2 文明・文化

宗教のちがいは文明の衝突をもたらすのか


内藤正典
(一橋大学大学院社会学研究科教授)


冷戦から文明の衝突へ
  ソ連や東ヨーロッパ諸国の社会主義体制が相次いで崩壊していったことで、 冷戦という世界を二分する緊張関係は緩和された。 しかしその結果、 紛争や戦争のない平和な世界が実現されたかというと、 そうはならなかった。 今度は、 さまざまな地域や国のなかで、 民族紛争や宗教紛争といわれる争いが頻発するようになったのである。
  その兆しが最初にあらわれたのは一九七九年に始まったアフガニスタン内戦だった。 親ソ政権を樹立しようとしてソ連はアフガニスタンに軍事介入した。 それに対して、 イスラム勢力が強く反発して激しい内戦となった。 結局、 一九九二年に社会主義政権が倒れ、 ソ連は影響力の低下を身にしみて味わうことになった。
  一方、 おなじ一九七九年、 イランでは親米派のパハレヴィ (パーレビ) 王制がイスラム勢力によって打倒された。 イスラム・シーア派の指導者ホメイニー師を中心に、 パハレヴィ体制のもとで貧しい生活を強いられてきた民衆が蜂起して、 西欧化をめざしてきた政府を倒して、 イラン・イスラム共和国を樹立したのである。
  アメリカをはじめとする西欧諸国には大きな衝撃だった。 西欧化することで近代化を達成するというのは、 西欧の世界にとって、 いわばあたりまえの筋道だった。 それをイスラムという宗教に突き動かされた人たちが壊してしまったのである。 いったい何が起きたのか? 当時のアメリカでは、 多くの人びとがイランで起きたイスラム革命とは何であるのかを理解できなかった。
  だが、 王制が崩壊した直後に、 テヘランのアメリカ大使館がイスラム勢力の群衆によって占拠されたことで、 アメリカ国民の怒りが爆発した。 それはいままで味わったことのない侮辱だった。 頭にターバンを巻き、 顎髭をたくわえた眼光鋭い男達が、 拳を振り上げてアメリカを非難する姿は、 社会主義諸国とはまったくちがう 「敵」 が突然目の前にあらわれたことを示していた。

