大野町に住んでいたという刀工外藤、仁安(1166〜68年)の頃、今の大垣市青墓町に住んでいたとされる刀工泉水などが美濃国の刀工として知られるようになったのがはじまりのようである。それに鎌倉初期に造られたとみられる「美濃国為国」(貞応2年・1222)が知られているが、この時期には、関はさきの4ヶ国のような刀剣産地になっていなかった。だが、鎌倉末期から南北朝期(1333〜92年)にかけて、「三郎兼氏」が大和国から多芸郡志津(養老郡南濃町志津)に、同じ頃「金重」が越前国から関へ、それぞれ移住して来た。さらに越前国から「国長・国行・為継」らが赤坂(大垣市赤坂町)へ、大和国から「兼光」が関へ、次々と諸国から移住して来て、美濃国の刀鍛冶は隆盛期を迎えた。

 室町期後半(1479〜1566年)に入ると、室町幕府の弱体化に伴って政情不安が高まり、応任の乱(1467〜77年)を境に、戦国動乱の世へと移っていった。そこで、斬れ味と堅牢さの実用本位を追求して来た「美濃刀」への需要が急速に高まった。

 このような中で、大和国から移住して来た「兼光」を祖とする「関の刀鍛冶」(一説に元重、また一説に兼重だといわれている)は、鍛冶仲間の自治組織である「鍛冶座」を結成し、刀祖神を奈良の春日大社(祭神武みか槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)から、関の春日神社(南春日町)に分祀し、同社を関刀鍛冶の本拠地として活動し、最盛期を迎えた。一方刀匠たちもそれぞれの流れによって、善定派(兼吉)・室屋派(兼在)・良賢派(兼行)・奈良派(兼常)・得永派(兼弘)・三阿弥派(兼則)・得印派(兼安)の七派を形成し、技を競った。これを「関七流」と呼んでいる。

 勿論、当時の美濃国には関ばかりでなく、蜂屋(美濃加茂市)・坂倉(坂祝町)・赤坂、清水(大垣市)などでも「美濃刀」は打たれていた。そうした関以外の刀鍛冶たちを「末関鍛冶」と呼んでいる。

 ところで、さきの『美濃の刀剣』によれば、「美濃刀の造形は、鎬が高く、重ねを薄くし、長さも長寸のものは少なく、手持ちが極めて良好である。地鉄の質は緻密で強靭性に富み、刀文もまた焼入れが十分で硬度が高く、しかも粘り気があって刀こぼれなどもせず、実用面も考慮して製作されている」と記されているように、美濃刀の鍛法の基本は大和伝にあるとされている。その大和伝は、作風面からみると古典的で、その源は正倉院の大刀の流れを受けているとされている。

 日本刀が出来るまでの工程は、1)砂鉄 → 2)玉鋼 → 3)積み沸し → 4)折り返し鍛練 → 5)固め → 6)素延べ → 7)火造り → 8)荒仕上げ → 9)土取り → 10)焼き入れ → 11)荒研ぎ → ここから次の研師の作業に移る。

 このように、義国争乱の世を背景に日本の刀剣の最大生産地として繁栄した関鍛冶は、慶長5年(1600)におこった「天下分け目の関ヶ原合戦」で、徳川家康が勝利し、徳川300年の泰平の世が開かれて、刀剣需要は急速に減退し、関在住の刀匠たちも四散して行った。関刀鍛冶の源流については、さきの冬号で触れたように、なぜ刀剣生産の立地条件が十分でなかった関の地に一大生産地が出現したのか、という理由を明らかにせねばなるまい。それにはこの地域一帯を支配していた古代豪傑ムゲツ氏を視野に入れない限り、明らかにならないであろう。

古式日本刀鍛練公開 日本刀鍛練場(関市南春日町 関市産業振興センター)
 TEL 0575-23-3825
 3〜9月、11月は毎週第一日曜日。
 1月は2日、10月は第2土・日曜日に実演。

 

関伝日本刀鍛練技術保存会
(平成7年)
 刀匠 18名
 研師 15名
 鞘師 8名
 柄巻師 2名
 白銀師 2名
 彫刻師 1名
 塗師 2名

なお、現在刀匠として関市指定無形文化財技術保持者は5名。刀の展示は岐阜県博物館および関市産業振興センターの刀剣展示場室。(完)