5 医療

脳科学からの提言
――人が輝いて生きることのできる社会――


松本 元
(理化学研究所 脳科学総合研究センター ブレインウェイ(脳道)グループ グループディレクター)


●序―生き物とは何か
  生き物とは、 それ自体が目的をもつ存在である。 バクテリアなどの原始的な生物は、 自分の外から 「構成システムを維持するための物質やエネルギー」 を選択的に取り込み、 取り出すことを目的とする。 この目的を 「生理欲求」 の充足という。 すなわちバクテリアは生理欲求の充足に向けて、 行動規範を作り行動する (生きる)。 さらに進化した生物では、 物質やエネルギーを選択的に取り込み・取り出すだけでなく、 さらに 「物質やエネルギー以外の事柄 (これを情報と呼ぶ)」 を選択的に取り込み・取り出すことを目的とする。
  生物にとって、 最も重要な情報とは何だろうか。 それは生物がこの世に生まれて最初に触れ、 関わった情報であるように、 進化過程で遺伝情報に書き込まれている、 と考えられる。 例えば、 鳥が卵から孵って、 最初に触れたものがボールであると、 この鳥は生涯、 ボールとの強いプラスの関係を持たずには生きてゆけないように、 遺伝情報が発現する。 このように、 情報を選択し、 取り込み・取り出すことを目的とする欲求を 「関係欲求」 と呼ぶ。 人は胎生 (母胎の中である程度発育し、 親と同じ形をもって生まれてくること) なので、 人との間に強いプラスの関係をもつことが、 遺伝的に与えられる。 人が人との強い絆なしに生きられない存在であることは、 生まれたばかりの赤ちゃんの本能的行動からもよく判る:
  「赤ちゃんがお母さんのおっぱいを一所懸命飲んでいる。 そんな赤ちゃんを満ち足りた表情で眺めているお母さん。 すると赤ちゃんはおっぱいを飲むのを一休みする。 ……赤ちゃんがおっぱいを飲むのを休むと、 必ずと言っていいほどお母さんは赤ちゃんに声をかける。 裏をかえせば、 赤ちゃんはお母さんからの語りかけを引き出そうとして、 おっぱいを飲むのを中断するのである。 つまり赤ちゃんは赤ちゃんなりのやり方で、 お母さんとのコミュニケーションを求めているのだ。 人間の赤ちゃんは、 生きるために欠かせないおっぱいの摂取のさなか、 母親とのコミュニケーションを求める。 これはすなわち、 赤ちゃんにとっては、 おっぱいを飲むことも母親とのコミュニケーションを図ることも、 どちらも生きて行く為に欠かせないことだということを意味する」 (林正寛、 1997年 「生きること伝え合うこと」 創文386巻1〜2ページ)
  動物の赤ちゃんの中で、 人だけが生理欲求の充足のためのおっぱいを吸う行為の中で、 間欠的に母親とのコミュニケーションを求める関係欲求の充足のための行為を示すことが知られている。 猿やチンパンジーの行動観察実験では、 赤ちゃんはおっぱいを一気飲みであることが知られている。 人は人との絆が動物の中で特に強化された動物である (松本元、 1996年 「愛は脳を活性化する」 岩波科学ライブラリー42, 岩波書店)。
  生き物が何故、 生理欲求と関係欲求の充足を目的とする存在として進化したのかは、 生物が非線形非平衡系から発展・分化したことと密接に関係する。 非線形非平衡システムとは、 系の外から物質・エネルギーあるいは情報が系に流入し流出してゆく系である。 このように、 外界とたえず物質・エネルギーあるいは情報をやりとりする系 (開放系) は、 時間と共に構造や機能が自己発展し、 空間・時間秩序が形成されることがよく知られている。 これは、 従来物理学が主として取り扱ってきた平衡系あるいは平衡に向かう方向にある非平衡系 (線形非平衡系) が閉じた系であり、 時間と共に系が時間的にも空間的にも無秩序化する (エントロピー増大) のと、 著しく対比的である。 生物は、 従って、 非線形非平衡システムを外から与えられるのではなく、 自分で創り出すことを目的として生理欲求・関係欲求の充足をめざす存在として自己発展した時から、 生物となったと言える。 さらに非線形非平衡系を自己形成することに加え、 自己増殖することで、 ダーウィン淘汰と同型のことが分子進化で起こり得ることが明らかにされているので、 生物の基本目的は次の2つのカテゴリー中の3つの欲求充足であると言えよう。