なぜ、 イスラムをかかげて戦うのか
  一九八〇年代にはいると、 「イスラム」 を掲げた暴動や紛争が急速に増加していく。 一九八一年、 エジプトのサーダート大統領が過激なイスラム組織のジハード団によって暗殺された。 八三年にはレバノンで、 ヒズブッラー (ヒズボラ:神の党) による爆弾テロがおきて、 駐留していたアメリカ、 フランス、 そしてイスラエルの軍隊に大きな損害を与えた。 八七年にはパレスチナのイスラエル占領地でインティファーダとよばれる民衆の蜂起がおきたが、 そこでもハマースというイスラム組織がイスラエル兵や市民を巻き込んだテロを活発化させている。
  九〇年代に入っても、 イスラムをかかげるテロは増加した。 九一年、 アルジェリアの総選挙でイスラム救済戦線 (FIS) というイスラム政党が圧勝した。 軍部はこの政党を厳しく弾圧して非合法化した。 過激なイスラム組織はこれに反発して激しいテロを繰り返し、 多くの犠牲者をだしている。 九三年には、 アメリカのニューヨークでイスラム過激派によるとみられる爆破事件が発生。 九五年にはフランスのパリで、 アルジェリアでのイスラム勢力弾圧に抗議するテロが頻発。 九七年には、 エジプトのルクソールで、 過激なイスラム組織による観光客への無差別テロが起きて、 多くの日本人が犠牲となった。
  こうして挙げていくと、 この二〇年あまりのあいだに、 「イスラム」 を旗印にした暴力や紛争が急激に増えていることがわかる。 イスラムという宗教を軸にまとまった集団が、 さまざまな地域でテロを起こしたり、 紛争の当事者として戦っていることは確かである。 だが、 それでは彼らがなぜそういう暴力に訴えているのか、 はたして最初から暴力に訴えていたのか。 実はそこのところはほとんど知られていないのである。
  先に挙げた紛争やテロも、 個々に見ていくと原因がある。 イランでは、 パハレヴィ王朝のもとで西欧化による近代化政策を進めていたが、 その恩恵に浴したのはほんの一握りの豊かな人びとにすぎなかった。 アメリカかぶれした一部の金持ちだけに都合のよい社会、 多くの貧しい人たちは、 そのような社会は不公正だと感じていた。 イスラムという宗教は、 もともと経済活動を通じて豊かになることを否定していない。 イスラムの創始者である預言者ムハンマドも商人だったのである。
  しかし商売で得た富は、 貧しい人とのあいだで分配されるべきだとイスラムは教えている。 豊かな人が貧しい人に富を分け与えることで、 社会の公正を保つべきだというのである。 ところが、 当時のイランでは極端なまでに、 それがなされていなかった。
  イスラムの教えを忘れて、 アメリカの真似をした国づくりをめざしてきたのが間違っていた。 信仰を忘れて西欧化こそ近代化だと思いこんできたことが誤りだった。 こう思い至った民衆は、 ホメイニー師のあとに従って王制を打倒したのである。
  アルジェリアで起きているイスラム過激派の暴動は、 多くの一般市民を犠牲にするという悲惨な事態となってしまった。 ことの発端は、 先に書いたように、 九一年の総選挙だった。 それまでアルジェリアという国は、 民族解放戦線 (FLN) による一党独裁の社会主義体制をとっていた。 八〇年代にはいって、 社会主義体制の国があいついで崩壊し、 民主化への勢いが加速していくにつれて、 アルジェリアでも複数政党制に移行することになった。
  総選挙の結果、 イスラム救済戦線 (FIS) が圧勝した。 ところが、 市民が選んだ政党を政府と軍部が力でつぶしてしまった。 民主化のための第一歩だった選挙が暴力によって否定されたのである。 その結果、 否定されたイスラム政党は分裂し、 暴力で政府と戦う組織がテロに訴えるようになった。
  多くのアルジェリア系移民が暮らすフランスは、 かつてアルジェリアを植民地支配していた宗主国である。 フランス政府は、 軍と政府によるイスラム救済戦線への弾圧に対して見て見ぬふりをした。 「危険なイスラム勢力」 の台頭を抑えるなら仕方がないと判断したのである。 イスラム政党を支持した人びとの怒りは、 こうしてフランス政府にも向けられ、 パリやリヨンで爆弾テロ事件が起きる結果となった。
  エジプトのルクソールでおきた無差別テロ事件は、 日本人観光客が犠牲になったので日本でも大きく報道された。 この事件を起こしたグループは、 現在のエジプトという国家のありかたに強く反対するイスラム組織である。
  エジプト国民の大半はイスラム教徒だが、 国家としてはイスラムにのっとった運営をしているわけではない。 イスラムで禁じている酒も販売しているし、 イランのように女性がみな黒い衣装で身体を覆うことを求めたりもしない。 外交についても、 アメリカなど西側諸国と緊密な関係を保っている。
  だが、 国内の貧富の差は大きい。 農村部と都市部との格差だけでなく、 カイロやアレキサンドリアのような大都市では、 高級住宅街と貧困層の住宅街とのあいだには居住環境に大きな差がある。 工業が発達していないこともあって、 都市部の貧困層は安定した給与所得を得ることが難しく、 豊かになるチャンスは少ない。
  こうしたことへの不満が、 たえずイスラムによる世直しへの期待と結びついていく。 一部の金持ちが良い暮らしをしていることに対して、 国のあり方が間違っていると考える人たちは、 国家をイスラム体制につくりかえることで公正な社会が実現できると考える。
  しかし、 体制の変革を嫌う現在の政府は、 イスラムを柱とする国づくりを主張する勢力を弾圧し、 彼らの政治活動を封じ込めてきた。 サーダート前大統領が、 イスラムによる改革を訴える過激派に暗殺されてからは、 穏健なイスラム勢力とは仲良くして、 過激な勢力を徹底して弾圧する政策をとっている。
  ルクソールでの事件は、 国内での政治的主張の道を閉ざされた過激なグループが、 ムバーラク政権に打撃を与えるために観光客を襲撃したのである。 エジプトにとって、 外国からの観光客が落とす金は重要な外貨獲得源となっている。 そこを狙った犯行だったのである。
  こうして見てくると、 ひとつひとつの事件には背景がある。 イスラム教徒にとって、 ある理不尽な状況を選挙や外交交渉で解決できなくなったとき、 彼らはイスラムを旗印にして暴力に訴える。 言うまでもないが、 暴力を肯定してはならない。 暴力は、 新たな敵意を生み、 敵意は暴力となって跳ね返るにすぎない。 宗教や民族を旗印にかかげて争うことになると事態が泥沼化することは多くの紛争が示している。

