2 文明・文化

相対主義のなかの「文化」とその創造


足立信彦
(東京大学大学院総合文化研究科助教授)


1. はじめに
  第二次世界大戦後、 社会や政治を問題にする時、 「文化」 はつねに添えもののように扱われてきたと言えるだろう。 経済成長が至上命題であり、 技術がめざましい発展をとげ、 そして、 イデオロギー上の対立が世界の勢力関係を決定していた時代には、 「文化」 は、 社会を測るにふさわしい尺度とはとうてい考えられなかった。 なぜなら、 それは、 定義しにくい微妙な感情と深くかかわっていて、 あまりにも曖昧模糊としているように思われたし、 また、 その目盛りが細かく、 さして重要ではない民族だの宗教だのの違いをいちいちことこまかに示すように思われたからである。
  ところが、 今や、 むしろ 「文化」 をもって社会を語る風潮が盛んになってきた。 イデオロギーの重しがはずれ、 国民国家の枠が揺らいでいるといわれる現在、 人々は、 より身近なものに視線を向け始めたように見える。 多文化社会や地域主義といったようなスローガンには、 自分たちの社会の中にある細かな違いに注意を向け、 その多様性を尊重していこうという姿勢を見てとることができる。 多文化社会とは、 異なった文化的背景をもつ人々が、 ひとつの社会のなかで、 お互いの文化を尊重しながら暮らしてゆこうというコンセプトのことだが、 自分たちとは異なる人々を吸収・統合しようとはせず、 さりとていたずらに敵視・排斥するわけでもないその姿勢に、 社会の新しいあり方の予感を読みとろうとするのはあながち見当違いではないだろう。
  もっとも、 多くの移民をかかえるヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国とは違い、 日本では、 一部の地域を除き、 まだ、 外国人との共生が焦眉の問題として浮上しているとは言い難い。 そのため、 多文化社会という言葉は一般には馴染みが薄いかもしれない。 しかし、 地域主義ならば、 言葉そのものは知らなくても、 問題の在り処はただちに理解されるのではないだろうか。 圧倒的な中央の影響力に抵抗しつつ、 地方独自の個性、 そのあり方を主張していくというのは、 政治的、 経済的課題であることはもちろんだが、 同時に文化的な課題でもある。 ある地方の地域としてのまとまり、 その自覚を促すのは、 まず何よりもその地方がもつ独自の文化の役目だからである。 そしてそのためには、 文化の 「創造」 が必要とされる。 文化は、 昔から伝えられた古き伝統の形をとりながら、 実はそのつど、 時代の要請にあわせて新たに創りだされるものだからである。
  しかし、 どのような 「文化」 が創りだされるべきなのか?それを考えるために、 そもそも現代の社会的争点において、 「文化」 が果たす役割をまず見てみることにしよう。