  1) 非線形非平衡系システムの自己形成のための生理的欲求と関係欲求の充足。
  2) 自己増殖系であろうとすることから、 進化が進み性分離が起こった後の動物では性欲求の充足。
  生物は、 これらの3つの基本欲求の充足に向けて行動規範を作り、 行動する存在であると言えよう。

●脳の目的
  脳は 「自らが選択し取り込んだ情報を処理し出力する (取り出す) ために発達した器官」 である。 脳の目的は、 自ら情報を選択すること、 そして選択した情報を処理するための仕組みを創り出すことである。 脳からの出力は、 この目的のための手段であり、 脳の目的ではない。 すなわち、 脳から出力すること (言動、 認知および感情表出) は情報処理の仕組みを獲得するための手段である。 この事を 「学習は出力依存性である」 と言う。 例えば、 風景をよく覚えようとするなら、 その景色を百回眺めるより一回スケッチする方がよく覚えられるのは、 脳の学習戦略が出力依存であるためである。 ボケの防止には、 まず日常の生活の中で積極的に行動し、 会話し、 考え、 感情を豊かに表現することである。
  脳とコンピュータは、 共に情報処理システムであることからよく比較される。 コンピュータの目的は出力することである。 コンピュータが入力情報を得ると、 プログラムに従って情報を処理し、 出力する。 人はコンピュータが情報処理すべき情報を選択し、 その情報処理の仕方をプログラムとしてあらかじめコンピュータに与える。 コンピュータはこれに従って、 命令されて動く情報処理機械である。 これに対し、 脳は、 情報処理の仕組みを獲得することが目的で、 出力することはそのための手段である。 すなわち、 脳とコンピュータの情報処理システムとしての本質的違いは、 目的と手段がちょうど入れ替わっている、 ということである。
  脳は情報処理の仕方を獲得することが目的であるので、 人の生きる目的はどれだけのことを成すか (どれだけの出力が得られるか) ではなく、 情報処理の仕組みを創ること、 いわば高きに向かって成長するプロセスそのものにある、 ということである。 それは脳は自己 (人そのもの) であるとみなせるからである。 臓器移植が進んで、 たとえ脳の移植が技術的に可能になったとしても、 脳を移植されることは、 自己そのものを失うことになり、 脳の丸ごと移植は意味がない。 脳は自己そのものであり、 脳の目的は人の生きる目的である、 と考えられるからである。 こうして人生の目的は、 頂点に立つことではなく、 苦しくても高きに向かって進んでゆくプロセスにある。 山に登る人が 「なぜ山に登るのか」 と尋ねられた時、 「そこに山があるから」 と答えるのは、 まさに合脳的であると言える。 山に登るのに頂点が必要なのは、 高きに向かって進むためのあくまで指標であって、 頂点に達することが目的ではない。 山に登って時々小高い丘に立ち止まり、 自分がどれだけ引き上がったかの確認のために頂点が必要なのである。
  システムの評価はその目的に対して行われるべきであろう。 コンピュータは、 出力することが目的であるので、 コンピュータがどれだけのことができるかの出来高でコンピュータが評価されるのは正当である。 実際、 コンピュータに対しては、 このような評価が行われている。 これに対し、 人は成長するプロセスそのものに目的があるので、 人がどれだけのことを現在成すことができるのか、 過去成したのかの出来高で評価することは、 脳本来の目的に適わず人を苦しめる。 出来高評価で、 挑戦して失敗することに高い評価を与えない時、 人は飛躍的に大きな成長をすることは決してできないだろう。 人本来の目的が高きに向かって成長することであるから、 成長にあるプロセス自体が重要なのであって、 そのプロセスの中に喜びが感じられるよう、 本来的に創造されているのである。 たとえ、 高校野球で122対0で負けて、 位置としては極めて低い状況の中にあっても、 野球そのものに一生懸命取り組んでいる時、 選手たちには至福感があり、 それを観ている私たちもその姿に感動するよう、 脳は生得的に仕組まれている。 人の幸福はその人の居る位置 (その人の出来高) ではなく、 高きに向かって進もうと努力するその傾きの度合である。 この視点からの幸福では、 その人の位置がむしろ低い方が高きに向かうベクトルの傾きを大きくすることがより容易にできる。 これが 「こころの貧しい人たちは幸いである」 「悲しんでいる人たちは幸いである」 と言われる由縁である。