宗教が違うから対立するのか?
  テロや紛争が頻発するようになったことに対して、 西欧諸国はその原因をひとつひとつ明らかにしようとはしなかった。 テロや暴力は民主主義や人権に対する重大な挑戦である。 そんな行為をする人は野蛮で遅れた人間にちがいない。 西欧世界の人びとの多くは、 中東で起きた事件や紛争をみてそう考えた。 アメリカやイギリス、 そしてフランスの政府も、 イスラムの名の下に起きる暴力を強く非難した。
  二十一世紀には、 共産主義にかわってイスラムが西欧世界にとって脅威となるだろうと言う人たちも増えている。 アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは、 『文明の衝突』 という本のなかで、 二十一世紀には、 文明の違いによる対立から世界で紛争が起きるようになると語った。 なかでも、 イスラムと西欧世界との対立は深刻なものになると予測している。
  メディアは、 イスラムとイスラム教徒に対して、 強く、 否定的なイメージをつくることに貢献している。 イスラムに関するテレビの映像には、 ターバンを巻いた髭面の男性や、 全身を真っ黒なチャドルに包んだ女性たちが登場することが多い。 横断幕をかかげ、 何事か叫び、 拳をふりあげる映像が世界中に流れた。 イスラム教徒は、 狂信的で信仰のためには暴力をいとわないというイメージが映像からつくられるのに時間はかからなかった。

  こうして、 「イスラムという宗教は危険だ、 イスラム教徒たちは民主主義や人権を守らないらしい」 という評価が西欧諸国に蔓延した。 このような評価が一般化されるとき、 昔から蓄積されていたイスラムについての怪しげな知識や風説が総動員された。
  「イスラムって、 一夫多妻の宗教なんでしょう。 それに女の人にはヴェイルで顔を隠せって言うんでしょ。 女性の人権を無視してるよね」
  「イスラムって、 砂漠の宗教でしょう。 砂漠の風土ってすごく厳しいから、 人間が荒っぽくなるんだ。 一滴の水をめぐって、 人間どうしが争うようになる。 だから、 アラブ人って好戦的なんだよ。 そういう彼らの宗教がイスラムなんだ」
  はじめにあげた、 一夫多妻について、 イスラムの聖典であるコーラン (神の啓示をムハンマドが書き記したもの) は、 こう記している。 (コーランの訳文は岩波文庫版 『コーラン』 井筒俊彦訳による)
   孤児にはその財産を渡してやれよ。 よいものを (自分でせしめて) その代わりに悪いものをやったりしてはいけない。 彼らの財産を自分の財産と一緒にして使ってはいけない。 そのようなことをすれば大罪を犯すことになる。
   もし汝ら (自分だけでは) 孤児を公正にしてやれそうもないと思ったら、 誰か気に入った女をめとるがよい、 二人なり、 三人なり、 四人なり、 だがもし (妻が多くては) 公平にできないようならば一人だけにしておくか、 さもなくばお前たちの右手が所有しているもの (女奴隷をさす) だけで我慢しておけ。 その方が片手落ちになる心配が少なくてすむ。 (女の章、 二、 三節)
  文字通りに読めば、 当時 (七世紀) の戦争で孤児となった子どもを保護するために、 複数の妻との結婚を認めるというのであって、 一夫多妻を推奨しているわけではない。 もちろん、 現在のイスラム社会で一夫多妻が一般的にみられるわけでもない。 この話は、 いわばイスラムを批判するときのシンボルとして使われているが、 それでは、 一夫一婦を定めている西欧世界で、 ほんとうに一夫一婦が守られているだろうか。
  一夫一婦制をとっている国で、 夫婦以外の男女と 「不倫」 の関係になると、 当事者の男女やその子どもは、 遺産の相続その他で不利な扱いを受けることが少なくない。 イスラムでは、 婚外の関係をもった相手を差別的に処遇するくらいなら、 最初から複数の妻を平等に処遇する方が理に適っているというのである。
  女性のヴェイル着用については、 さまざまな背景がある。 これも女性の美しい部分や恥部を覆い隠せというコーランの規定に由来している。
  「それから女の信仰者にも言っておやり、 慎み深く目を下げて、 陰部は大事に守っておき、 外部に出ている部分はしかたがないが、 そのほかの美しいところは人に見せぬよう。 胸には蔽いをかぶせるよう。 自分の夫、 親、 舅、 自分の息子… (中略)、 女の恥部というものについてまだわけのわからぬ幼児、 以上の者以外には決して自分の身の飾りをみせたりしないよう」 (光の章、 三一節)
  実はヴェイルだけでなく、 イスラム教徒の女性たちは、 身体全体をゆったりと覆うコートも着ている。 身体の線も見えないようにするのである。 彼女たちに、 なぜそういう服装をするのかをたずねると興味深い答えが返ってくる。
  「だって、 これを着てれば中に何を着ていても分からないでしょ。 着る物にむだなお金を使わなくてすむし、 男性からじろじろ見られない」
  彼女たちからみると、 肌を露わにして闊歩する女性たちこそ、 男性の視線を集めようとしている、 つまり女性の 「性」 を商品化しているのではないかというのである。
  二つ目の話はイスラムに風土論的な解釈をもちこむ場合に登場しやすい。 砂漠的風土→一滴の水も大切→人びとは一滴の水をめぐって争う→そこに住んでいるアラブ人も好戦的→彼らの宗教のイスラムも荒々しい。 この論理展開は、 和辻哲郎の 『風土』 をはじめ、 いろいろな書物に登場する。
  だが、 実際はむしろ次のようになる。 砂漠的風土→一滴の水も大切→だからこそ人びとは大切な水を共有し分け与える→イスラムもホスピタリティ (もてなしの心) や富の分配を重視する。 私自身、 なんども経験したことだが、 イスラム社会では、 たとえ見ず知らずの人間であっても、 遠くからやってきた旅人を心から歓待してくれる。 暑いさなかに砂漠で遊牧民のテントを訪ねたときも、 コーヒーやお茶をふるまってくれる。 砂漠を旅している人びとは、 いつなんどき水を失って危機におちいるかもしれない。 そういうときに出会った人間どうしは助け合うのである。