2. 現代社会にとっての 「文化」 の意味
   「文化」 という言葉には、 どこか曖昧でいかがわしいものがつきまとっている。
  最近、 そのことをよく示す事件が起きた。 報道によれば、 カナダ駐在の日本総領事 (当時) が、 妻を殴ったとして現地警察の取り調べを受け、 その際、 総領事は 「妻を殴るのは日本の文化」 であると釈明したとされる*1。 この発言が現地のマスメディアに大きく取り上げられ、 日本の野蛮で女性差別的な習慣を示すものとして大きな話題を提供した。 かつて佐藤首相が、 夫に何度も殴られたことがあるという夫人の発言が原因で、 欧米のマスコミにwife beaterとして知られるようになったことがあったが、 この事件はその記憶をも呼び覚まし、 野蛮な 「文化」 をもつ国日本のイメージはますます強化されたようである。
  かりに報道の内容が事実であるとしての話だが、 総領事の行動は、 その行為自体、 現代日本の基準に照らしてとうてい許されるものではない。 しかし、 さらに言語道断なのは、 その言い分である。 一個人の性格的欠陥、 もしくは思慮を欠いた振る舞いを、 一国の文化であると強弁するとは、 総領事が負っている職責を考えれば、 無責任を通り越して、 職業に対する裏切りとすら言えよう。
  だが、 ここでひとつだけ気になることがある。 彼の釈明の中にどこかで聞いたことのあるような響きが含まれているのだ。 彼の行為や言い分が言語同断であることに変わりはない。 しかし、 彼が自己弁護のために利用した議論、 他人の眼には許しがたいと映っている事柄を文化の差をひきあいに出すことで弁護するというタイプの議論、 それは、 わたしたちにとってそれほど異様ではなく、 むしろしばしば耳にする議論の仕方ではないだろうか。 しかも、 それは、 かならずしも、 明らかに弁護の余地のない事柄を無理矢理正当化するために使われるとは限らない。 たとえば、 誰かが自分の判断基準を絶対に正しいと信じていて、 それを一方的に他人に押しつけようとする時、 押しつけられた側が、 あなたと私は立っている前提、 生まれ育った環境、 その中で育まれた価値観、 つまり 「文化」 が違うのだから、 あなたの基準で私を裁かないで欲しい、 と訴えるということがある。 これは、 判断基準を押しつける側が強者であって、 押しつけられる弱者の側が、 正面からそれを否定できない場合にしばしば用いられる戦術である。 個人の場合なら、 権威や権力において、 国家の場合なら、 政治的、 経済的関係において、 どちらか一方が圧倒的に優位な立場にある時、 身を守るために弱者に残されている手段は少ない。 このような議論は、 その数少ない防衛手段のひとつだと言えるだろう。
  これをかりに文化相対主義と呼ぶことにすれば、 文化相対主義は、 しばしば社会的少数者の有効な武器となる。 たとえば、 地方文化の担い手が、 中央の文化による容赦ない平準化からその独自性を守ろうとする時、 あるいは、 移民集団が、 受け入れ国における文化的同化の圧力に対抗して自分たちのアイデンティティを擁護しようとする時、 文化相対主義はかれらに心強い防波堤を提供してくれるのである。
  しかし、 一方で、 この文化相対主義は、 総領事のような人々に恰好の口実として利用されもする。 彼も、 社会的少数者と同じ身振りをしながら、 「あなたたちの基準で私を裁かないで欲しい」 と訴えるわけだが、 妻を殴ることすら許容する文化があるという身勝手な言い分の核心には、 さらに恐るべき主張が隠されている。 それは、 文化の違いを越えて通用するいかなる倫理的、 道徳的規範も存在しない、 というものである。 他人を肉体的に傷つけるような行為ですら、 文化によっては、 その特有の道徳観、 家族観のもとで容認され得るという考えは、 最終的には、 いかなる行為の是非もそれが背景とする文化次第で変わり得る、 という主張に人を導いていく。 ある行為が許されるべきか否かを判断する絶対的な基準は存在しない、 ということになる。
  私たちから一切の判断基準を奪ってしまう、 このような泥沼の相対主義の危険は、 ヨーロッパでは昔から知られていた。 プラトンの敵対者として哲学史に名をとどめるソフィストたちの 「詭弁」 と言われるものの本質は、 絶対的な真理に対する相対主義者たちの容赦ない攻撃であった。 だからこそ、 イデア論を奉ずるプラトンとしては、 かれらをあれほど激しく批判せずにはいられなかったのである。 このような相対主義に対する恐怖は、 いまだにヨーロッパ人の思考の中に深くしみついている。 たとえば、 一部のヨーロッパ人は、 しばしば、 イスラム教徒の移民集団に対して、 かれらの 「遅れた」 家族観や家庭内における権威主義を批判し、 女性に対する差別的取り扱いを激しく告発する。 その時、 かれらヨーロッパ人をつき動かしている動機には、 かならずしもイスラム教徒への偏見や自文化を絶対視するヨーロッパ中心主義ばかりではなく (もちろんそういう要素もあるだろうが)、 文化によって判断基準が変わることを認めることがやがて泥沼の相対主義へ陥ることへの言いしれぬ恐怖感があると言えるだろう。
  一方で、 社会的弱者の武器であり、 他方では、 暗い深淵へ通じる扉を開けるこの相対主義の二面性について、 さらに詳しく見てみることにしよう。