  人が輝いて生きることのできる環境としての社会システムが、 まず中心に据えるべきことは、 人の評価を出来高評価からプロセス評価にすることであろう。 人に対する出来高評価が社会的に慣習化されているので、 この事を脳が繰り返し学習する。 これによって、 出来高評価の規範を脳が創って持ってしまう。 とくに、 マークシート方式と偏差値評価を採用した現在の学校教育は、 子供を出来高で評価するために 「問題が与えられたら、 自分ができる問題がどれかをまず見つけ、 易しい問題から始めなさい」 と繰り返し繰り返し教える。 この事は、 難しい問題に挑戦するな、 という禁止令を身に付けさせる。 この結果、 人は成長するために最も重要な生きがい感となる夢を探しそれに挑戦しようとせず、 自分が今やれる事を処してゆくことで人生を過ごすことを脳の仕組みとして身に付けてしまう。 夢は容易に達せられない人生の目標であり、 この実現に向けて取り組んでいる時、 人は本来幸せ感があるように創造されている。 この脳の目的 (脳のこころ) にまったく適合せず、 むしろ社会慣習に迎合して脳の情報処理の仕組みを獲得するのでは、 人は輝かない。 人は独自の夢を自分で設定し、 その実現をめざして挑戦し生きることで輝く。

●脳を創る―目標設定
  脳は処理すべき情報をまず自己設定し、 その設定した目標を処理するための仕組みを自己獲得する。 大脳は古皮質と新皮質の二重構造から成り、 古皮質の目標は基本的欲求の充足である。 古皮質が入力情報を得ると、 まず入力情報の意味概念が、 粗いが極めて早く捉えられる。 例えば、 夏の夕方、 高原の林に囲まれた芝生の広場でビールを飲んでいたとしよう。 この時、 細くて長いものがガサガサという音と共に動いたと思ったとしよう。 大脳古皮質は、 感覚器を通して得た上記の入力情報から、 動いたものは蛇であると即断し、 生命維持の基本欲求の充足に向け、 逃げるなどの行動出力と共に、 この基本欲求という目標から入力情報を評価し、 快、 不快を判定し情動出力する。 大脳の新皮質が情報処理すべき目標は、 まず第一に、 古皮質が粗いが早く意味概念化したものである。 大脳新皮質は古皮質が捉えた意味概念をさらに時間をかけ緻密に論理的理由付けをすることで検討する。 すなわち、 古皮質が蛇だという概念設定を仮説として、 この事を立証できるかどうか検討する。 この結果、 実は街灯用の電気コードを誰かが足にひっかけて動いたのだ、 と判る (認知的出力) と、 再び元の場所に戻ってビールを飲む (行動出力) などし、 ホッとする (情動出力) のである。 しかしこの時、 古皮質からの早いが粗い認知で、 逃げるとか胸がドキドキし汗が流れるなどの第一次的な行動や情動は既に出力されているのである。 このような時に出た汗を“冷や汗"という。 こうした学習経験を通して、 古皮質の早くて粗い意味把握の直感回路は情報処理の仕組みを変化させ、 よりよく外界世界の状況やその時間経過に古皮質だけで対応できるよう成長する。
  新皮質が成長すると共に、 人においては新皮質自身の内的世界としての目標が必要とされる。 人が人以外の動物と決定的に違う点は、 人においてのみ脳自身が脳の内的世界としての目標を欲することに至る、 という点であろう。 内的世界の目標が必要とされる時期において、 この目標が設定されない期間を青年期と呼ぶことができるだろう。 人以外の動物あるいは青年期より以前の人では、 外的環境の状況やその時間経過に対応して時々刻々に脳は入力情報の粗い意味概念把握を行い、 それに基づき行動選択を即断することで生きる。 しかし、 人は前頭前連合野が異常進化した動物であることから、 大脳新皮質自身の内部世界が行うべき情報処理の目標を内部世界の環境の中から設定することに至るのであろう。 これに対し、 人以外の動物では、 前頭前連合野はいろいろな種類の感覚情報の意味概念を統合する場として用いられるのであろう。