創られる 『文明の衝突』
  十字軍のころには、 イスラム教徒がキリスト教の聖地エルサレムを支配していたことが、 イスラムに対する西欧世界の敵意の源になった。 一六世紀から一七世紀にかけて、 オスマン帝国がヨーロッパに支配を拡大すると、 イスラムの脅威はヨーロッパの人びとにとって現実的なものになった。
  一九世紀から二〇世紀のはじめのころ、 今度は、 ヨーロッパの列強諸国が中東・イスラム地域を植民地として支配するようになった。 そうなると今度は、 イスラム教徒は野蛮で遅れているから啓蒙してやらなくてはいけないという優越感が西欧世界で強くなった。
  そして二十世紀も終わろうとするころ、 ふたたびイスラム教徒が世界の各地で異議を申し立てるようになった。 今日、 イスラム教徒が多く住む国のほとんどは、 イギリスやフランスの植民地から独立した。 独立して以来、 西欧世界をモデルにして国づくりをしてきた。 しかし、 相変わらず貧しい国が多いし、 国のなかでも貧富の差を解消できない。
  西欧世界をモデルにしたことがまちがいだったのではないか。 異議を唱える人たちは、 こうしてイスラムの復興によって世直しをすべきだと考えるようになったのである。 これをイスラム復興運動という。 もともと、 イスラムという宗教には、 信仰心を個人の心のうちにとどめておくという発想がない。 イスラム教徒の家族、 社会、 そして国家もイスラムを正しく実践することによって公正なものになると考えている。
  その結果、 イスラムの理念を政治に反映させようとする勢力がうまれ、 イスラム政党をつくって政治参加をもとめる。 しかし、 多くの国の指導者たちは、 政治と宗教を分離する政教分離の考え方を西欧諸国から学んでいるので、 イスラムが政治に介入することを嫌う。 国民のあいだにも、 イランのようなイスラム国家になってしまうと自由が奪われると懸念する人もいる。 その結果、 世界のあちこちでイスラムを掲げる反体制運動が起きるようになったのである。
  西欧世界では、 すでにキリスト教の教えに従って国家を運営する国はなくなっている。 近代化とともに、 宗教は国家に干渉しないという政教分離の考え方が定着しているのである。 そのため、 西欧諸国からみると、 二十世紀も終わろうとするいまになって、 宗教が政治の世界にまで台頭してくるイスラム復興の現象は、 ひどく時代に逆行した復古主義的な運動にみえる。
  すでに述べたように、 イスラム復興の動きは、 西欧世界と戦うことを目的にしているわけでもないし、 キリスト教徒に戦いを挑んでいるわけでもない。 自分たちが暮らす社会をイスラムによって改革しようとしているのである。 しかし、 この復興運動に対して、 西欧諸国が蔑視や侮辱を繰り返していると、 今度は、 西欧世界に刃が向けられることになる。
  一九世紀から二十世紀にかけて、 西欧世界は政治・軍事・科学技術・経済の分野で著しく発展した。 だが、 社会や文化のありかた、 あるいは人間の価値観まで、 西欧世界での標準が世界の標準になる根拠はない。 西欧世界の価値観とは異なる価値観をもつ人びとを差別したり蔑視してよいわけもない。
  彼らの声に、 直接耳を傾けることなく、 勝手な思いこみや自分のものさしで相手を測ってしまうと、 対立はいっそう深刻なものになる。 そして、 宗教がちがうから、 文明がちがうから対立するのも仕方ない。 気に入らないなら力でねじふせようという危険な発想へと吸い寄せられていくのである。


■内藤 正典 (ないとう・まさのり)
  一橋大学大学院社会学研究科教授、 社会学博士。
  1956年生まれ。 1979年東京大学教養学部教養学科卒業。 1982年同大学院理学系研究科地理学専門課程中退。東京大学助手、一橋大学助教授を経て、1997年より現職。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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