3. 相対主義の二面性
  フランスの社会学者タギエフは 『偏見の力』*2という本の中で、 この二面性の働き方を整理している。
  かれによれば、 ある移民集団の固有文化に対してホスト社会の側から加えられる圧力には二種類ある。 ひとつは、 文化を越えて通用すべき道徳や価値規範がある (たいていはホスト社会のそれ) としたうえで、 それらが普遍的であるという理由で、 移民集団にその受け入れを迫る、 というものである。 移民集団が自分たち固有の価値観を守るため、 このような圧力に対して抵抗しようとする場合、 前節で説明した弱者の武器としての相対主義が戦略として採用される。 ホスト社会の側が押しつけてくる道徳や価値規範は、 かれらが信じているような普遍的なものではなく、 ホスト社会の文化に深く依存している。 同様に、 移民集団の側も、 かれらの文化に根ざした道徳や価値規範をもっているのであって、 どちらが正しいとか優れているとかいうものではないのだから、 私たちの道徳や価値規範に干渉しないで欲しい、 私たちがあなた方に対して干渉しないのと同じように、 と論じるのである。
  あるいはまた、 ホスト社会は、 次のような圧力をかけてくることもある。 移民集団は、 ホスト社会とは異なった文化をもつ人々である。 それを認め、 尊重することにしよう。 ところで、 文化はそれに属する人々の道徳や価値規範を決定するものであるから、 実は、 移民集団の法意識もまたかれらの文化によって強く規定されている。 一見、 かれらはホスト社会の法に従っているように見えても、 実際には、 それらの法を尊重する気持ちはもっていない。 法は、 ひとつの社会を成り立たせる根幹であり、 異なる法に従う人間同士が同じひとつの社会のなかで暮らしていくことはできないから、 かれらにはこの社会から出ていってもらうしかない。 このような具合に、 移民集団を攻撃してくる人々もいる。 それに対して、 移民集団の側からおこなわれる抵抗は、 先ほど述べた論理とはまったく異なるものにならざるを得ない。 すなわち、 たしかに私たちは固有の文化を保持しているけれども、 それはきわめて個人的なきわめて限定された領域で通用するものに過ぎないのであり、 私たちはホスト社会の道徳や価値規範、 そして法に従う意志があるし、 現に従っている。 なぜなら、 それらのものは文化から独立した普遍性をもっているので、 異なった文化に育った者でも充分受け入れることが可能だからだ、 とかれらは反論することになる。 この場合、 相対主義的に議論しているのは、 移民集団を攻撃する人々の方である。
  いまやヨーロッパ諸国の多くは、 移民社会と化している。 旧植民地から流れ込んだ人々に、 外国人労働者、 近年では、 旧社会主義圏からやってくる人々が加わり、 異質な社会集団をめぐる状況は混迷の度を増している。 そして、 それをめぐる議論、 移民の排除を叫ぶ風潮や少数者の権利擁護のための論陣によって織りなされるさまざまな言論もまた、 一層複雑化し、 紛糾の度を深めるばかりである。 そのひとつの原因として、 ここで問題にしたような文化相対主義のもつ二面性をあげることができるだろう。 文化相対主義は、 現代社会のさまざまな問題や立場が、 それをめぐって敵味方入り乱れ入れ替わる、 不可思議な対立軸である。