  内的世界の目標は、 外的世界からの目標よりも、 脳の階層構造上、 上位にある。 さらに後者は外的環境やその時間変化に対応するための目標であるのに対し、 前者はこれらに依存せず長期間にわたって継続するものである。 これらから、 内的世界からの目標に何を設定するかが、 われわれの生きがい感であり、 われわれの人生を決定することになる。
  例えば、 西武ライオンズから1997年にフリーエージェントの権利を行使して読売ジャイアンツに入団した清原和博選手が、 入団時の記者会見で、 「ジャイアンツのユニフォームを着ることが小さいころからの夢だった」 という趣旨を披瀝した。 このことは、 清原選手のそれまでの人生目標が 「巨人軍で野球をすること」 であったことを示している。 その後の彼の不振の原因は、 この夢が叶えられたことで人生の最終目標を失い、 脳がフリーラン状態となりスランプに陥ったためであると考えられる。 巨人軍に入ったことで外的状況は一変し、 多くの期待を強く感じて、 これに応えたいという日々の目標を設定しても、 このことの内的世界からの真の意義が見いだせないので、 この目標が達成できないのである。 もし清原選手が、 例えば野球道を究めることを彼の人生の目標とし、 巨人軍に入ることはそのための手段である、 と自ら変えるのなら、 深刻なスランプから抜け出ることもできるであろう。
  これに対し、 巨人軍長嶋茂雄監督は、 内部世界の目標設定よりむしろ、 外部世界の状況とその時間経過から設定した目標に従って行動規範を作り、 行動する典型的な体育会系人間であると思われる。 これは、 彼が天才的スラッガーであることと深く関連する。 球を上手にバットで打つには、 ピッチャーが球を投げ、 キャッチャーのミットにおさまるまでの極めて短い時間内で、 球種、 スピード、 コースなどに瞬時に対応することが求められる。 古皮質強化型の脳といえる. 古皮質強化型の脳を持つ人の性格は、 その人が置かれている状況や環境とその時間経過に応じて、 設定する目標を次々と変えるので、 定見がなくアバウトである。 例えば、 投手補強が必要な状況になると、 即戦力的な補強に全力を傾けるが、 長期的な視野に立った (内的世界からの目標としての) 補強は重視しない、 といった具合である。
  われわれは目標によって生きる。 目標が達せられる時、 すべて物事が順調にいって満足に思われるが、 この時から、 あるいはこの直前から、 脳の迷走状態は始まる。 例えば、 海難事故に遭い、 何日間も漂流して救助船に助けられた人を救うには、 温かい言葉や待遇であるより、 むしろ新たな目標の設定である。 遭難者の漂流中の目標は 「救助船に見つけだされ、 なんとか命が助かりたい」 の一事である。 このため、 救助されて新たな目標が再設定されるまでは脳活性は著しく低下し、 この結果、 免疫活性も下がるので、 救助される直前、 直後の取り扱いが生命の分かれ目ともなる。 昔、 海軍は遭難者を救助した後、 「帝国海軍軍人として日本国のために一身をもう一度捧げたい」 という軍人魂に大喝を入れるため鉄拳で制裁を加えてでも生きる意欲を持たせたとのことである。 救肋時に温かくホッとさせるような取り扱いは、 かえって遭難者を死に追いやることが多いと経験で知っていたからである。
  脳は成長することが目的であるので、 成長の具体的指標としての目標が必要ではあっても、 目標を達成することが脳の目的ではない。 登山家がどの山に登るかという具体的な目標をまず設定しなければ、 山の頂をめざして高きに向かえないのと同様である。 従って、 容易に達成されない目標としての夢を設定し、 その達成に至る段階をいくつかに分割し、 そのステップを一つ一つ実現してゆくことがよいのではないだろうか。 最も上位の目標に何を具体的に設定するかが、 わわれの人生を決定する。 人生で勝つことを目標にすると、 勝つことさえ難しい。 勝つことに近づいたと思うと、 脳活性が低下するからである。 目標が達成されそうになったら、 すぐさま次にめざすべき目標を設定することが大事である。 山で遭難した人が山小屋を目の前にして、 あと数十m〜数百m手前で死んで発見される、 ということは往々にして起こる。 勝つことより、 むしろ強くなること (成長すること) を目標にすることで結果として勝つのである。
