元 白秋の妻、御嵩に

文・道下 淳
岐阜女子大学講師

吉祥寺 庭は近年整備された 妙章尼が建てた吉祥寺の石柱

 昭和12年10月のこと、東濃路を走る国鉄(当時)中央線の上り列車内で、中年の女性が脳いっ血で倒れた。乗客たちの協力で、多治見駅から担架で多治見の校条医院に運ばれた。この女性は多治見の虎渓山永保寺に参禅するため、長野県蓼科からやってきた中村妙章尼であった。
 妙章は数奇な運命をたどった女性であった。大分県・別府在の造り酒屋の娘で、江口章子といい、結婚に失敗上京した。そこで詩人北原白秋を知り、大正5年に結婚した。”バツイチ”同士であった。それ以前、白秋と前妻の俊子(松下)との結婚が刑事問題化するなど、世間の話題になっていた。また章子の後に佐藤菊子と結ばれ彼はやっと家庭的にも落ち着くことができた。この白秋と3人の妻たちをめぐる人間模様を、作家の瀬戸内晴美さんが長編小説『ここ過ぎて』に描いた。3人のうち、章子についてのウェートが高い。それだけ作者の思い入れの大きかったことを示すものであろう。
 大正9年5月突然、白秋と離婚した章子は、京都・大徳寺で座禅を組んでいた。そのとき茶人千利休の墓のある同寺の塔頭聚光院の住職中村戒仙師と出会い、やがて結婚した。彼女43歳のときである。このことは白秋前夫人の再婚として、新聞にも報道された。
 戒仙は長野県・蓼科に観音堂を建立、彼女が堂守を務めた。虎渓山への参禅旅行はそのときのことである。校条医院を退院、戒仙に連れられて来たのが、現可児郡御嵩町古屋敷の吉祥寺であった。戒仙は京都と御嵩とを往復しながら、看病に当たった。彼女は右手が不自由になっており、それに胸も患っていた。
 昭和13年正月に、彼女が吉祥寺から知人に出した年賀状が『ここ過ぎて』に紹介されている。一部を引用させてもらう。

 『(前略)山を繞らす丘には雉子兎も来り古池には鴛鴦や鴨も自らむれ極めて閑寂の境に御座候間、御序の折には御尋被下度願上候(後略)
 中央線多治見駅よりバス御嵩町行四十分
 高山線太田駅御嵩町軽便より十丁』

 前記『御嵩町軽便より十丁』とあるのは、今の名鉄広見線御嵩駅からの距離らしい。
 私は御嵩町時代の章子を追って、十数年前吉祥寺を尋ねたことがある。寺は丘陵地帯を抜け古屋敷から可児市久々利へ出る山中にあり、山腹に大きな石を積み上げて境内を確保していた。寺というより民家風の切妻造り平屋建てのお堂で、玄関にかかげられた「華獄山」の文字がよかった。静かなたたずまいで、にぎやかなことが好きな彼女にとり、寂しい生活だったことだろう。
 寺は留守だった。古屋敷まで戻り彼女のことを聞いて回ったが、記憶している人は少なかった。せっかくこの土地に残された文壇裏面史の一部分なのにと思うと、残念な気がした。彼女は俗名の章子と尼僧名の妙章との両方を使っていたこと。頭を丸めたのは、この寺に来てからのこと。2回ほど出入りがあったものの、足かけ4年ほど住んだらしいことを知った。以下は古屋敷や顔戸など、御嵩町内で聞いた彼女の話である。

 ▽ 当初は戒仙師も来られたようだが、若い僧がときどき来て、境内の草取りや力仕事をしていた。また看病人の尼さんが滞在していたこともある。(『ここ過ぎて』に登場する鉄心師と妙貞尼のことだろう)
 ▽ 寺へ行ったら妙章さんが縁側に足を投げ出し、ぼんやりしてみえた。声をかけると「座禅中だから静かに」と、厳しい表情でにらまれた。
 ▽ 野菜を届けた。妙章さんがお礼だと言って、短歌を書いた障子紙の切れはしを下さった。きれいな字で、章子と記されており、本名だと知った。
 ▽ 妙章さんは不自由な体で、杖にすがりながら托鉢に出られた。ムラで少しばかりの地芋(里芋)をもらわれ、休み休み運ばれた。見兼ねて私が子供に言い寺まで運ばせた。
 ▽ 昔、大井(恵那市)でツグミを食べた。大変おいしかったので、また食べたい−からと話された。
 ▽ 大ダライが無いので、夏場には漬け物桶で行水をされた。

 話を聞いているうちに、言葉の端ばしから彼女はムラから厄介者扱いにされていることがうかがわれた。ツグミを食べた話は、彼女としては最も幸福な時代のこと。それだけにこの思い出を、しっかり抱いていたに違いない。
 これは大正7年11月、白秋・章子夫妻(当時)が弟子の牧野暮葉氏に招かれ、今の恵那市長島町永田の鳥屋を訪ねたときのことである。白秋も気に入ったらしく『永田の鳥家の印象』『永田山の印象』などの副題で、『別れ霜』『ちび鶫』『渡り鳥』などの詩を詠んだ。うち、次の『美濃びとに』の詩は、詩碑として昭和46年、現地に建てられた。

ほうい ほうい ほうい、
霜が濃いぞ、鶫よ。

 章子が代筆した永田訪問の礼状が、牧野氏方に残されている。『(前略)全くうれしい有難い2日間でした。鶫からの印象一生忘られぬ事と思います−(後略)』。 この前年、白秋は『蛍』と題した随筆を発表した。そのなかで貧しいため、妻(章子)にダイヤの指輪も買ってやれない−と記す。このように愛されていたときだけに、白秋と一緒に食べたツグミの味は、生涯忘れられなかったのであろう。