4. 孤独と共存
  このような現状を見ると、 文化相対主義の本質に対する疑惑が誰の胸にも浮かんでくると思われる。 たしかに、 その範囲が純粋に個人的なレベルで、 「文化」 的な事柄に限られているあいだは、 それほど問題は生じない。 あなたがどのような衣服や食物、 どのような音楽や書物を好もうとも、 それはあなたの自由であり、 私はそれを尊重するだろう、 あなたが、 私の好みを同様に尊重してくれる限り、 とわたしたちは言えるし、 現に言っている。 私たちはすでに、 文化的には相対主義的な時代に生きているのである。 ところが、 問題がひとたび、 人と人との関係に関わる事柄におよぶと、 つまり、 道徳や法の領域に属することになると、 事態はたちまち厄介になる。 ある場合には、 弱者が強者の独善と強制に対し抵抗する武器になるかと思うと、 他の場合には、 強者が弱者を迫害し追放する道具ともなる。 文化相対主義は、 ヤヌスのごとき二面性を発揮し出すのだ。
  文化相対主義は、 ひとつの社会理論として、 つまり、 社会的な事柄について考え、 それを制御していく方法としては、 重大な欠陥をもっているのではないだろうか。 この疑問に答えるためには、 多少迂遠ではあるけれど、 文化相対主義の淵源とされる一八世紀ドイツの思想家ヘルダーにまでさかのぼってみなければならない。
  ヘルダーは、 まず、 人間が理性によって自己形成していく、 という啓蒙主義の理想に、 批判的なメスを加えるところから始める。 人間は、 自分たちが信じているほど、 自分自身をその理性にしたがって作り上げてきたのだろうか。 もし、 人間が、 みずからの理性だけにしたがって自己を形成できるものならば、 人類は歴史の進行にしたがってかくも異なった相貌を示す多様な集団に分裂などしなかったはずだ。 理性は、 究極的には、 どの人間にとっても同一な、 普遍的なものなのだから。 かれは人類の歴史を検討し、 そこで、 人間がどれほど自分たちのあずかり知らぬ要素、 土地や気候といった自然条件によって左右されてきたかを発見する。 現に存在している人類の多様性は、 人間の自己形成が、 理性ではなく、 温暖乾湿といった自然に反応する感覚を通じてなされてきたことを示している。 「われわれの間だけでも、 ものの感じ方のありさまがいかに異なっているかに注意を払い、 さらにこの地上のさまざまな風土のもとで暮らしている多くの人々のことを考える時、 大波がうち寄せては返す大海を前にしているような気持ちにとらわれずにはいない。 すべての人間は、 彼自身の尺度をもっているのだ。」*3
  かれの文化的多元論は、 この認識を前提にして築かれていく。 世界は広大で、 その自然条件はさまざまである。 それゆえ、 人類が、 この地上にバラバラに散らばって住んでいる限り、 かれらの感覚を通じて形成されたかれらの感性、 欲求、 文化もまたバラバラで多様性に富むものとなった。 かれらは、 異なったものを食べ、 異なった住居に住み、 異なった家族形態をもつ。 異なったものを美しいと思い、 異なった歌を謡い、 異なった神を拝む。 人類の驚くべき豊かな文化的多様性は、 このようにして、 理性ではなく、 感覚の多様性によって産みだされた。
  ここから、 ヘルダーは、 啓蒙主義時代にはないがしろにされていた、 民話や伝承、 神話や伝説の重要性に注意をうながし、 後の時代に、 民衆文化や地方文化の研究が盛んになる基礎を築くことに成功した。 また、 ヨーロッパの文化的優越が毫も疑われなかった時代において、 たとえ経済力、 軍事力に劣る 「遅れた」 民族であっても、 その文化の価値においては、 ヨーロッパの諸民族といささかも変わらないことを主張した。 「いかなる樹木も、 他の木から空気を奪い、 成長を妨げるようなことがあってはならない。 ・・・樹木は、 自分自身の場所をもたねばならない、 みずから発芽して根から高みへとのぼり、 その先端に美しい花を咲かせられるように。」*4
  このようなヘルダーの考えは、 ヨーロッパが外の世界へと進出し、 世界を植民地に分割して、 支配と収奪を繰り返し、 現地の住民の文化や伝統を破壊し続けていた時代にあっては、 きわめて有効な武器となった。 広大な世界にバラバラに散らばっている人類を、 ヨーロッパ植民地主義が、 暴力的に一体化し、 平準化しようとしているように見えたからである。 そして、 私の考えでは、 まさにその点に、 今日でも文化相対主義が社会理論としてかかえている欠陥の原因があるように思われる。
  ヘルダーの思想は、 世界の広さを自明なものとし、 人類の諸集団が異なる自然条件ゆえにもつ感覚の多様性と欲求の多様性を前提にしてきた。 それらの諸集団は、 異なるものを合い求めるがゆえに、 争うことなくこの地上において平和的に共存できるものとされた。 かれらはそれぞれ異なる場所に離れて住み、 同一のものを争うことがない。 しかし、 現代においてわれわれが抱えているのは、 異なる文化、 異なる宗教、 異なる生活習慣をもつ人々が、 同一の場所、 同一の社会の中でいかに平和的に共存していくのかという問題である。 出自の異なる人々がひとつの社会の中で暮らしていく場合、 求められる社会的資源が常に異なるとは限らない。 宗教や生活習慣ならば、 多少の摩擦はあるにしても、 お互いに邪魔をせずに暮らしていくことも可能だろう。 しかし、 地位や権力、 社会的承認といったものは、 同じ社会に暮らしていく限り、 長期的にみれば、 いつかは争いあわねばならない対象である。 その時、 どのようにすれば、 平等で公平な争いができるのか、 という点で意見が一致せず、 コンセンサスを得られないのがわれわれの現状であろう。
  豊かな内面をもつ人々が孤独に離れて暮らすように、 人類がさまざまな諸集団にわかれていた時、 その時にこそ、 文化相対主義は、 ヨーロッパ植民地主義に対する痛烈な批判として機能した。 ヨーロッパは、 世界の大部分を過酷な政治的、 経済的支配のもとにおきながら、 その内部 (植民地をもたないドイツ) にすべての文化にはそれぞれ固有の価値があるという思想を培ってきた。 ところが、 それらかつての植民地がヨーロッパ内部へといわば大きく折り返してきて、 ヨーロッパ諸国内部に肌の色や宗教の異なる人々が溢れかえるようになった今日、 文化相対主義は両刃の剣であることが露わになりつつある。 移民排斥を叫ぶヨーロッパの極右政党、 フランスの国民戦線やドイツの共和党、 ドイツ民族同盟などは、 その主張の基盤に文化相対主義をおくことで、 移民集団との共存を拒もうとしているのである。 かれらは言う、 「異質なものは遠くにある時にのみ良いものである」 と。