  「いのちが一番大切だと思っていた頃、 生きるのが苦しかった。
  いのちより大切なものがあると知った日、 生きているのがうれしかった」 (星野富弘)
  われわれは自分が一番上位とする目標、 いわば“われわれが握っているもの"に振り回される。 われわれの思いをはるかに超えた存在を思って、 その存在に対する畏怖の念を抱いて生きることで、 平安を得るという人生もあるだろう。

●脳を創る―愛は脳を活性化する
  大脳古皮質の目標は、 基本欲求の充足である。 基本欲求の中で精神性と深く関連するのが、 関係欲求である。 人での関係欲求は、 胎生期を通して、 人は人との絆なしに生きられない存在であることとして表現される。 生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんとのコミュニケーションを赤ちゃんなりの非言語的手段で図ろうとするのは、 この欲求充足に基づいている。 欲求が充足されると脳活性が高まり、 平安な満足感が得られるのである。 脳活性が上がると、 脳は出力を出し易くなるので、 出力依存性の学習によって、 この時脳に入力している情報を処理するための仕組みをより効果的に創ることができる。 この時、 お母さんに抱かれおっぱいを飲み話しかけられているのであれば、 これらの事柄を認識するなどの脳の仕組みがより効率良く形成される。 一般的に脳への入力情報を脳の目標から価値ありと判断すると、 「快」 な感情となり脳活性が上がり、 この入力情報を処理する脳の仕組みが、 より効率良く形成される。 “好きこそものの上手なれ"と言われる由縁である。 好きと思えない事柄に対しては、 「不快」 な感情が表出され、 脳活性が下がるので、 この事柄を処理するの脳の仕組みは形成されにくい。 出力依存性学習の効率を高められないからである。 そこで、 基本的には好きでない事柄に対処するためには、 その事柄に添えて脳活性を上げるための補助的な事柄 (これを報酬と呼ぶ) を付随させる、 あるいは好きでない事柄でも対処しないと基本的欲求を脅かすなどの“おどし"を課すなど、 やらざるを得ない状況にして、 頑張らせる、 あるいは頑張る。 しかし所詮、 対処すべき事柄は好きではないので、 その事柄を処理する仕組みを創る学習効率を高くすることはできない。 “頑張り"で仕事を進めている限り、 その仕事を脳は完全に処することはできないだろう。 それのみならず、 頑張りは身体的にストレスであるので、 頑張りを長期に持続的に続けることは身体的に無理がある。 頑張ることが必要とされる場合は、 適当なインターバルで休息することが大切であろう。
  人との関係なしに生きられないので、 われわれは自分を判ってもらいたいのである。 判ってもらわないと生きられない。 「判ってもらう」 というのは、 認知的に判ることと感情的に判るという二つの側面がある。 前者は大脳新皮質の側での理由付けとして論理的・言語的理解であり、 後者は大脳古皮質側での直観的・非言語的理解である。 例えば、 失恋して悲しみのどん底にある友人を慰めるとしよう。 前者の慰め方は、 極端に言うと 「スタンダールの“恋愛論"によれば、 失恋することは悲しいことだよね」 と、 悲しいことの認識を通して慰めることである。 後者の慰めは、 失恋体験を通し失恋の悲しさ・苦しさを味わった人だけが、 その気持ちの共振として響き合い、 感じ合うことで行えるだろう。 どんな悲しみも、 人に判ってもらえたと思うことで、 脳活性が上がり、 快な感情に至るので、 その事だけで慰められるのである。 “治そうとするな、 判ろうとせよ"“悲しみはわかち合うことで半減し、 喜びはわかち合うことで倍増する"と言われる由縁である。
  人が 「判る」 ということは、 行動、 言葉、 感情、 考えなど脳から出力することを通して、 これらの出力の源となっている脳の内部世界に対して共感することである。 例えば、 オートバイを深夜大きな排気音をたてて暴走する男の子がいるとしよう。 その子がこの行為を通して何を訴えたいのかを判ることが 「その子を判る」 ということであろう。 孤独で淋しいことを判ってもらいたいための表現行動であるのなら、 暴走という行為に注目して、 これを止めさせようとすることは、 真の解決にはならない。 むしろ、 孤独で淋しいことを判ってもらいたいのだから、 この事を判ることが最も必要である。 その子が 「孤独で淋しいことが誰かに判ってもらえた」 と感じた時、 暴走する必要性もなくなり、 この子自身も脳活性が上がって快な気持ちとなる。 このように、 人の外部的に出力するもの (doing) ではなく、 その doing の発祥源としての内部世界 (being) を判ることを受容する、 という。 受容されることが、 自分を判ってもらったということであり、 この事で脳活性が高まり、 その時に入力した事柄により良く対処するよう脳の情報処理の仕組みが獲得される。
  脳は目標を設定しその事を成すための仕組みを創る。 このため、 まずやってみること (doing) が必要とされる。 しかし、 (やってみれば、 その事を成す仕組みが未だ獲得されていないので) 必ず失敗し挫折する。 この時、 このつらく苦しい状況の中で、 その目標に挑戦するエネルギーは何なのだろうか。 脳はその目標に挑戦し続けることで、 その解決への仕組みを獲得するのであるから、 脳を創る鍵はこのエネルギーを得て挑戦し続けることである。 それは、 その人を受容してもらうことである。 「あなたが何ができる、 何を成したかではなく、 あなたがあなたであるだけで素晴らしい」 と他人から受容され、 あるいは自分で自分を受容することができれば、 脳活性が上がり快な感情も得て、 苦しく困難な状況に立ち向かうことができる。 「愛は脳を活性化する」 という由縁である。

●結び  ――  人が輝いて生きる時
  脳は自分で目標を設定し、 そのことを成すための仕組みを創る。 人が自分の人生の舵取りを自分で行うことができることを自己決定能力といい、 これは脳が自身で目標を設定できることである。 脳が目標を自己決定し、 このための情報処理の仕組みを獲得することで人は輝く。 この意味で、 競争原理を必要善であるという論理に立脚して構成されている現在の社会は、 人の本性に不適合であり、 人を輝かせない。 それは、 この論理は 「人は本性的に怠け者である」 という人の見方を基盤として、 従って人間同士を競わせることで怠けるという本性を修復的に脱却させようというのである。 しかし、 人は本来燃えて生きたいのである。 燃えて生きる目標が見いだせない時、 怠惰に振る舞うにすぎない。 生涯の生きがい感としての目標を欲する青年期に、 この目標が設定できないと、 脳は情報処理すべき方向性が決定されずフリーラン状態となり、 振る舞いが怠惰になるのみならず極めて苦しい状況が続く。 いわゆる“青年期の悩み"である。
  明治36年 (1903年) 5月、 当時東京第一高等学校の一年生で、 秀才の誉れの高かった藤村操氏 (当時18歳) は“巌頭之感"と題す辞世の文をミズナラの木に刻んで、 日光華厳の滝に投身自殺した。 「ホレーショの哲学、 竟に何らのオーソリティを価するものぞ。 万有真相は唯だ一言にして悉す。 曰く 『不可解』。 我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。 既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし」。 すなわち藤村操氏は哲学書を読んで人生の意味を考察したが、 結局生きがい感は見いだせず、 華厳の滝に身を投げる方が生き続けるより不安がない、 と結論したのである。 その後、 日光華厳の滝は青年の自殺の名所となり、 明治の終わりまでに百人以上の若者がここで生命を絶ったことが記録に残っている。 現在はマークシート方式と偏差値評価を教育に導入して若者を出来高評価することが行われていて、 生涯目標のような高い目標を持ってはならない、 という禁止令を与えているので、 このような人間としての悩みから開放されている様に、 一見みえる。 