5. おわりに
  遠いヨーロッパの二世紀も前の思想は、 現代の社会、 とくに日本の社会とは何の関係もない、 と思われるかもしれない。 にもかかわらず、 あえてそのような遠回りをしたのは、 ヘルダーの思想を振り返ることで、 われわれが、 いまだに、 異質な人々が同一の社会で共存するための適切な考え方を発見していないことがはっきりする、 と思うからである。
  八〇年代以降、 少数民族、 少数言語の問題をかかえる世界各国で、 多文化社会という考え方がクローズアップされてきた。 それは、 カナダ、 オーストラリア、 あるいはアメリカ合衆国といった自覚的な移民国だけの現象ではなく、 第二次大戦後多くの移民や外国人労働者を受け入れた西ヨーロッパ諸国も同じである。 少数民族や少数言語の権利回復を、 地方文化や地方語の復活と活性化という意味でとらえ直せば、 日本の地域主義もまた多文化社会の考え方と無関係ではないことがわかるだろう。
  しかし、 多文化社会という考え方は、 その新しげな装いにもかかわらず、 その根底ではいまだに文化相対主義的発想に基盤をおいている。 その意味では、 実は、 ヘルダーから二百年たった今でも、 異なった文化をそれぞれ対等なものとしてとらえるということの論理において、 われわれはほとんど進歩していないと言わざるを得ない。
  今われわれが直面しているのは、 一つの社会の中に、 さまざまな文化が併存し、 衝突し、 場合によっては入り交じろうとしている時代である。 このような状況にあって、 それぞれの文化の独立と対等性を尊重しつつ、 なおかつ排除することも孤立することもせず、 平和的に共存していくためにはどのような考え方が可能だろうか、 必要だろうか。
  少なくとも、 それは、 「異質なものは遠くにある時にのみ良いものである」 という論理にたやすく転化するようなものであってはならないことは確かである。 異質な文化をもつ人々と私たちが、 そのどちらのものでもない共通性によって結びつけられるような考え方が発見されなければならない。 誰のものでもない共通性。 もし創造されるべき 「文化」 があるとすれば、 それは、 孤立させ、 分断し、 人々を固定する従来の意味での文化ではなく、 この誰のものでもない共通性こそがそれだと思われる。

―― 注 ――
*1 1999年2月28日附朝日新聞の記事による
*2 Pierre-Andre′ Taguieff, La force dupre′juge′, Paris, Gallimard, 1987, p.408.
*3 Herder, Johann Gottfried: Ideen zur Philosophie der Geschichte der
    Menschheit, hrsg.v. Martin Bollacher, Frankfurt/M., 1989, S.287.
*4 同上、 S.316.


■足立 信彦 (あだち・のぶひこ)
  1985年東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。同年東京大学教養学部助手。1986年東北大学教養部講師。1988年同助教授。1990年東京大学教養学部助教授。 1996年同大学大学院総合文化研究科助教授、現在に至る。


情報誌「岐阜を考える」1999年記念号
岐阜県産業経済研究センター

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