その代わり、 現代の教育に順応した若者は、 自分の現在の状況の中で入れる学校を選んで進学し、 また学校から社会へ出る時も、 例えば入れる会社を探して入る、 という傾向に陥り易い。 生涯目標が先に設定されているのであれば、 この実現に向けて必要とされる学校や職業を選択し、 このために準備する。 脳は思えばそのための仕組みを創るのであるから、 まずイメージがあってその事の現実化が後追いとして実現する。 したがって目標が脳にしっかりと具体的にイメージされた時は、 それが実現したのと等価である。 その事によって、 創造的な事柄を生み出すことができ、 この過程にあって目標が実現できない過程の苦しさに楽しみを見い出すことができる。 創造的とは、 自己選定した目標に自分なりの解決方法を見いだすことであり、 それはその人にとって創造的であると言える。 その解決法は既に他の人に見いだされたものである、 という事がその後明らかになったとしても、 その事はその人にとって独創である。 この所作の中にこそ、 脳の目的としての成長があり、 人生の喜びがあると考えられる。
  脳は環境によって創られる。 脳がたとえこの入力する事柄は脳にとって価値がなく無意味であると思っても、 その事が繰り返し繰り返し入力しまたその事に対処せざるを得ないとすると、 出力依存性の学習によってその事に対処するための脳を創ってしまう。 「門前の小僧、 習わぬ教を読む」 の由縁である。 この事は、 過去の経験で創りあげる脳ではまったく対処できない事柄に遭遇し、 自分自身の脳を大幅に変えることだけがこの解決の唯一の道である時、 この方法をとらざるを得ない。 例えば、 困難や苦労に直面すると、 多くの人は自分を取り巻く状況や相手が変わって欲しい、 とまず思うだろう。 自分の脳は過去の経験では周囲状況や自分が付き合ってきた人たちに適合するように創ってきたので、 周囲の状況や人が過去の経験と違うから対処できないのだから、 状況や他人が変なのだ、 と思うのである。

  米国の神学者ラインホルド・ニーバーは神への最もふさわしい祈りは何かと問われた時、 次のように祈るのが最も大切である、 と答えたということである。 「神様、 変えられることに対してはそれを変えてゆく勇気を、 変えられないことに対しては、 それを受け容れてゆく従順さを、 そして、 それが変えられることなのか変えられないことなのかを見極めていく洞察力を私に与えてください」。 現在の社会は、 人の本性 (脳の目的とこれを実現するための原理・具体的方法;これらを“脳のこころ"とここでは呼ぶことにしよう) に合致した社会環境や慣習ができていない。 人の出来高評価や競争原理がその代表的な例である。 しかし、 われわれがこのような社会の中で生まれ育つと繰り返し繰り返し社会環境や慣習に曝され、 それに対処せざるを得ないので、 知らず知らずに脳がこれらに対処する仕組みを創りあげてしまう。 そして、 それらが脳の本性と合わない時、 人としての真の苦しみを産む。 社会慣習が作る脳の慢性疾患とも言うべきものである。 脳を社会に適合させて創ってゆく時、 それを変えるべきか変えなくて良いのかの判断基準は、 脳のこころに適合しているかどうかが目安となる。 脳のこころ (人の本性) に適合して脳を創る時、 人は輝いて生きる。 そして、 この事を支援できる社会と社会システムを実現したいものである。


■松本 元 (まつもと・げん)
  1940年東京都生まれ。 1964年東京大学理学部物理学科卒業。 1969年東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了 (理学博士)、 同大学理学部物理教室助手。 1971年より通産省工業技術院電子技術総合研究所主任研究官、 研究室長、 研究部長、 首席研究官を経て、 1997年理化学研究所脳科学総合研究センター ブレインウェイ (脳道) グループ グループディレクター、 現在に至る。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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